晴佐久昌英神父講演会「キリシタンの生き方―映画『沈黙』から―」3

前回の内容はこちらです。

 

4.スコセッシが伝えたかったものとは

私はこの映画を試写室で観たのですが、この試写会はキリスト教関係者の試写会でしたので、私の他にプロテスタントの牧師先生たちも来ておられました。そのうちの一人が映画を見終わって私に、「映画、どうでした?」と聞くのです。おそらく、「これが晴佐久か」と思って、面白半分に反応を見ていたのでしょう。そこで私は思いの丈を、今申し上げたようなことを声高に言いました。「こういう話って、今もありますよね? こういう原理主義的な教えで、人びとを縛り付けている教会って沢山ありますよね?」と。私は正直、少々苛立っていたのです。映画が終わったときに、前に座っていた別の牧師さんが、「いやー、こんな迫害に合ったら、私は自分の信仰を守れるかどうか不安ですね」と言って、もう一人が、「そんなことがないように、お祈りいたしましょう」と答えるのです。

私はこの二人の感想を聞いて愕然としました。私は全く違う感想だったのです。私は自分の信仰が守れるかどうかなんてまったく関心がなくて、「この人たちを、どうやったら救えるだろうか」ということしか頭にありませんでした。「信仰が守れるかどうか」なんて、結局自分の話だからです。果たして、これらの発言に愛があるでしょうか。少なくとも、スコセッシが伝えたかったこととは違うと思います。スコセッシは、かつてこうした苛烈な現実があったということを取り上げながら、現代の分断の世界に問題提起をしているのです。スコセッシが映したのは、同時代人としてのキリシタンです。「あなた方は何を信じているのか」「愛はあるのか」と。キチジロー以上に苦しんで、うちのめされた主人公ロドリゴは、まったく完全な無力に陥って、そうしてはじめてイエスの愛、真の普遍主義的なキリスト教に目覚め始めた、というところで映画は終わるのだと思います。

スコセッシはアメリカのカトリック信者です。イタリアのシチリア島出身の移民の家に生まれています。以前若いころに、ちょっと挑発的なキリスト教映画を作っていたことがあり、しばらくカトリック教会から批判されていたのですが、彼自身、人生の苦しみの中で、宗教的な考え方も変わっていったのです。スコセッシは、カトリックの側の原理主義的な教え、「イスラームの人は救われない」といったような教えと直面して、思うところがあったようです。「本当の福音とは何か」「この時代を救えるのは何か」ということを問い、私の言う普遍主義的な宗教を希求しつつも、「この教えの他に救いはない」という原理主義的なキリスト教には距離をとっていたと思います。「宗教はどれも原理主義的なものばかりで、他の宗教を認めず、このままで戦争と暴力が世に満ちてしまうではないか。いったいどうすればいいのか」と、悩んでいたわけです。あれだけの賢い監督ですから、当然そのような思惟を持っていたわけです。

そういう時期に、日本を代表するカトリック作家である遠藤周作の『沈黙』を読んで感銘を受け、お互いカトリック同士でもある遠藤周作とスコセッシが会ったときに意気投合し、「この作品を必ず映画にする」と約束をしたのです。それから四半世紀以上経って、遠藤は天上の人になりましたが、スコセッシはついに遠藤との約束を果たしたのです。さすがはシチリア系、約束を破りません。イタリアのマフィア映画のようにです(笑)。

 

5.原理主義に陥ることなく、透明な思想同士の連帯を

私は以前より、縦割りの宗教ではなく横割りの宗教を提唱しています。縦割りというのは、「私はイスラームです」「私はカトリックです」「私はプロテスタントです」「私は仏教です」「私はヒンドゥー教です」などといった、宗教や教派、宗派別にとらえる方法です。原理主義的な傾向というのは、どの宗教の中にもあるもので、各宗教の中にグラデーションがあるように思います。どの宗教の中にも底の方には真っ黒の原理主義的な教条主義的な人たちがいます。一方、水面に近い上の方には、透明に近い普遍主義的な対話可能な人たちがいます。宗教的な排外主義や自爆テロなどというのは、この真っ黒な原理主義の最たるものです。ここに愛はありません。

