21世紀の聖母被昇天


ルカ 小笠原 晋也(精神分析家、聖イグナチオ教会所属信徒)

Asunción de la Virgen Siglo XXI ©Agustín de la Torre

この「21世紀の聖母被昇天」(Asunción de la Virgen Siglo XXI) と題されたイラストは、スペインの中学高校の教師であり、グラフィックデザイナーとしても活動している Agustín de la Torre(アグスティン デ ラ トレ)の作品である。父なる神 と彼の息子イエス・キリストが、神の母(Theotokos)マリアを天に引き上げている;そして、彼女は、多数の人々を、天に引き上げられる彼女自身によって、天に引き上げている。実際、彼女によって救われた人々は どれほどたくさんいるだろうか! 神の母 おとめマリアよ、わたしたちのためにも、天の父に そして あなたの息子 わたしたちの主に とりなしたまえ!

「神の母による救い」をテーマとするジョークもある。その類の小話が たいてい そうであるように、それは 複数のヴァージョンで 物語られている。ここでは、ウェストミンスター大司教 Vincent Nichols(ヴィンセント・ニコルス)枢機卿があるミサ説教のなかで披露している短めのものを、紹介しよう:

あるとき、天の国を見回っていた イエスは、行儀の悪い者たちが幾人もいるのを 見つけた。そこで、彼は、天の国への入口の鍵を託してある ペトロに、問うた:「どうやって彼らはここに入ったのだ?」ペトロは答えた :「えーとですね、彼らは裏口から入ったのです。」イエスは答える:「裏口から! では、誰が裏口の責任者なのだ?」ペトロは答える:「あのですね、それは あなたのお母さまです!」

ところで、イエスは、天にいる神へ Abba !(父よ!)と呼びかけるよう、わたしたちに教えている。だが、神は母性をも有している。たとえば、詩篇 91、04:

彼(主)は、あなたを覆い、護ってくださる。
あなたは、彼の翼のしたに 避難所を見出す。

そこに描かれているのは、雛を翼のしたに保護する母鳥に喩えられた神である。イエス(マタイ23、37)も、彼自身に関して、同様の譬えを用いている:

イェルサレムよ、イェルサレムよ、(…)幾度 わたしは 欲したことか、あなたの子どもたちを、雌鶏が雛を翼のしたに集めるように、集めたいと。

また、預言者イザヤは、幾度か 神を母に喩えている。たとえば:

陣痛に苦しむ女のように、わたし(主)は、うめき、あえぎ、息を切らす (42、14) ;

女が自分の乳飲み子を忘れることが あり得ようか? 自分の胎の息子に対してもはや憐れみを持たないことが あり得ようか? たとえ彼女が忘れても、わたし(主)は あなたを忘れはしない (49、15) ;

母が子を慰めるように、わたし(主)は あなたたちを慰める(66、13)。

さらに、あの「放蕩息子の帰還」(ルカ15、11-32)の譬えに関しても、それを読んで、「あのような息子の罪を あのように慈しみ深く 赦すのは、父ではなく、母だ」と感ずる人々は、少なくないだろう。

しかし、「神は、父なのか、母なのか?」と問うても、それは、人間の次元における「父である」ことや「母である」ことのイメージを神に投影することになるだけだろう。神の次元の父性があり、神の次元の母性がある。わたしたちは、むしろ、逆に、聖書に物語られている神のことばやふるまいから出発して、「父である」ことと「母である」ことが如何なることであり得るのかを問うことができるだろう。

そして、そのような観点から福音書を読むとき、そこにおいては、神の母性はこのうえなく明瞭に描き出されているではないか — 神の母 マリアという形象において? 彼女は、いうなれば、神の母性のイコンである。

 


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