佐藤真理子
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
(ガラテヤの信徒への手紙 3章26~28節)
3月は国際女性デーのある月です。これまで何度か女性であることによって私は教会で感じてきた困難をテーマに語ってきましたが、回数を増すほどに、これは勇気のいることとなりました。というのは、このテーマについて語ると、多くの場合何らかの攻撃を受けてしまうからです。しかし、その事実そのものが、今現在このテーマを語り続けなければならない必要性を物語っているような気がします。
先日マララ・ユサフザイさんのインタビューを聞いていて印象的な言葉に出会いました。それは「フェミニズムとは平等という言葉を言い換えたものである。」という言葉です。
私自身すべての人が平等に自由に生きることは大切だと思っていたものの、神学校に入る前は女性差別を意識したことがありませんでした。思えば校長や理事長も女性である女子高や、男性より女性の数が多い大学の中で過ごしてきたので、自分のいる環境の中では比較的女性の権限が強く、それを感じる必要性があまり無かったのだと後になって気づかされました。だからこそ、その頃の自分にとって女性差別の話は今一つピンとくるものはありませんでした。
しかし、神学校に入学してからこの感覚は一変しました。まず教会教職課程(キリスト教の教職者となるためのコース)には一人も女性の教授はいませんでした。女子学生も殆どいませんでした。そもそも神学校には女性が教会の教職に就く立場となることに反対の先生がいました。その時になって初めて、私は女性が教会で説教をしてはならないとする教派・教団がキリスト教の中に依然として存在していることを意識するようになりました。
また神学校で、昔は女性の学生は説教の授業の代わりに鍵盤楽器の授業を取るようにされていたことも聞きました。昔、女性の神学生に求められるのは賛美の伴奏をすることであり、つまりそれは説教をする立場ではなく牧師配偶者として教会運営の手助けをし牧師を補助する立場になることだったのです。勿論このような働き自体は尊いことですが、主体的に宣教する立場になろうとしていた人からその役割が奪われてしまうことには問題があります。「昔」と書いたものの、この伝統は現代もなかなか拭い去れるものではないこともそこにいながら実感しました。
それから改めて様々な教会を見ると、主に関わったのが保守的なグループであることも影響しているのかもしれませんが、そもそも牧師に女性は圧倒的に少なく、数少ない女性牧師は主任ではなくほとんどの場合副牧師として働いていることに気づきました。夫婦で牧会している場合はほぼすべてのケースで男性が主任牧師として説教をする立場になっていました。稀に女性が主任として牧師になる場合、危険から身を守るために教会員をほぼ女性のみにしていたり、女性自身が内面的に男性化してその立場についていたりするケースが多いように思いました(勿論そうでない方もいらっしゃいます)。
ただ、これは女性が教会を管理する立場となったり、教会で説教したりすることを許されている教派・教団の場合の話です。
このようなことを目の当たりにしてから、私は神学校で女性教職者の祈祷会を始めました。それを知った男性教員からあるとき学外向けの神学校の会報に載せるために、卒業生の女性と私のほかにもう一人女子学生を呼んで女性教職について話し合う場を設けたので参加してほしいと言われました。その話し合いの場にその先生は用事のため始めの1、2分しかおられなかったのですが、出来上がった会報ではその先生がその話し合いにすべて参加し、実際に話していない言葉を話していたことになっていました。
また、私は神学生の希望の内容で行う授業のためのアンケートに「女性の教会教職について」という内容を書きましたが、これもとうとう神学校で取り上げられることはなく、代わりに「宗教法人のつくりかた」などの授業が行われることとなりました。神学科には一人も女性の教員がいなかったので、対外的に女性の教会教職について考えているというパフォーマンスはあっても、その内実は一切それに伴うものが無かったのです。
女性の立場が弱い神学校の在り方に、多くの女性の神学生は体調を崩し、授業を休むことが多くなったり、休学を余儀なくされたりするケースもありました。退学する学生も決して少なくありませんでした。一人の女子学生が「ふるいにかけられているようだ。」とぽつりと言ったのが印象的でした。その言葉を神学科の一人の男性教員に伝えると、笑いながら「そのふるいに残る者もいる。」と男子学生を指さしていました。