カトリックは1960年代の第二バチカン公会議を経て、普遍主義的な透明感のある教えを極めようとしていますが、その一方で、その反動からか、「教会の他に救いなし」を地で行くような原理主義的なカトリックもまたあるように見えます。しかし大多数は、透明に近いカトリックであると信じたい。透明になると横同士つながることができるのです。対話することができるのです。見通しがいいからです。一緒に物事を見たり考えたりすることができるわけです。各宗教の透明な者同士の連帯が生まれてきます。いわゆる横の線です。これが私の言う横割りの宗教です。ある意味、この横の線で見てみると、同じ教派でも、この透明と黒は別の宗教のように見えます。この透明な者同士の連帯、普遍主義同士の連帯をきちんとやっていけるようにするのが私の仕事であると思っていますし、またイエスこそがこうした普遍主義の徹底をやっていたのではないでしょうか。

パウロも「ユダヤ人もギリシャ人もない」と言っていますが、「主人か奴隷か」「男か女か」という二元論的な縦の線に囚われるのではなく、「皆、神様に愛されている、赦されている」という横の線を大切にしましょうということなのです。決して、宗教を透明と黒とに二分するのではありません。透明に近い思想の人たちは、暗黒な原理主義に苦しんでいる人たちを救い出さなければならないのです。黒から透明に近いグラデーションに近づけなければなりません。イエスはそうした、透明へと向かうベクトル、普遍主義へと向かうベクトルを示しています。私はそれが愛だと考えています。普遍主義者が原理主義者を救わなければ、ますます原理主義が世の中に増えて、すべての人を敵味方に分ける二元論的な発想が世を支配し、しまいには核ミサイル合戦になって世界は終わってしまいます。そうした破局を防ぐのが、普遍主義者の使命だと考えています。皆さんも、普遍主義の同志、レジスタンス、あるいは「福音家族」として、ともに闘いましょう。

(了)

(構成=倉田夏樹:南山宗教文化研究所非常勤研究員/写真=石原良明:AMOR編集部)

 


晴佐久昌英神父講演会「キリシタンの生き方―映画『沈黙』から―」2

前回の内容はこちらです。

 

3.映画「沈黙―サイレンス―」をどう観たか

さて、皆さんはこの映画をご覧になったでしょうか? 私がよく人から聞かされる感想は、「ここまでして信じなければならないのか」というものでした。

私の感想としましては、他に私が書いた文章がありますので、こちらを読ませていただきたいと思います。これは「ジャパン・ミッション・ジャーナル」という雑誌に寄稿した「映画『沈黙』を観て」というもので、これはマーティン・スコセッシ監督が、日本の観客が映画を見てどう思ったか、どういう反応があったかということを知りたいということで、企画されたもので、私もまた感想を求められたのです。これらの文章は英訳されて、スコセッシ監督も目を通しました。

 

* * *

 

「映画『沈黙』を観て」

私は、今年司祭叙階30周年を迎えた、日本人のカトリック司祭です。幼児洗礼を受け、一般的なカトリック教会の教会学校で教えを受けました。子どものころは、カトリック信者だけが救われるというような原理主義的な教えに疑問を感じていましたが、10代後半に、第二バチカン公会議の普遍主義的な精神に触れて大きな影響を受け、司祭職への召命に目覚めました。司祭に叙階されてからは、苦しむ人々と共に生き、普遍的な神の愛の福音を語ってきました。

今、私は、「キリストの十字架と復活は、天の父の無限の愛の現れであり、すべての人はそれによってすでに救われている」という普遍主義的な福音を明確に宣言する司祭として、多くの人から支持されています。福音を聞いて、自らがすでに救われていることに目覚めると、大きな喜びと真の自由がもたらされます。「救われていることに目覚めて、救われる」のです。そうして救いを実感した人たちの中には、キリストの教会との一致を求めて、洗礼を受ける人も多くいます。つまり、「洗礼を受けたから救われる」のではなく、「救われていることに目覚めて洗礼を受ける」のです。前任の教会では、6年間で500人以上に洗礼を授けました。おそらく、今、日本で最も多くの洗礼を授けている司祭だと思います。

