鵜飼清(評論家)
あの時代、つまり先の戦争の時代、第二次世界大戦、アジア・太平洋戦争、大東亜戦争……のころはどんな空気が流れていたのだろうか。1941年12月8日の日本軍による真珠湾奇襲から日米開戦によってアジア・太平洋戦争がはじまりました。日本軍の優勢は戦いの最初だけで、じりじりと戦況は悪化していくばかりとなります。
その間の暗い時代(言論抑圧による思想統制の時代)のことをここでは書けませんが、軍国主義の時代は自由に自分の考えを発言・執筆することはまったくと言っていいほど不可能でした。
日本本土は米軍飛行機(B29)による空襲が続きます。そして米軍は1945年8月6日広島に原爆を投下、9日長崎に原爆を投下しました。
日本は14日に御前会議でポツダム宣言受諾を決定します。8月15日に天皇が戦争終結の詔書を放送(玉音放送)し、とにもかくにもアジア・太平洋戦争は日本にとって「敗戦」で終わることになります。
9月2日、米艦ミズーリ号上で降伏文書に調印(全権重光葵外相、梅津美治郎参謀総長)し、国際的に日本の完全なる敗戦が決定しました。
日本は米国により占領され、進駐軍(GHQ)により管理統制されることになります。
敗戦した日本は空襲によって街が焦土と化し、廃墟となってしまっていました。外地(戦地)から兵隊たちが復員してきて、焦土にはバラックの建物が立ち並び、闇市が生まれようになります。巷には並木路子さんが歌う「リンゴの唄」の明るい歌声が流れるようになっていました。(もっともわたしは1951年生まれだからこの当時のことはさまざまなメディアによって知らされたことです)
そうした敗戦直後の時代状況のなかで、「平和問題談話会」が生まれるのです。
わたしは雑誌『世界』の創刊40年記念臨時増刊号『戦後平和論の源流―平和問題談話会を中心に―』から「平和問題談話会」を意識しました。そしてその後も「平和」を考える上での原点としてきたのは、わたしが長年世話人をしていた「本の会」という集まりに、当時『世界』の編集長であった安江良介さんをお呼びして、この「臨時増刊号」のお話を直接聞くことができたことにもよります。
ここからは、その「臨時増刊号」で編集され載せられたことを元に、「平和問題談話会」とその周辺の活動についてかなり大まかになりますが紹介させていただくことにします。
まずこの「臨時増刊号」に載せられた「平和問題談話会とその後―増刊号解説に代えて―」の緑川亭さん(元『世界』編集長)に聞く安江良介さん(当時『世界』編集長)の記事に、「平和問題談話会」の結成、組織に当たっては吉野源三郎さん(初代『世界』編集長)がいたからこそできたという話があり、安江さんは緑川さんに「吉野さんがどのようなものの考え方をしてこられたのか、またどういう思いで『世界』を敗戦の年の暮れに創刊されたのか」と聞かれます。緑川さんは「平和問題談話会」の組織に当たった吉野さんのもとで長く仕事をされ、その後『世界』の編集長もされています。まず、緑川さんは「平和問題談話会」の設立から話されます。
「ユネスコの『平和のために社会科学者はかく訴える』に対応して、1948年の11月から東京と京都で討論が開始され、1948年12月12日に東西連合総会が開かれ、その結果、翌1949年3月号の『世界』に〈戦争と平和に関する日本の科学者の声明〉が発表されます。その署名参加者を会員として、1949年3月に平和問題談話会は設立されます。さらに1950年2月〈講話問題についての声明〉(『世界』3月号)、同年11月〈三たび平和について〉(『世界』12月号)を発表し、談話会の例会は1950年代も引き続いて開かれますが、1960年に〈安保改定問題についての声明〉を出すことによって、『平和問題談話会』は事実上ここに終焉します」と説明されます。
そしてさらに緑川さんは、一方では、その終焉の前に1958年に憲法問題研究会が設立され、また、1959年には、国際問題談話会が設立されたと言います。この会の名称は公表されたことがなく今回がはじめてのこととされます。この「臨時増刊号」に掲載される「政府の安保改定構想を批判する」「ふたたび安保改定について」の共同シンポジウムは、その国際問題談話会のメンバーの討議内容を発表したものと言うことです。
「臨時増刊号」の目次には、
第Ⅱ部 戦争と平和に関する10章
