インタビュー:レバノンとは、どのような国ですか? ――お国柄、歴史、キリスト教について――


このたび、同じ教会に所属する、レバノン出身、カトリーヌ・ファクリさんにインタビューを行い、その国と歴史、キリスト教の様子について、いろいろとお聞きしました。アラビア語でのお話を日本人である夫君に通訳していただいたものです。また、全体として監修もしていただきました。

(聞き手:編集部 石井祥裕)

 

聞き手の石井(左)と、カトリーヌ・ファクリさん

――きょうはよろしくお願いします。レバノンというと、日本人の私たちには、あまり知られていない国なのですが、いろいろと、教えていただきたいと思います。

そうですね。私も日本の人に、どちらの国から来られましたか、と聞かれて、レバノンからと答えると、イスラム教の国ですよね、砂漠で暑いですよね、寒い日本の生活は大変ではないですか、と聞かれます。レバノンの国が日本では知られていないのだなと感じます。

 

――そのようなときは、どのようにレバノンの国のことを紹介するのですか?

レバノンは小さな国ですが、四季があります。海、山もあります。山は高くスキー場があります。

アラビア語が公用語なので、アラブ諸国の一つと思われますが、私が属するマロン派キリスト教徒にとって、アラビア語は18世紀から公用語として使われるようになった新しい言語です。マロン派のキリスト教徒は、「古シリア語」とアラム語(注:いずれもアラビア語やヘブライ語と同じセム語に属し、極めて近い関係にある)――イエス様自身が話された言語です――を一般に使っていました。

 

――カトリーヌさんはマロン派カトリック信者なのですね。

はい、そうです。レバノンということばは旧約聖書に70回出てきます。聖書に出てくる地名のティルス(ティール、地図上①)やシドン(サイダ、地図上②)から、キリスト教は早くに入っていました。

 

ブシャッレからレバノン杉保護区に至る道路沿いの景色(ヴィクトール撮影)

――ご出身の地域はどのあたりですか?

レバノン北部の主要な町であるブシャッレ(地図上③)です。このあたりは険しい山岳地帯で、もともとマロン派の始まったアンティオキア(現トルコのアンタキア)から、6世紀に、迫害を逃れてきたマロン派の修道者たちが住み着いたところです。岩がいっぱいあり、侵入が難しいところだからです。この迫害というのは、他の宗教からではなく、同じキリスト教からの迫害です。マロン派はキリスト論の論争の中でキリスト両性説に属しているので、キリスト単性説を信奉する人々から激しく迫害を受けたのです。多くの殉教者も出ています。

 

――ご先祖代々、ご家族みんながマロン派カトリックなのですね。

カディーシャ渓谷上部の修道士の住居跡(ヴィクトール撮影)

はい。レバノンには、教会がたくさんあるので、観光客はそれを見て驚きます。町の中心部には教会がたくさんありますが、それでも、大きな祝祭のときには、ミサの場所が足りなくなってしまうくらいです。

ブシャッレの町の下には「カディーシャ渓谷」(地図上④)があります。『聖人たちの渓谷』という意味の名前です。岩をくりぬいてできた修道院があるところです。

ブシャッレという町自体は海抜高度1500mの地点にあります。さらに上の標高1900mのところには、レバノン杉の保護があります。レバノン国内各地にいくつかレバノン杉の保全地帯がありますが、その中でももっとも大きく、樹齢の長い杉があります。そして、最高峰は3000mを超える「コルネト・ソウダー」山で、そのあたりには万年雪の地帯があります。

 

レバノン杉保護区よりブシャッレ市街地とカディーシャ渓谷をのぞむ(ヴィクトール撮影)

――この地域の人たちの生業はなんなのですか?

伝統的に、農業地域で、段々畑があって果樹や豆類を栽培しています。果樹では、りんごが主ですが、さくらんぼや桃もあります。コロンブスの時代以降は、じゃがいも、トマトが入り、それらも栽培されています。ほかに羊やヤギの放牧も行われています。

 

――レバノンはワインも有名ですよね。

はい、ベカー高原のあたりはブドウの栽培が盛んで、ワイナリーがたくさんあります。それから、ブシャッレは観光業も盛んです。山岳地帯なので、スキー場があります。レバノンでスキー場が始まったのは、この地域からなのです。またブシャッレは、世界的に有名な詩人ハリール・ジュブラーンの出身地なので、彼の記念館があります。カディーシャ渓谷があり、レバノン杉の保護区があるところから観光地となっています。

 

雪のレバノン山地とカディーシャ渓谷(ヴィクトール撮影)

――カトリーヌさんのおうちも農家なのですか?