そのような一人の司祭として憂いているのは、現代のキリスト教に、今もなお、原理主義的な教えが色濃く存在することです。すなわち、「イエスへの信仰を告白しないと、救われない」とか、「キリスト教の洗礼を受けないと、天国に行けない」とか、「教えを棄てた罪人は、死後裁かれる」などという教えです。それらは、必然的に、人々に二元論的な信仰をもたらして、人々を分断し、不必要に苦しめます。そのような教えはまさに、イエスの時代のユダヤ教の選民思想であり、律法主義であり、分断主義、すなわちファリサイズムであって、イエスの教えはそれらを否定するものであったはずです。原理主義的なキリスト教の誤った教えによって、現代もなお、多くの人が「救われない」、「天国に行けない」、「裁かれる」などと思い込まされて苦しんでいるのは、事実です。私は、そのような多くの原理主義的な教えの犠牲者に寄り添い、彼らを、普遍主義的な福音によって救い続けて来ました。彼らは、誤った教えのために、どれほど恐れ、苦しみ、それゆえに心を病んでしまったことでしょうか。それは文字通り、地獄の苦しみであり、その地獄を生み出したのが他ならぬ、誤ったキリスト教であることを、どれだけの人が意識しているでしょうか。私は、イエスが、なぜ、あれほどまでに律法主義者とファリサイ派という原理主義者たちを厳しく批判したのか、その気持ちが痛いほどよくわかります。

『沈黙』を見て、最も感じたことは、これは、全く現代の話だということです。殉教の苦しみにせよ、棄教の苦しみにせよ、どちらも無ければ無い方がいいに決まっている苦しみであるはずですが、残念なことに、今の時代にあっても同じような苦しみが数多く存在します。原理主義的教義を信じさせられることによって自らの可能性を閉ざし、周囲と対立してしまうのは、現代の殉教です。逆に、そのような生き方が苦しくて、教えから離れざるをえず、しかしそれゆえに永遠の滅びに至るのではないかと恐れて生きるのは、現代の棄教です。どちらも、イエスの福音がもたらす喜びとは無縁な選択肢です。なぜ、このような野蛮な二元論がいまだに生き残っているのか。それは、キリシタン弾圧を始め、全世界の多くのキリスト教への迫害とそれによる殉教が、実はキリスト教自身の原理主義が招いた悲劇であることを理解していないからであり、それゆえにきちんとした反省もなされていないからです。

イエスが十字架を背負ったのは、人々を救うためであって、人々に十字架を背負わせるためではありません。もしも十字架を背負わなければ救われないのなら、捕まるときに「この人たちは去らせなさい」(ヨハネ18:8)と言って弟子たちを逃がそうとはしなかったはずです。むしろ、イエスは、試練や苦難という十字架をすでに背負っている私たちに、「重荷を負うものはだれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。……私のくびきは負いやすく、私の荷は軽い」(マタイ11:30)と言って、私たちが背負っている十字架を軽くしてくれたのであり、それこそが福音の原点なのではないでしょうか。そうでないならば、イエスが私たちのために十字架を背負った意味がなくなってしまいます。パウロが言う通りです。「キリストが私を遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」。(1コリ1:18)

イエスは、殉教したのではありません。教えのためでも掟のためでもなく、愛のために死んだのです。イエスは、私たちの殉教を望んではいません。彼の望みはただひとつ、彼が私たちを愛したように、私たちが互いに愛し合うことです。明日は殺されるという前夜、イエスは弟子たちの前にひざまずいて、彼らの足を洗いました。「その汚い足で、私を踏みなさい」と言うかのように。使徒ペトロが「私の足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは「もし私があなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えました。(ヨハネ13:8)

