引きこもりとスマホいじりの旅


矢ヶ崎紘子(AMOR編集部)

旅には、何かを見聞して帰ってくる旅と、もう帰ってこない旅があるのではないだろうか。昨年から今年(2020~2021年)にかけては、外から見ればほとんど出かけず、「スマホをいじって」ばかりだった。でも、内側ではもう帰ってくることのない旅をしていた。ソーシャルメディアは、遠いところにいる会ったことのない人たちとのやりとりを可能にし、通り一遍のことではなく、人が本当に感じていることを率直に語り合う場を提供してくれた。

 

自分たちの傷から人間全体の傷へ ベイルートのキノコ雲

2020年8月4日、レバノンの首都ベイルートの港湾で大量の硝酸アンモニウムが爆発し、クレーターができ、人々は吹き飛ばされ、キノコ雲が立ち上った。閃光の後に爆風が起こる様子があちこちのカメラに映っていた。それはずっと聞いていた原爆投下の瞬間にそっくりだった。

その頃、私はあるイマーム(イスラームの共同体指導者)のページを見ていた。彼は中東の平和を望んでいて、対立を煽る報道をきわどいユーモアで笑い、危ない目に遭いながらも、同じく平和を望む人たちから支持されていた。コメント欄には様々な意見が書き込まれており、議論の場になっていた。爆発の数日後、イマームはアラブ系メディアがこの爆発をイスラエルのしわざではないかと疑っていることを背景に、(もちろん爆発の被害を心配した上で)ベイルートのキノコ雲の写真をメディアの偏向を笑う冗談の種にした(イスラエル政府はこの爆発への関与を否定している)。

私はその写真にショックを受けてコメントを書いた。「これは笑えない。私は日本人だから、キノコ雲を見ると原爆投下を思い出してしまう。これが核爆発でなかったことだけが慰めです」。すぐに、オーストラリア、北欧、北米から、キノコ雲や核兵器は日本人だけでなく他の国々の人にとっても恐ろしいものであるという返信がいくつかついた。好意的な反応ばかりではなかったが、短い間にコメントのやりとりをしながら、核の恐怖の経験と、現に恐ろしい目に遭っている人への同情とを会ったことのない人たちと共有していることに、不思議な、誤解を恐れずに言えば、喜びを感じた。自分たちの傷だと思っていたものは、人間全体の傷だったのだと感じた。

 

怒りから赦しへ 内的変化をもたらす質問

人生の中で不当に扱われたという感覚をまったく持ったことがない人がどのくらいいるだろうか。「あの時あんなことがなければ、もっと良い人生だったのに」という考えを一度もいだいたことがない人がどのくらいいるのだろうか。人生に不満がまったくない人はあまりいないのではないだろうか。隔離生活は永年累積した怒りに直面する機会になった。いらいらとくすぶった状態でやりとりをしていると、新しくできた友人の一人が、私に質問をした。「赦したらどうなると思いますか?」

実はそれは、考え抜かれた質問だった。赦したらどうなると思う? と自分に問いかけると、不意に明るい世界に移った感じがした。赦しというのは人間関係や道徳の問題である以前に、自分自身の内的な状態の変化であることを実感した。自分は赦すほうであるばかりでなく、多くを赦されるべきものであることに気づき、これまで多くの怒りを正当化してきたことを恥ずかしく思った。これからも腹が立つことがあるだろうが、この質問がある限り、以前の慢性的な怒りと不満に戻ることはないだろう。

 

タブーから内的なコミュニケーションへ 依存症と鬱

さらに別の、キリスト教徒の友人とのやりとりで、ポルノ依存が話題になったことがあった。以前だったら、アルコールやポルノへの依存が話題になっても、どうしてそんなものが好きなのかわからないとか、道徳的に問題があるとか、自分には関係ないことだと思っていたかもしれない。けれどもその時は、依存は道徳的な問題ではなく、対象が何であるかが問題なのでもない、何かもっと深い苦しみがそういう形で表れているのだろう、そして、その苦しみはもしかしたら人間共通のものなのかもしれない、と思った。

鬱と宗教の話題にもなった。自分が何かをコントロールできるという傲慢な考えが挫折するから、時々鬱になるのはいいことなんだと話し合った。少し前なら、精神的な苦しみというのは私的なこと、一種のタブーで、「あんまり言わない方がいいよ」と忠告されるたぐいのことだった。修道文学の中には、憂鬱は怠惰であると書いてあるものもある。だが「いつも喜んでいなさい」という聖書の勧めを知っていても、喜びが消えてしまうのが鬱なのだ。

ただもしかしたら、鬱は悪いことばかりではないかもしれない。というのは、そのような苦しい経験を通じて、直接内的なコミュニケーションをとることができるからだ。この頃では多くの人々が私的・内的経験をオープンに語るようになった。これはとても豊かなことで、広く深い人間関係を生み出すだろう。

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2020年から2021年にかけては、移動が大きく制限される一方で、通信には制限がなかった。むしろ対面でのコミュニケーションを補うために、電話やインターネットの利用が奨励された面もある。とはいえ、ソーシャルメディア上のコミュニケーションが完全だったとはいえない。運営者の価値観に合致しないと判断されたのか、投稿が予告なく削除されることは何度かあった。たとえば、自殺を話題にしはじめた時、やりとり全体が突然消えてしまったことがある。また、米国のソーシャルメディアと英語と日本語を使ってのやりとりだけで、人間全体を言っていいのだろうかという思いもよぎる。他の言語、他のメディアでは別の価値観で別の会話が行われているかもしれない。

そのような制約を考えても、この状況での内的な旅(移住?)の中、以前の状態に戻ることのないであろう変化を経験した恩恵は大きい。ここで言及した人たちの誰にも実際に会ったことはないが、特に恐怖や、孤立したつらい内的経験を語り合うことによって、他の人や自分の苦しみを人間全体のものとして感じるようになった。スマホをいじってばかりの日々、まだ見ぬ友人たちのいる場所へ行きたいという、旅への欲求がこれほど強まったこともなかった。

 


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