いいえ、父は、紳士用衣料の仕立て人で、母は美容師でした。おじは、先ほど言った、スキー場の経営を最初に始めた人です。兄と弟は写真家です。

 

――レバノンで、通常の移動手段は何になるのですか?

自動車が主です。沿岸に高速道路が走っています。ベイルートやトリポリ(地図上⑤⑥)から入ってきます。

鉄道がなく、電車もなく、飛行機も(古い飛行場がありますが)使われていません。

 

――マロン派カトリック信者ということですが、マロン派の特徴というと何でしょうか?

典礼のやり方で日本のカトリック教会と大きく違うのは、ミサの始まりの部分(開祭)に時間をかけることです。聖歌を長く歌うのです。日本だと5分遅刻すると聖書朗読が始まっていますが、12分ほど遅れてもまだ聖歌を歌っています。

 

――典礼で使われているのは、何語ですか?

先ほど言った古シリア語とアラビア語です。ちなみに、聖歌集は、アラビア語と古シリア語の二つの言語で書かれています。最近では、マロン派の中で原点回帰の動きがあり、アラビア語の聖歌も古シリア語に移そうという話が出ています。私の父親の世代は、古シリア語で読み書きができたのですが、自分は全くできません。アラビア語が母語です。父親世代では、古シリア語で書いて、アラビア語で読むというやり方までしていたのです。このことが今でも見直されています。

 

カディーシャ渓谷内コズハイヤの聖アントニウス教会(ヴィクトール撮影)

――開祭の聖歌に時間をかけるというのは、興味深いですが、全体としてミサの流れは同じですよね。

そうですが、信仰宣言のところで、マロン派はニケア・コンスタンティノープル信条が基本です。使徒信条を唱えることはありません。ニケア・コンスタンティノープル信条を大事にしていて、短縮するようなことは認められません。それから、日本ではひざまずくことはあまりしませんが、マロン派ではします。

聖体拝領でいただく聖体のパンは、日本のカトリックと同じですが、手ではなくて、口で拝領します。コロナになって一部の人は手で受けるようになりましたが、それに反対する人がいて、手で受けるくらいなら受けないという人もいるくらいです。

 

――ローマ典礼でも、第2バチカン公会議前は口での拝領が一般的でした。ほかに特徴はありますか?

とても気になることがあります。マロン派では、聖体拝領の前に告解をしてゆるしの秘跡にあずかることが大事にされています。日本では、ミサを欠席しても、次のミサで普通に聖体拝領を受けますよね。それはどうなのでしょうか? 私もあるとき、告解をしていないことがあって、ミサに出ていても、聖体拝領を受けなかったことがあります。

 

――日本でも5、60年前まではそれがよく行われていたそうです。今のミサにおけるメンタリティーの変化があるのかなと思います。ほかはいかがでしょうか?

マロン派の教会として、二つの放送局があります。それぞれがラジオ局とテレビ局をもっています。それからレバノンやオーストラリアからのマロン派典礼のミサをよく視聴しています。

*シドニーのマロン派教会のYoutubeチャンネルはこちらです。

 

――レバノンからオーストラリアへの移民がいるのですね。

私の出身地からはオーストラリアやアルゼンチンに移民した人々がいます。ちなみに、有名なカルロス・ゴーンは、おじいさんがレバノンからブラジルに移民となった人でした。

 

バアルベックのローマ遺跡(ヘンリー撮影)

――話は変わりますが、レバノンでの食べ物については、アラブ世界との交流や影響があるのでしょうか?

基本的には周囲のアラブ諸国とかわりません。

レバノン独自の料理として、羊かヤギの生肉を食べますが、これは、中世にマムルーク朝によってレバノンが包囲されたとき、火を使わずに食べられるものとして(火を使うと敵にわかってしまうので)始まったといういわれがあります。

それから「タッブーレ」というイタリアンパセリとひきわり小麦のサラダで、アラブ料理で代表的なサラダですが、これはレバノン由来です。

それから、「ホンモス」というひよこ豆のペーストを食べますが、これは、近世以降のパレスチナ、エジプト、シリアとの交流の結果、親しまれるようになったものです。

 

――イスラム的な食の戒律はないのですか?