平和のために社会科学者はかく訴える〔1949年1月号〕
戦争をひきおこす緊迫の原因に関して、ユネスコの8人の社会科学者によってなされた声明
戦争と平和に関する日本の科学者の声明〔1949年3月号〕
☆平和問題討議参加者氏名
講話問題についての平和問題談話会声明〔1950年3月号〕
補足 講話問題の論点〔1950年4月号付録〕
三たび平和について―平和問題談話会研究報告〔1950年12月号〕
第一章 平和に対するわれわれの基本的考え方
第二章 いわゆる2つの世界の対立とその調整の問題
第三章 憲法の永久平和主義と日本の安全保障及び再武装の問題
第四章 平和の国内体制との関係(略)
[共同討議]政府の安保改定構想を批判する〔1959年10月号〕
1.改定構想の論理と状況
2.改定構想の個別的問題点
3.安保体制に代るもの(略)
安保改定問題についての声明
東京平和問題談話会 京都平和問題談話会
[共同討議]ふたたび安保改定について 第2回報告〔1960年2月号〕
第1部 日本の新たなる選択
第2部 岐路に立つ日本経済(略)
とあり、それぞれの内容が再掲されています。〔『世界』掲載年月号〕
緑川さんは続けて説明されます。それはもう一つ別の流れとして生まれた京都科学者会議のことです。1955年の『ラッセル=アインシュタイン声明』に関連して創設されたパグウォッシュ会議を受けて、1962年に湯川秀樹さん、朝永振一郎さん、坂田昌一さんの三人が継続委員になり、事務局長は豊田利幸さんで、京都科学者会議が発足するのです。
緑川さんはこの京都科学者会議が岩波書店、あるいは吉野さんとはかかわりをもたないところで、物理学者を中心としてつくられたと言います。ただ、その京都科学者会議が設立されるに当っては、雑誌『世界』がその発表の場になったということで仕事の中では関連を持ったのだと説明されます。そして、「そういった一連の学者の活動は、岩波書店が組織したとか、あるいは『世界』が組織したということではなくて、あくまでもお世話に回って、その主張、あるいは研究の成果としての分析的な文章を誌上に発表していくという形で、『世界』の太い骨組みが貫徹していくわけだけれども、確かにこれらのことは吉野さんの編集者としての存在を抜きにしては語れません。」と話されています。
「臨時増刊号」には、それらの活動を再録して
ラッセル=アインシュタイン声明(1955年7月9日発表)〔1961年11月号〕
科学者京都会議声明〔1962年8月号〕
湯川・朝永宣言〔1975年12月号〕
が掲載されています。〔『世界』掲載年月号〕
緑川さんは「吉野さんには編集者としての基本的な考え方がまずあって、こういう学者の自主的な組織がつくられることについて陰の役割を果たすという自覚があった。そして知的世界と現実社会を結びつけるオルガナイザーの役割を編集者の重要な機能としてつくり出す、という新しいエディターシップのあり方が、そこにおのずから生じたと、といえると思います。」と語られています。
安江良介さんからの問いである「吉野さんの考え方」については、緑川さんの「吉野観」が話されています。まず「吉野さんは、1937年、日中戦争のはじまる直前に『君たちはどう生きるか』という名著を執筆され、いまは岩波文庫にも古典としておさまり、毎年多数の読者に読まれています。この年に岩波書店に入られて、岩波新書の創設などにも参加するわけですが、吉野さんは本来哲学者でした。」と語られ、吉野さんは新カント派から出発し史的唯物論を経て哲学的な最大の関心事は歴史の発展を踏まえながら、歴史の発展を決定論的に把えるにとどまらないで、激しい時代に生きていく中で、個人の態度決定への関心が非常に強く、人間の営為とか、働きかけによって歴史は変わっていくという認識を強く持っていた人だ、と説明されます。
そして「その点では、人間存在そのものをみつめ、極限状況の中に人間行動の契機を見出す実存主義的なものへの傾斜が吉野さんの内にはあったように、私には思われます」とされています。
このような考えを持つ吉野さんが、戦後日本の激動の中で、総合雑誌『世界』の編集を岩波茂雄さんから託されているのです。その経緯は、岩波茂雄さんが戦争の経験を踏まえて戦後に総合雑誌を出さなければならないと強く望んでいて、親友の安倍能成さんに依頼をしたと言います。安倍さんは志賀直哉さん、大内兵衛さん、武者小路実篤さん、田中耕太郎さん、その他の人達と同心会をつくっていて、そのメンバーであると共に『世界』の編集責任を引き受けられた。そして、書店側の編集者として吉野さんが託されたということなのです。
