石井祥裕(AMOR編集部)
「あなたにとって平和とは?」……この問いかけを自分に差し向けたとき、やはり、「主の平和」のことを書かないわけにはいかない、と感じさせられました。ここでは、一カトリック信者として、聞いてきたこと、感じていること、調べてみたことを一つに集めて書き記しておきたいと思います。
カトリック教会のミサでは、「平和の賛歌」というものがあります。ミサの交わりの儀のなかで聖体拝領を受ける前にご聖体におられるキリストを賛美する歌です。その最後の文言が昨年2022年11月27日に施行された新しいミサの式次第で一部変わりました。これまでは「神の小羊、世の罪を除きたもう主よ、平安をわたしたちに」だったところが、新たに「世の罪を取り除く神の小羊、平和をわたしたちに」になっています。原語はラテン語のパックス(pax)で、式次第の他のところでは「平和」と訳されています。なんでも現代のカトリック教会のミサ典礼書(1970年)の日本語版(暫定版 1978年)がまとめられる段階でもすでに「平和」で統一しようという案があったところ、どうしても「平安」がよいという意見が通ったとのことでした。
「平安」が残されたときの積極的理由は推察することしかできません。世の中で言われる「平和」と祈りの中で希求されているものとは異なるという意識がどこかにあったのかもしれない、と。「平安」には、心の安らぎ、霊的な憩い、という意味が感じられ、より宗教的、礼拝的に感じられたのではないか、と。
この観点からミサの式次第を見ると、この「平和の賛歌」の前の部分で、「教会に平和を願う祈り」があり、イエスの「わたしは平和を残し、あなたがたに平和を与える」(新式文による。元はヨハネ14・27)という言葉が告げられ、「教会に一致と平和をお与えください」と祈られます。ここで願い求められている「平和」とは何なのでしょうか? これは現在も自問自答となっていることです。ヨハネ福音書では「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」に続いて、イエスは「わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」(14・27)と言っています。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」(ルカ12・51)とまで言ったイエスです。平和というものを問いかける、大きな楔をイエスから打ち込まれているようなものでしょう。
ミサの式次第の中で「平和の賛歌」に続くのが「平和のあいさつ」です。「主の平和が皆さんとともに」―「またあなたとともに」(新式文)という対話句のあと、「互いに平和のあいさつを交わしましょう」という招きとともに、ミサに参加している者同士のあいさつが行われます。ここは、多様な実践がゆるされているところで、他国では、ハグをしたり、握手をかわしたり、それぞれの地域でのあいさつ習慣に応じてさまざま。日本では概ね「主の平和!」と言い合って会釈し合うというやり方です。これはなかなか難しく両隣の人に向かおうとして顔が合うこともあれば、隣の人がさらに反対側の人のほうに向かっていて、結局、頭の後ろに「主の平和!」と言ってしまう場合もしばしばです。
半世紀前、基本、現在のようなミサが行われるようになり、平和のあいさつが新鮮で熱心に行われたなか、ミサの中だけで「平和!」といっても、「ミサが終わったら、そそくさと帰ってしまって、互いの平和も交わりもないではないか!」という反省というか批判というか、そんな声が上がり、そこはとても家庭的な中規模の教会なのですが、ひとしきり大きな議論が続いたことがありました。といっても、それは、ミサの式次第に対する批判ではなく、教会生活の中で、実質的な交わりがあるのか、そのような場や機会を作れないか、というきわめて積極的で、実践的な問題提起であったのです。そんな問題意識は、実は教会の中でずっと生きていると思います。そのようなことを意識させるようになった「教会に平和を願う祈り」であり「平和のあいさつ」でもあるのです。
「キリストの平和」として「平和」ということばを語り、学び、求めるようになっている現代の(日本の)教会の一員として、イエスが十字架上で自らをささげたこと、それをもって結び直してくれた神と人類のきずな(ゆるしであり、あがないであり、和解であり、新しい契約であるもの)を信じつつ、それを原動力に、「平和」を世界にも、社会にも実現するよう希求し続けています。その思いは「世の罪を取り除く神の小羊、平和をわたしたちに」という賛歌の一句に凝縮されています。
この祈りを現実世界の中で叫び続けることを、ささやかな平和活動としているキリスト者の思いを実際の平和構築にいかにつなげていけるか、そのような道を探る「平和学」や「平和の神学」とその実践が肝要です。そして、その試みはすでに多様に行われていると信じています。そうした数々の働きに関心を向け合うことから、平和への力は養われていくことでしょう。ミサは確実にそのための、いわば“神の国の平和運動”であることを意識ししつ、隣席の方との平和のあいさつに心を込め、その無限の先にいる、もっとたくさんの人々との平和のあいさつにも心を開き続けていこうと、気持ちを引き締めている毎日です。