手探りで回ってきた曲がり角~~AMOR5年雑感


石井祥裕(AMOR編集部)

この文章は、この「AMOR--陽だまりの丘」(以下AMOR)2021年11月号の特集、そして、今回のための企画編集有志メンバーとの久々の対面ミーティングを通じて生まれてきた自分の中の“思い巡らし”をメモするものです。喉元にずっと引っかかっていたことを探り当てられるかな~とつづり始めたものです。5年間、AMORをまとめながら節々に出会ってきた思案の別れ道の記録にもしたいと思い、一つひとつ見出しをつけた雑感として記させてもらいます。

 

紙媒体の経験からの展開

あまり明記したことはありませんが、いま、AMORに携わるにあたって、自分の中で前提となった経験がありました。『カトリック新聞』の編集に少しだけかかわったこと(1980年代半ば)と、月刊『福音宣教』誌(オリエンス宗教研究所発行)の編集長という務めを委嘱されていたこと(1990年代後半)の二つです。いずれもカトリック教会の代表的な定期刊行物です。11月特集にご登場くださった皆さんとは立場的に古い仲間感覚で再会することができました。そのような経験のみをかすかに頼りに、このウェブマガジンAMORへの協力を求められて参加し、これのメディアとしてデザインにかかわるなかでそこでの曲がり角がありました。今や懐かしい2016年春から夏にかけての仲間との創刊に向けての準備会の日々でした。

 

「ローマ」からではなく、に見出した活路

このマガジンの企画編集へと声を掛けられたとき、すでにAMOR(ラテン語の愛)という名前は決まっていました。そのコンセプトづくりの中で一つ提案されたサブ・タイトルが「陽だまりの丘」でした。このイメージがなかなか刺激的、生産的で、さまざまな迷い道の中でいつも光になってくれています。もちろん、AMORという名前もいつも灯火となっています。

「愛」についての難しい議論があるなかで、アガペーとエロスという区別を聞いたことがあるでしょうか。神からの慈しみに満ちた愛を指すのがアガペー、それに対して、人間からの感覚的な愛も含めば神的なものへの憧れを含むような愛がエロスである。ラテン語では、前者がカリタス(CARITAS)、後者がAMORといった訳し方になります。したがって、キリスト教を正面から教えるメディアにしたいと考える向きの人は、アガペー、カリタスといったことばが好みます。ただし、そうではないAMORが選ばれたことにも、また深い意味があるように感じられます。いきなり神からではなく、人間だれしも感じること、思うこと、願うことに、いつも立脚していたいという思いがこめられているからです。

そんなことを語り合っている中で、半ば冗談にだれかれとなく気づきました。AMORは「ROMA(ローマ)」と真反対のつづり字であることです。これもなかなか刺激的な事実でした。そして、それ自体このマガジンのデザインのヒントになっています。たとえ、ローマ・カトリック教会の世界組織を母胎にして歩み始めているこのマガジンでも、決してローマつまり教皇庁からの公式発信の場ではないということです。そのようなものとしては、日本カトリック司教協議会(カトリック中央協議会)や各司教区の公式サイトがあります。『カトリック新聞』もそのようなものに準拠した公式性をもっています。

AMORはそれに対して、こうした公式的な発信形態を自分たちの基盤としつつも、公式広報とは別なかたちで、キリスト教、そして福音を“伝えていく”ものでありたいと、考えています。前面に来るのは、現実の世界、日本の国、社会、日本の教会、個々人の日常で「感じること」「引っかかること」「見聞きすること」「興味深いこと」を出発点にしていよう、……それが大きな動機となっています。その具体化に、日々、苦労しているというのがAMORにかかわるメンバーの実情です。

 

「カトリック・メディア」とはしなかった

AMORは、「SIGNIS」というカトリック教会で生まれたメディアに関する活動団体が母胎で、その奨励プロジェクトとして認められたことからスタートしたものです。ですから、当然、「カトリック系」メディアと称することも可能でした。十分その条件はありつつも、しかし、そうはしませんでした。このサイトの自己紹介のところでも、「キリスト系メディア」です、という言い方をしています。

それは、ROMAではなくAMORで、人々の普通の感覚を基盤にして福音を告げ知らせよう、「キリスト的なもの」を語ろうという思いから必然的に生まれた姿勢です。「ローマ・カトリック」という立場を先に立ててしまうと、諸教会、諸教派には対して、最初から一つの強固な敷居を築いてしまうことになります。しかし、普通の感覚からのアプローチを進めたいと考えると、そのような西洋で形成されたキリスト教の諸教会の間の別れた経緯自体を「どうしてそんなことに?」と相対化して見つめていくしかありません。そうした違い自体も、教会の中からの視線で見るのではなく、西洋以外の文化圏からの、さらには人間としてのといった、限りなく外からの地平で見つめ直していくこととなります。

そのような地平から、キリスト教の分裂を乗り越え、一致を目指す姿勢を、今日では「エキュメニカル運動」「エキュメニズム」といいます。信者でさえあまりわからない専門用語なので、AMORではそんなに使われませんが、その実質を、むしろ、体現していることだけは確かです。企画編集にかかわる有志やオブザーバー、執筆協力者は、その意味で、ローマ・カトリックの方だけでとなく、諸教会から集まってきます。カトリックだけではない、メディアの編集長にもご登場いただいた11月号の特集がその5年間のささやかな努力の実りでもありました。

 

「キリスト教系ウェブマガジン」では人が来ない?

