矢ヶ崎紘子(AMOR編集部)
映画は恐ろしい力を持っていて、傍観者のつもりでも、知らず知らず「この人は私だ」と錯覚してしまう。本作を観ると、チェン・リャンとリュウ・ウェイという二つの名前をもつ主人公は私自身ではないかと感じ始める。彼は、中国から日本に出稼ぎにやってきた青年で、本名はチェン・リャンだが、日本で就労するためにリュウ・ウェイという偽名の身分証を手に入れる。チェン・リャンは河南出身だが、リュウ・ウェイは北京出身ということになっている。リュウ・ウェイは日本でそば職人の修行をするが、チェン・リャンは工場で働いていることになっている。
初めは偽名にすぎなかったリュウ・ウェイという名は、日本での人間関係ができるにつれて、次第に彼自身を意味するようになっていく。日本で親しく「リュウ君」と呼ばれるようになったチェン・リャンは思っただろう、ずっとここにいたい、この人たちと一緒にいたいと。しかし、まわりの日本人が当たり前に生活している社会は、彼にとってはいつまでも当たり前に住まうことのできる場ではない。人々に心の底から受け入れられても、いつ偽名の滞在者と知れて引き離されるかわからないという緊張感がつきまとう。
ここで、このチェン・リャン/リュウ・ウェイとわれわれを重ねてもおかしくはないだろう。われわれは最初何も知らずにこの世にやってくる。社会で生きるために様々な仮の名前を与えられ、次第に人生に慣れ、それを当たり前に思い、愛し愛され、いつまでもこの人生を生きていたいと願うようにさえなる。だが、望んでも人生はいつまでも滞在できる場ではない。社会で生活するために与えられる様々な名が、本来の自分を表すものではないことが暴かれる時もある。人はこの世を去ることを「帰天する、天に帰る」と言う。であれば、本来何者として、故郷である天からこの世にやってきたのだろう?
本作はもちろん、日本に出稼ぎにやってきた中国人の青年の物語である。日本人にとって日本社会は安全で「当たり前」の世界で、出稼ぎ労働者にとってはいつ出ていかなければならなくなるかわからない世界かもしれない。しかし、日本人であろうと中国人であろうと、ほかの国の人であろうと、本作は自分自身が本来何者なのかを考える機会になるだろう。われわれも人生の滞在者なのだから。