落語という話芸は、日本の芸能を代表する一つだが、プロの落語家はどれぐらいいるのだろう。そして落語ファン、愛視聴家は数かぎりないのだろう。飛行機のプログラムでも必ず落語チャンネルがあるほどに。記者はこの分野にも明るくないのだが、きわめて親しいところに落語を習い始めた人がいる。何百万人の一例にすぎないのかもしれないが、その人の談話の中から垣間見えた落語の真実と笑いの真実……。
その人とは大学のある部門室に臨時職として6年ほど同僚だった方。長年地元の市民劇団に参加していて、毎年の公演にも誘ってくれ、記者を市民演劇のファンにしてくれた人だった。人呼んで(自分でもそう呼んで)スーチャン(Suchan)こと須藤文江さんである。その大学の事務部門に勤続し、定年退職も近い頃から演劇活動に熱心な人だ。
実際なんどか芝居を鑑賞したが、小さく細い体に比して、どこからそんな力が、と思えるほど声が大きく、存在感が大きかった。そんなスーチャンは、落語も愛聴していたという。
そんなスーチャンが落語を習い始めたとのは4年ほど前。事務室で聴いたときも、急に何で、と、その唐突さに仰天したものだった……
急に思い立ったスーチャン。ネットで落語を習えるところを探して、ある落語家が師匠となって教える教室を探し、通い始めた。古いマンションの一室。最初は、自己紹介を小話風にしてくれませんかと、いうお題。演劇でセリフのある芝居を経験していたし、落語もよく聴いていたとはいえ、自分で話を実演したことはなく、四苦八苦。
以後、師匠が披露してくれる小話を録画しては、家でそれをパソコンで打って台本にしてみて、覚えるという修業が始まった。
最近は老人クラブのお楽しみコーナーや地域の文化ステーションの落語会で呼ばれることがたびたびとなっている。「じゃじゃ馬亭ガリ子」は、地域では知られつつある。
ぜひ、聞きにいきたい! 落語が日本の町に根付く市民文化であることがあざやかに見えてくる。
「声が大きくて物怖じしないように見えるらしいのだけれど、ほんとうは、ドキドキしいなの。この前6月、動悸がした。おかしいな。激しい運動もしていないのに。循環器の病院に行ってエコーを撮ってもらったら、ほんとうにちょっと不整脈があるということ。なにかストレスがありませんかって聞かれて、家族のことで気がかりなことは最近多々あったけれど、それほど自覚するようなストレスはないと言うと、がんばりすぎるんじゃありませんかって。たしかに、落語に関してはがんばっているかな。でも、これで頑張ることがなくなったらもっとストレスになる。
ともかくでも、落語はちゃんと仕上げたいと思っている。7割の出来でよいと思えないタチなの。上を目指しても限度があるからしようがないのだけども、それでも何とか自分の力を上に持っていって本番に臨みたいと思っている。だから時間がかかるし、苦しい。苦しいのだったら、やらなければいいのにと、自分でも思うこともあるけれど、とてもできそうにないなと思っていたことができるようになると、またやりたくなる。
お師匠さんからは、素人落語家というと癖がついてしまい、自分は結構うまいんだと思っている節が見えてしまう人がいるが、わたしにはそういうのはない、直しようがあるって言われている。」
ええ、それはとてもよくわかります。謙虚に取り組んでいることですね。だからがんばれるのでしょ! ところで、「落語の魅力」とは? どこに感じていますか?
こちらも少し落語の世界に心を開いてみようっと。最後に目下の課題について:
とのこと。大変とはいいながら、楽しんでいるようではある。応援していますよ。
話を聴いた喫茶店のコーヒーの味は忘れたが、スーチャンの話を聞いた後、心に芳ばしい香りと活力が湧いていた次第である。
(まとめ:石井祥裕=AMOR編集部)