イエスは、こう言っているのではないでしょうか。「私は、あなたに踏まれて、あなたを生かすために死ぬのだ。私を踏まなければ、あなたは私と何のかかわりもないことになる」もしも、フランシスコ・ザビエルが、第二バチカン公会議の神学を知っていたならば、あのような、世界史に類を見ない残酷な迫害は引き起こされなかったと、私は断言できます。そして、現代という分断と排除の時代に、キリストの教会は自らの内なる原理主義に真剣に向かい合い、第三バチカン公会議にむけて、より普遍的な福音の教えを、言葉としるしで証ししていく義務があると思います。それこそは、殺されていったキリシタンたちと、殺されずに苦しみ続けた隠れキリシタンたちの犠牲を無駄にしないために、そして二度とあのような悲劇を繰り返さないために、現代の教会に課せられた義務です。映画のラストで、主人公の手のうちにあった十字架は、「実は彼は、キリスト教を棄てていませんでした」というような二元論的な描写ではないはずです。私はそれを、「普遍主義的信仰の道への尊い第一歩を踏み出した彼こそが、真のキリスト者なのだ」という、スコセッシ監督からの気高い宣言として受け止めました。

(”Ten Responses to Martin Scorsese’s Silence 1. Healing Fundamentalism” The Japan Mission Journal, Summer 2017, p.108-110)

 

* * *

 

これを翻訳してくださったアメリカの神学者は、「これはまさしく現場からの声だ」と評価してくださいました。今も日本にいる、「踏むか、踏まざるべきか」の二元論で苦しんでいる日本人たちの現場に私もいるわけです。そこに横たわっているのは、原理主義的な恐ろしい教えです。原理主義は二元論的です。この魔の手から救い出すのは難しいことで、本当にパワーが必要で大変なのです。「この教えを信じなければ救われない」という原理主義、分断主義によって、みんな心を病んでいます。その現場でいつも私は、「いいやあなたは、必ず救われる」と宣言してきたわけです。それでも、一度原理主義、分断主義に陥った者は、「晴佐久神父はああ言うけれど、あの教会に戻らないと私は救われないのでは……?」という思いから抜け出せず、戻っていくこともあるのです。そこに戻っても本当の心の平安がないにもかかわらずです。

そうした現場から私はこの映画を見るわけですから、あのキリシタンたちがそうした青年たちに重なって見えてきます。そうすると、「この教えを信じ、この洗礼を受けなければ地獄に落ちる」という原理主義的な教えは、「やっぱり、やってはいけないことでしょう」と思うわけです。残念ながら、フランシスコ・ザビエルの時代のキリスト教はこうした色彩が強いものでした。もちろんイエスに由来する普遍主義的な愛の教え、すべての者を救う神の教えもまた伝わっていましたが、両者がせめぎあっていて、はっきりしないまま、宣教師の中でもモヤモヤしたままに、受け継がれていたのです。時代的な制約もあるでしょうが、原理主義的な傾向がありました。

私はもしもタイムマシンで好きな時代に行けるのならば、戦国時代に行きザビエルと一緒に日本に上陸したいです。そして仏教の人と対話をし、神道の人と対話をし、信長と対話をし、秀吉と対話をし、神の普遍主義について語りたい。以前の「教会の他に救いなし」のカトリックではなく、第二バチカン公会議の「他の宗教にも救いの道がある」という普遍主義的な現代カトリックの教えをひっさげてザビエルが日本に上陸していたら、日本のキリスト教史はどのようになっていたか見届けてみたいのです。

キチジローは可哀想すぎます。自分を責め続けたわけでしょう? 雄々しく殉教していくキリシタンは立派だと思いますが、そんな思いはしないにこしたことはないわけです。決して、「殉教者は教会の種」などとは言えません。殉教などせずに済む、真の普遍主義のキリスト教の道を究めるべきなのです。そしてキチジローに、「あなたこそ、クリスチャンですよ。そんなあなただからこそ、イエス様はおられるのだから大丈夫、心配するな。あなたは救われている」と言ってあげたいのです。そんなキチジローは映画の中だけではなく、私の目の前に沢山いるわけです。他人事には思えませんでした。

つづく

(構成=倉田夏樹:南山宗教文化研究所非常勤研究員/写真=石原良明:AMOR編集部)

 


晴佐久昌英神父講演会「キリシタンの生き方―映画『沈黙』から―」1

2017年5月28日、上智大学のホームカミングデイであるオールソフィアンズフェスティバル2017が開催され、この春より運用されているソフィアタワーにて晴佐久昌英神父の講演会が行なわれました。2013年より毎年恒例となっているこの講演会ですが、今年のテーマは「キリシタンの生き方―映画『沈黙』から―」でした。その内容を3回にわたってお届けします。