マロン派にはないのですが、レバノンにはシーア派、スンニー派の人もいるので、多くの人たちは戒律を守り、豚やアルコールは口にしません。地方では住んでいる地域の違いがありますが、都市部では、各宗派の人と同じ学校で学び、同じ職場で働く等、交流はあります。

 

――レバノンには、メルキト派など他にも多くのキリスト教諸宗派がありますが、それらとの交流はあるのですか?

レバノンでも、現在では、キリスト教徒の数の割合が少なくなっていますし、宗派の異なる人同士の結婚もあります。

 

――そのようなとき、教義や典礼の違いは問題になりませんか?

強調させていただきたいことがあります。レバノンは「自由な国」です。信仰の違いも尊重されています。周囲の国では、他宗教に改宗すると処刑されることさえありますが、レバノンは違います。

建国の経緯から、レバノンでは、大統領はマロン派、首相はスンニー派、国会議長はシーア派など、宗派による主要ポスト配分の原則があります。

 

ジュベール(ビブロス)の聖ヨハネ・マルコ教会(ヘンリー撮影)

――レバノンという国のことを調べ始めると、そのような宗教事情の複雑さや、また政治情勢の複雑さが強く感じられます。さまざまな本を頼りに学び始めているところですが、レバノンの皆さん自身も学校で、それらについて勉強をするのですね。

はい、しっかりと教わります。レバノンでは、公立学校でもキリスト教の歴史が教えられます。さまざまな宗教、宗派があるなかで、最近の情勢下、他の宗教・宗派に対して中傷や誹謗がなされるときがありますが、そのようなときには皆、反対の声を上げます。

 

――ところで、レバノンの方が、日本のことをどのように思っているか知りたいのですが。カトリーヌさんは国にいたとき、どのように日本をイメージしていましたか?

精密機械の国、高品質の製品の国という印象でした。ただし、ものすごく住みにくい国という印象もありました。日本の人は、毎日、ものすごいプレッシャーの中で生活しているのだな、と。

私たちの国では、客人に対して宗教・宗派にかかわらず、家に招いて食事でもてなすという文化があるのですが、日本人は互いの間に壁をつくっていると思います。

教会でも、高齢の方々などと、もっと親しみたいのですが、なかなか難しいです。

 

――日本では、ふた昔前までぐらいは、家に鍵もかけず、近所の人とも家を行き来するということもあったのですがね。教会でも司祭の家庭訪問や地区集会・家庭集会などがあったと聞きますよ。

そうなんですか。今も、とてもお近づきになりたいと思っています。イエス様が、疲れた者は私のもとに来なさいとおっしゃっているのに、どうして人を招くことができないのかなと、思っています。

 

カディーシャ渓谷内に残る12世紀の修道士の洞窟住居跡(ヴィクトール撮影)

――日本人の方と結婚されて、息子さん、お嬢さんもいて、今、日本でお住まいですが、一般的に、日本での暮らしの中で感じていることはありますか?

日本人は、とても礼儀正しく、規律を大切にするところが長所だと感じています。車の運転の仕方も冷静で、親切ですね。レバノンでは、車の運転がルールにお構いなく、攻撃的です(笑)。

短所というのは、先ほども言ったように、人と人との間に、家族・親戚・友人の間でも、何か壁があって越えられないものがあると感じています。レバノンでは、結婚による両家族同士の付き合いは、とても深いものになっていきます。

 

――息子さん、お嬢さんにとって、レバノンはどんな存在ですか?

息子は今年、20歳になり、大学で歴史を学んでいます。息子も娘もレバノンが好きなことは間違いがありません。レバノンにいる家族・親戚を愛しています。

 

――そうなのですね。レバノンから日本に来られているお立場から、二つの国の歴史や文化・国民性について、また、マロン派カトリックの伝統と、今の日本のカトリック教会のスタイルとの共通点・違いなどについて、貴重なお話をお聞きできました。私たちもいろいろと学んでいきたいと思います。

私も歴史を学ぶのが好きで、日本の教会で、その歴史を学ぶ機会があったおかげで、日本の殉教者たちのことを初めて知ることができました。感謝しています。

 

――お兄さんのヴィクトールさん、弟さんのヘンリーさんからのお写真の提供もありがとうございました。

 


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