キリストによって キリストとともに キリストのうちに
答五郎 降誕祭も終わり、すっかり年末気分かな。奉献文の旅も、ようやく最後の部分、栄唱だ。
問次郎 はい。待っていました。ぼくは結構ミサをクールに見学しているほうですが、ここで聖体を掲げながら司祭が「キリストによって~ キリストとともに~ キリストのうちに~……」と歌っていくときの荘厳な感じがとても好きなんですよ。
答五郎 ここの栄唱は、ミサ典礼書のどの奉献文でも文言が統一されているから、かっちりと頭に刻まれるだろう。美沙さん、全部を読んでもらおうか。
美沙 はい。「キリストによって キリストとともに キリストのうちに、聖霊の交わりの中で、全能の神、父であるあなたに、すべての誉れと栄光は、世々に至るまで」「アーメン」
問次郎 旋律がすぐ口をついて出てきそうです!
答五郎 構文の意味はわかるね。父である神に、最高の賛美をするのだけれど、その賛美は「キリスト」との関係の中で、そして「聖霊の交わりの中で」ささげられていく。動詞はなくてもね。ちなみに原文には「キリスト」という語はなくて、それまでの祈りの「わたしたちの主イエス・キリスト」を受けて「(この方)ご自身」という語(ipse) が使われている。日本語ではわかりやすくするために「キリスト」と言っている。このキリストとの関係が「によって」(per)、「とともに」(cum) 、「のうちに」(in)という、ラテン語でいえば三つの前置詞で表現されているところが面白く、印象深いところだろう。
問次郎 はい、そうです。「人民の人民による人民のための政治」というリンカーンの名言と同じくらい、前置詞の役割が面白くて……。
美沙 「キリストによって」というのは、祈願の締めくくりで唱えられる「わたしたちの主イエス・キリストによって」と同じでしょうか。
答五郎 たしかに、まずは同じと考えてよいだろう。そこも「per」が使われている。「をとおして」とも訳せるので、各祈願がキリストをとおして御父にささげられていくということで、キリストの祭司職や、神と人との仲介者であることを示すものだ。ここも、キリストをとおして御父に賛美がささげられていくとさしあたり考えてよいだろう。
美沙 「キリストとともに」はたびたび繰り返される「主は皆さんとともに」を思い出します。
答五郎 そうだね。ミサ全体にキリストはともにいらっしゃるからね。「キリストはつねにご自分の教会とともにおられ、とくに典礼行為にうちにおられる」と、『典礼憲章』(7項)でも語られるとおりだ。
美沙 「すべての誉れと栄光」が父である神にささげられるための状況や関係が、このキリストに関する三つの句ですが、それは、ミサという祭儀全体についてもいっていることなのですね。
答五郎 そうでもあるし、さらにもっと深く教会全体、キリスト者のあり方に関することでもあるといえるだろうね。三つ目の「キリストのうちに」を見ると、もっとも深いような気がするよ。
問次郎 といいますと。
答五郎 ここの「のうちに」と訳されている「in」は、確かに普通には「の中で、において、のうちに」を意味するのだけれど、他にも訳し方があって、たとえば、「父と子と聖霊のみ名によって」というときの「によって」はこの「in」なのだよ。
問次郎 すると、栄唱の三つの句は「キリストをとおして キリストとともに キリストによって」とも訳せるのですね。
答五郎 この「in」については新約聖書の二つの箇所をヒントとして考えてみるといいのではないかな。ギリシア語ではエンとなるけどね。一つはヨハネ福音書6章56節「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」。ここの「の内に」だ。もう一つはローマ書8章1~2節「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」。
問次郎 二番目の引用はどこが「in」なのですか?
答五郎 「キリスト・イエスに結ばれている」の「に結ばれている」と、「キリスト・イエスによって」の「によって」がここでは「in」なのだよ。
問次郎 へぇー、「に結ばれている」とも訳されるのですか。
答五郎 聖書でも典礼でも「in」はとにかく深い意味があるのだよ。キリスト者の根本的なあり方、生き方全体を「イン・クリスト」(in Christo)と一句で表せるくらいだ。人が洗礼によってキリストと本質的に結ばれるものとなっていること、聖体によって日々、そのあり方が深められているという現実がこの「in」に凝縮されている。
美沙 そう考えると、栄唱のキリストに関する句は、典礼祭儀よりももっと深くキリスト者たちのあり方・生き方にも関連しているということですね。しかも、三つの前置詞もよく考えれば、互いに重なり合っているように思えます。
答五郎 たしかに、この句は、直接は聖体におけるキリスト、さらに奉献文全体に関するキリストのことを示していると思うけれども、広くは、ミサ全体、そしてキリスト者のあり方全体にも及ぶ。そしてもっとも深くは神自身のあり方、父と子と聖霊である神のあり方そのもの、そこにおける御子キリストの位置にもつながるだろうね。さっきのヨハネ福音書やローマ書の箇所は深いヒントになる。同じことは、次の「聖霊の交わりの中で」という句にもいえるのではないかな。
問次郎 そう、この「聖霊の交わり」ってなんなのかなとは疑問に思ったことがあります。ラテン語の原語はなんというのですか。
答五郎 実はここで「交わり」と訳されている語は、ウニタス(一致)なのだよ。聖霊は、神自身のあり方の一つとして、だから「聖霊の交わりの中で」は「聖霊の一致によって」「聖霊による一致のうちに」など訳すこともできるのだよ。聖霊は父と子の交わり=一致そのものだという理解が示されているのだね。
美沙 あぁ、やはり聖体、奉献文、ミサ全体、キリスト者のあり方、神自身にもかかわる三重、四重、五重の意味があるのですね。
答五郎 ほんとうに味わい尽くせないものがあるだろう。奉献文という大きな祈りにふさわしいと思わないか。ところで、この栄唱の結び、ミサ典礼書を見ると「アーメン」だけが会衆の唱えることばとなっているだろう。
美沙 ほんとうですね。でも、普通「すべての誉れと栄光は~♪」というところから歌いますね。
答五郎 それは日本の場合の特例で、歌うときには、そこから会衆が合唱してもよいということになったからなんだ。その慣れで、唱えるときにも実際ここから会衆も唱和する習慣になったようだ。
問次郎 そうなのですか。ぼくなどは好きな賛美句なので、司祭が声を高めて「キリストによって~♪」と歌い始めたときに、思わず声を出しかけたことがありますよ。
答五郎 賛美の気持ちが高まるとそんなことがあるかもしれないね。さて、まだほかにあるかもしれないが奉献文はここまでとして、年明けから「交わりの儀」に入ろう。それでは、よいお年を!
問次郎 答五郎さんも!
美沙 ありがとうございました!
(企画・構成:石井祥裕/典礼神学者)