私には、そのふるいとは決して女性が作ったものではないが故、女性を振り落とす構造的暴力であるように見えました。
セクシャルハラスメントについても多く目の当たりにしました。私自身、キリスト教を教える立場の男性からどこか所有物のように扱われ、私はモノではなく人間であり、キリストと私自身以外の誰のものでもないと主張したくなることが何度かありました。教会内で起こったセクシャルハラスメントにも理解を得られることはなく、相談した結果教会を出ていかざるを得なくなることもありました。また、友人から聞いた話では、副牧師の男性からセクシャルハラスメントを受けた女性がそれを主任牧師の男性に相談すると、結果的に副牧師がかばわれてしまい、その女性は一家で教会を出ることになったそうです。おそらく、明るみにならないこのようなケースは全国各地で起こっているのではないかと思います。
このような経験を経て私は、キリスト教組織の中には性差の壁というものがとても高く立ちはだかっていることを学びました。そして、必然的にこの問題を明るみに出さなければならないのだと私は思いました。この問題を提起することなしにすべての人の平等はないからです。だからこそ、「フェミニズムは平等の言い換え」というマララさんの言葉は、私にとって深く響く言葉だったのです。
この内容については、一人一人感じ方は異なると思います。一人一人の環境や体験でこの問題の見方は大きく変化するからです。私自身、初めに書いたように神学校入学以前はこの問題を体感することはありませんでした。しかし、それ以降前述した内容や書ききれなかった同種の問題の多くのことを体験したのは、この問題について神様から理解させられ、語るためだったのだと思います。
今回は教会の中の問題に特化して書いたのですが、勿論世の中そのものにここに書いたことと同種の問題があります。ただ、組織としてのキリスト教という世界は極めて閉鎖的であり、間違ったことが起こっていても自浄作用が非常に働きにくいという側面があります。そのため外の世界以上にこの問題は深刻なのです。今回は女性にとっての困難を書きましたが、そもそもキリスト教組織に対して強い影響力や決定権を持つ牧師や祭司に殆ど女性がいないことで、現状を変えることが難しかったり女性の受けるハラスメントがねじ伏せられてしまったりすることは少なくありません。結果として構造的暴力が働き、ますます女性の立場が弱くなってしまうという無限ループが起こっているのも事実です。
だからこそ、一人一人がこの問題に気付き心に留めるだけで、大きな変化が起こると思います。ぜひ性別を問わず様々な教派の方にこの問題について知り、考え、祈っていただけると嬉しいです。今現在当たり前とされていることが、本当に当たり前なのか、改めて見直すことで、世界は大きく変わります。当たり前とされていること、崩せないものの如く当然とされていることが、誰かを傷つけ犠牲としていないか。子供や女性、社会的弱者の人権を虐げていないか。本当に「これまでずっとそうしてきたから」「そういうものだから」で片づけられるのか。伝統という言葉が利用されていないか。聖書の言葉を曲解して利用していないか。改めてこのようなことを考え、キリストの教会を構成する一人一人が問題意識を持つことは非常に大切だと思います。
キリスト教世界では、ときに「赦し」と「従順」が人を縛る言葉として利用されてしまうことがあります。勿論この二つの言葉はとても大切です。本物の赦しとキリストへの従順は人に自由をもたらすからです。しかし、もし間違ったことがなされていて自分や誰かが傷ついている場合は、次の言葉を思い出してください。
悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。
(ヨハネ3:20~21)
光の方へと来ることは、問題を闇に葬ることではなく全てのことを明るみに出すことなのです。祈ることからはじめましょう。祈りには莫大な力があります。今傷つき虐げられている誰かの尊厳が回復し、すべての人に本当の自由が与えられますように。神様は必ず働いて不可能を可能としてくださいます。
佐藤真理子(さとう・まりこ)
東洋福音教団所属。
上智大学神学部卒、上智大学大学院神学研究科修了、東京基督教大学大学院神学研究科修了。
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