矢ヶ崎紘子
子供への二つの語りかけ
読者に十歳の一人娘がいるとしましょう。待望の子です。でも、あなたよりもパートナーの性格を受け継いでいるようで、あなたはいつも「自分の子なのに、どうしてこんなにわたしと違うんだろう?」と悩みながら子育てをしています。一方娘さんはあなたを大好きで、あなたの言ったことを決して忘れません。自分の言葉が子供に大きな影響を与えると知ったら、日々どんな言葉をかけるでしょうか。
「もうすぐ五年生だから、漢字はこれくらい書けなければいけないよ。遅刻しないで学校に行って、決まりを守りなさい。将来社会に出て困らないように」と言うでしょうか。それとも、「あなたが幸せになるように生きなさい。人生があなたに望んでいることを見極めるようにしなさい。ひとが幸せになるように手伝いなさい」と言うでしょうか。最初の言い方は能力のことを言っています。二つ目の言い方は良心のことを言っています。
能力と良心
最初の言い方は、実は紀元前の哲学者プラトンが、『法律』という作品の中で言ったことと同じです(第七巻)。プラトンは社会を成り立たせるためには、子供は何を身につけなければならないかを対話編の中で吟味して、リストアップしました。その教育のリストは、情緒の安定と優れた身体・知的能力、すなわち武術、踊り、レスリング、読み書きなどでした。
子供にレスリングを教える? と思うかもしれません。プラトンの考えは明確です。学習は魂(こころ)向けと身体(からだ)向けの二つに分けられます。魂のための学習は音楽と学術であり、身体には体育つまり踊りとレスリングがあてがわれます。踊りは学芸の神ムーサの言葉を身体によって表現するものであり、また身体そのものの健康や美しさを目的ともしています。レスリングは勝利を愛する気持ちから生じたもので、やはり力と健康を目的にしています。
これらのリストからわかることは、社会に必要な協調性、人間として優れた身体的・知的能力、心身の健康を最大化することが求められているということです。わたしたちの社会で言えば、明朗快活な健康優良児が評価される学校で、体育、プレゼンテーション、国語、算数、外国語、コンピューターなどを学ぶようなものでしょうか。これは、たとえて言うなら、社会という建物を建てるために、子供を丈夫なレンガとして訓練するような考え方です。
もうひとつの言い方は、六世紀の修道院長ベネディクトが、修道規則(『戒律』)に書いたことをもとにしています。ベネディクトは、人間が神を探し求め、神に向かって共に進歩するために、どのように共同体を運営すべきかを書いています。ベネディクトの教育リストはとても長いのですが、最初のほうからいくつか抜粋すると、心を尽くし、霊を尽くし、力を尽くして主である神を愛すること、隣人を自分と同じように愛すること、すべての人を敬うこと、貧しい人たちに食事を与えること、悲しんでいる人を慰めること、などとあります(第四章)。
注意すべきは、やることはたくさん書いてあるのですが、それはすべておのおのの良心、神との関係から出発していること、能力を問題にしてはいないということです。むしろ、何か優れた能力をもった人がいても、自分は特別な能力で皆を助けているのだと思い上がってしまうのなら、その人を職務から外せとさえ言っています(第五七章)。
社会性と良心
プラトンは社会を構成するためには、人々はどうするべきかと考えました。ベネディクトは、人々が神に近づくためにどうやって共同体を運営すべきかと考えました。つまり、出発点と方向が逆なのです。どちらもあたっているように思われますね。みんなが好き勝手をしたら、社会が成り立たないじゃないかという声も聞きますし、他方で、一人ひとりが幸せでなければ、幸福な社会というものもありえないのです。さてさて、二つの本の続きを読んでみましょう。
プラトンは議論を進めていくなかで、子供についてこのように書いています。
やんちゃな子をもつ親ならば、うんうんとうなずくところでしょうか。プラトンは、子供の賢さを高く評価しています。しかし、それぞれの子供がもつ良い性質を伸ばそうという意図はないようです。養育係も、子供が社会的な振る舞いを身につけるように「縛って」おく存在なのです。養育係の責任は、社会に対する責任です。
ベネディクトの教育法はどうでしょうか。修道院長が命令すると、修道士は服従します。その命令は、「良識ある判断(ディスクレチオ)」に導かれていなければなりません。
院長は神からの贈り物である判断力によって、神に近づくことについて熱心であればもっと進歩し、疲れやすい時も脱落しないようにしなければなりません。それは、修道院長自身が神から監督されているからです。こうして、院長と修道士の間には、全面的な責任が生じることになります。この責任は、神に対する責任です。
親の子に対する責任は、プラトンのいう養育者の役割もあれば、ベネディクトのいう院長の立場でもあると思われます。両者はときに矛盾するかもしれません。究極のところ、二人の考えはどこにむかっているのでしょう。
良心の優越性
プラトンは、養育係をさらに役人が監督すべきだとしています。けれどプラトンは、
と言っていて、ちょっと歯切れが悪くなっています。どうやったら理想の国家を作れるかをひとつひとつの能力や制度から考えるやり方の限界が表れているように思われます。
ベネディクトは自分のやり方をどう思っているのでしょうか。
修道生活と信仰の道を進むにつれて、わたしたちの「心は広がり」、表現を超えた甘美な愛をもって「神の掟の道を走る」(詩119:32)ようになります。(序)
天の故郷を目指して急ぐなら、あなたたちは誰であろうと、初心者のために記したこの最も控えめな戒律を、キリストの助けを借りて実行に移しなさい。そうすれば神のご保護のもとに、最後には、先に記した教えと徳のもっとも高い頂きに到達するでしょう。(七三章)
とあります。どうやら、ベネディクトは神に向かって進歩するという人間の生き方において、自分の方法は確実であると保証してくれているようです。
ここまで二人の考えを読んできましたが、最初の問いに戻りましょう。親が子に、教師が生徒に対して、社会でやっていける能力を身につけなさいとだけ語りかけても、もしかするとどこかで行き詰まるのかもしれません。そのとき、良心にしたがって生きるということが、確実な意味を持ってくるのでしょう。
(AMOR編集部)
【引用元】
プラトン『法律』森進一、池田美恵、加来彰俊訳、『プラトン全集13』岩波書店、1976年、31~784頁
『聖ベネディクトの戒律』古田暁訳、すえもりブックス、2000年