というわけで、このAMORを少なくとも「キリスト系ウェブマガジン」として設計したわけですが、それでも、キリスト教の信者だけの間で読まれるものを目指しているわけではありませんでした。さきほどAMORの名称が意味するものに関して述べたように、“どんな人にでも、キリスト教的なもの、福音的なものがきちんと伝わるように”という思いが初めから根本にあります。信仰を前提として、キリスト教の知識の体系(すなわち「神学」)を教える媒体でもなく、人を信者に育てるための教科書(カテキズムといわれます)でもなく、……という意識です。もっと広い人、日本人一般、そして人間一般に向けて、伝わるように、わかるように語っていこうという線が記事の書き方・まとめ方の最大の留意点です。それが出発点の設計理念でもあり、同時にゴール、究極の目標でもあります。

しかし、それゆえに、この設計理念と目標がいつも悩ましいものとなって襲ってきます。このマガジンの出自としては、やはり「キリスト的ウェブマガジン」と称さざるをえないからです。しかし、講読者登録でこのサイトを総体として受け入れ、総体として興味をもってくださる方は正直なところ多くはありません。創刊5周年機会に「AMOR 友の会(仮称)」というものを設置しました。AMORというこのようなサイトを継続発展させることに関心をもち、経済的にも支援し、企画にも協力するという一種の交流会の立ち上げです。この記事を読んで、総体としてのAMORに関心をもち、協力していただける方の出現を待っているところですが、やはり、大きな壁にぶち当たります。

 

「キリスト教」はオワコンなのか?

「キリスト教系メディア」です、と断るかぎり、そこにはもう日本語でのインターネット世界で、つまりは日本社会の中ではアピールしないのではないかということです。「キリスト教」という存在自体、もう日本では十分に知られていて、新味が感じられない……のではないか。どうも食指が伸びなくさせる固定観念が頑強にあるのではないか。「キリスト教」と言われるだけで、「あっ、関係ない」「ちょっとどうも……」という反応が起こるだけではないのか。……少し、そうした危惧が日増しに強くなってきます。

正しい、真実の宗教、そしてキリスト教を、そしてカトリックの伝統を求める人は、それなりにしっかりとした教科書や講座が教会やカトリック大学によって提供されています。いわばそれは奥庭のようなもの。もっといろいろな人が行き交い、散策する広場や丘で、キリスト教が伝えてきたよいものを語れないのか、味わっていけないのか……それが、AMORの取り組んでいる最初からの課題ですし、究極の使命です。この出発点と目指すゴールの間に、この5年間の記事は、それぞれの場で場所ももってきました。ぜひ精査し、評価してください。その探求はこれからも続きます。

そんな反省から今後、徹底的に企画の発想を新たにしていきたいと思っています。出自は「キリスト教系ウェブマガジン」ですが、目指すところ、つねにそうでありたいと思っている姿は、「心をつなぐウェブマガジン」といったところではないでしょうか。世の中にそのようなものは山ほどあるとして、吟味していったときに、そこには明確にキリスト教的なもの、福音的なものが感じられてくる、という姿が望ましいのではないかと思います。ネット媒体で文字を読む楽しみを通してのコミュニケーションのかたちで、キリスト教的なものも人の心の真実、心の真理として、分かち合っていくメディアになってほしいという期待が、むしろ周囲から寄せられつつあるのではないでしょうか。

 

神は小さなものに宿る

メールの一言、ツイッターの一言、手渡された贈り物、そうした小さなものを通じて、心は伝わってきます。そうした小さなことを通してでなければ伝わっていかないのかもしれません。神はデテールに宿る、ということばがいつも耳元で語りかけます。たしかに、総体としての宇宙、世界、存在、いのちに興味をもつ人はそう多くはないでしょう。同じように、総体としてこのマガジンの存在を受け入れ、意義を感じてもらえる人はそう多くはないのかもしれません。

それに対して、個々のテーマ、個々の用語、個々の事件、現象への興味から、検索の旅の途上で、AMORに触れてくれる方は、もっと多いようです。全部の記事を全部隅から隅まで読んでいる方はまずいないでしょう。だれしも、その時々に個々に興味のある記事を読み、そのかぎりで、情報の無限の海に帰っていきます。今まででも、クリスマス、イースター、ハロウィンなどのテーマは、ちょっと寄ってくださる方を多く集めてきました。その時々に立ち寄ってくださる方々の、心地よく、確実なステーションとして自己を整えていくという必要があるかもしれません。そんなところも意識化してみたいと思います。

それと同じように、このAMORでは、個人が個人としてもっと顔を出していきたいということです。何か抽象的なテーマや、問題らしい問題を抽象的に語り、ある立場の思想や観念を主張するための媒体ではありえません。個々のものへの興味がときとして、人をここに立ち寄らせるのと同様に、個々の人々と全く個人的な体験談のうちに、普遍の光が見えてくることがあります。人の姿、人の生き方がさまざまにこの「陽だまりの丘」で照らし出されるなら、それも素晴らしいなと、思います。

 

「心をつなぐウェブマガジン」へ

今日は、人と文字、人とことばとの新たな出会いが始まっています。スマホで書く小説家も登場する時代です。出会いの可能性の中で、新しい交信関係を通じて、福音そのものが自ら響いていくようにする営み……「がんばらない宣教」「宣教しない宣教」「引き算の宣教」……そんなところに宣教メディアとしてのAMORの道があるのでは……。「心をつなぐウェブマガジン」……どこにでもありそうな、何かの勧誘めいた言い方になるかもしれませんが、その視点にしっかりと腰を据えて進めてみるしかないのではないか……など、つらつら考えさせられている2022年の幕開けです。

遅まきながら、今年が皆さんにとってよいものでありますよう。そして、AMORが皆さんにとってよろしいものでありましたら、さらによいものとなるような芽が感じられましたら、どうぞ、おつきあいください。

 


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

twenty − nine =