それではなぜ吉野源三郎さんがユネスコの「平和のために社会科学者はかく訴える」という声明を手に入れることができたのか。それは1968年6月16日に行われた討論「『平和問題談話会』について」(司会=緑川亭 出席者=久野収・丸山真男・吉野源三郎・石田雄・坂本義和・日高六郎)で吉野さん自身の言葉で話されています。
「当時はGHQの民間情報教育局部(CIE)の出版課というのがありまして、そこから、毎月向こうで出る雑誌記事の中でこれだけは日本で発表していいというものをタイプでとって配給していたんです。つまりレリースという形で出ていました。当時はもちろん外国の雑誌を日本人が外国へ注文してとることはできません。もっぱらそこからくるものしか見られなかったんです。実質的にはぼくたちはGHQ関係の知人を通じて外国の雑誌をいろいろ見せてもらっていましたけれども、公式に利用できるのはCIEからレリースされたものだけです。そのCIE の雑誌の担当をしていた40すぎの婦人課長がいまして、この人がおそろしく岩波の『世界』に好意的であったんです。そして優先的に『吉野さん、これとっておきましたよ』といってくれました。いわば偶然なんです。」
さらに吉野さんの話では、その偶然手に入れたというユネスコの科学者の声明は1948年の9月だったということです。そして、このステートメントのもとになった8人の社会科学者の出し合うディスカッションは、1948年の夏、パリで2週間にわたって行われ、その共通の事項をまとめたものだったのです。
吉野さんが話されるには、このディスカッションは1947年の第2回ユネスコ総会決定によって、ユネスコから委嘱されて行われています。ユネスコがなぜ戦争を起こす緊張の原因について学者に研究を依頼したかについては、1948年の12月10日が「世界人権宣言」が発表された日であり、この「世界人権宣言」を用意するためのユネスコの研究があって国際シンポジウムが行われ、そういう空気のなかで、戦争の原因となるところの緊張に関する研究が組織されたということです。
「ユネスコの8人の社会科学者の名前」
① ゴードン・W・オールポルト(ハーヴァード大学心理学教授)
② ジルベルト・フレイレ(ブラジル、バヒア大学社会学教授、アルゼンチン、ブエノス・アイレス大学社会学研究所教授
③ ジョルジュ・ギュルヴィッチ(ストラスブール大学社会学教授、パリ社会学研究所理事)
④ マクス・ホルクハイマー(ニューヨーク市、社会研究所理事)
⑤ アルネ・ナエス(オスロ―大学、哲学教授)
⑥ ジョン・リックマン医博(「英国医学的心理学雑誌」“British Journal of medical Psychology”主幹
⑦ ハリー・スタック・サリヴァン医博(ワシントン精神病学専門学校評議員会議長、「精神病学誌」“Psychiary, Journal for the Operational Statement of Interpersonal Relations”主幹
⑧ アレキサンダー・ソロイ(ブタペスト大学社会学教授、ハンガリー外交問題研究所長
そして、このユネスコの科学者8人の人選については、国連には経済社会理事会があり、紛争を戦争に訴えないで国際的に解決するための経済社会的な諸問題はそこで扱うことになっていたのだそうで、ユネスコの方では人物の選考を、人間の主観的性格の面に第一義的関心をもつ人々の範囲に限定していて、このディスカッションは社会科学者ではあるが、社会経済的な問題よりも、むしろ人間の主観的な性格の面、人間の思想であるとか、価値感情であるとかという面に第一義的な関心をもっている学者で組織されたと言います。
もう一つの人選の基準は、知識があるということだけではなく、ファシズムのなかをくぐってきたこと、つまり第二次大戦を経験してきたことが上げられています。それと、1948年の春以来のベルリンの閉鎖をめぐる状況から、「鉄のカーテン」の向こう側(共産主義国)の学者も入れたいという配慮があったとのことです。
(後編に続く)