 

1.ソフィアタワーにて

私は色々なところに講演に呼んでいただいていますが、このオール・ソフィアンの会には、毎年呼んでいただいており、嬉しく思っております。正直ここが一番落ち着くのです。また帰ってきたという気持ちです。

恒例の会場となっていた上智大学の3-521という教室は、私にとって思い出深い教室で、神学生時代の私がいつも爆睡していた教室なのです(笑)。それで来てみるとどこですか、ここは(笑)。会場は変わっており、ソフィアタワーという名前がつけられている建物の一階大ホールです。そりゃ綺麗なのだけど、慣れ親しんだ会場ではないので、「あてが外れたなあ」という思いです。

晴佐久昌英神父

先週私は、上野の教会から散歩に出かけて、上野公園の東京都美術館でのブリューゲルの展覧会に行ってまいりました。「バベルの塔」という絵を観てきました。これで二度目です。あのまがまがしき塔をつくづくと眺めておりました。「神のようなものになりたい」「有名になりたい」と思って、あの有名な塔を建てたのです。神はそれに怒り、人間同士の言葉を通じなくさせ、コミュニケーションできなくしたのです。絵を観て改めて、人間の業の深さ、「もっともっと」という欲の深さについて考えさせられました。

この「塔」にまつわる人間の愚かな話を、午前中ミサで散々話してからここにきますと、なんと会場が「ソフィアタワー」となっているではありませんか。なんということでしょうか! カトリック大学が自分の敷地内に「タワー」を建てて喜んでいるとは。そして中には大手銀行の本店を入れているなんて。これは事実です(笑)。

私は、こういうことなのだろうと信じたいと思っています。それは、世の中は本当に大切にすべきという優先順位を間違っている。何でも「金金」となっ てしまっていて、「天にまで届く塔を建てよう」という傲慢な世の中になっているではありませんか。特に金融の世界では、金持ちばかりを優遇して、貧しい人ばかりを踏みにじっているわけです。そんな現実の中で、さすがはカトリックの上智大学、大手の銀行をあえて身内に加えこんで、それを神の愛に満ちた銀行に変えていこうとしているのではないでしょうか(笑)。あおぞら銀行は、1Fロビーに、貧しい人にお金を貸すデスクを作ることでしょう。それがカトリック大学の敷地内にある銀行の姿です。来年、この講演に来た時に、チェックしたいですね(笑)。そうでなければ、「くろくも銀行」と呼んであげたいです。ちょうど、ブリューゲルの「バベルの塔」にかかっている黒雲のように。あおぞら銀行の今後に心から期待したいと思います。

 

2.殉教か、殉愛か

私、晴佐久神父のとりえは、優先順位を間違えないということを優先順位のトップに持ってくるということです。司祭生活30年、いろいろ試行錯誤してまいりました。何が優先順位のトップかというと、もちろん愛に決まっているのだけど、何か普遍的な愛、普遍主義的な愛を優先順位のトップにおいて行動しています。

最近、あるプロテスタントの教会に通っているという青年が私の教会の入門講座にやってきました。これは決して、プロテスタント批判をしたいとかそういうわけではなくて、カトリックの教会にもこういう傾向があるかもしれないということを前提とした上で言うのですが、その青年は牧師先生から叱られたというのです。それは日曜日の礼拝に出席しなかったからだそうです。でもそれは、彼は地元の商工会議所の集まりに行っており、地元を盛り上げるためと、コスプレーヤーってご存知でしょうか? いろいろなキャラクターの格好をするあれです。町おこしのイベントのために、コスプレをやっていたそうです。そういったものに携わっていたから、日曜日は教会に行けなかったそうなのです。

それを知った牧師先生はこう言ったそうです。「そんな所に君は行ってはいけない。あの人たちのところにイエス様は行かないよ。彼らは救われない人たちなんだ。あなたはこうして、救いの教会に来ているんだから、日曜日はあんなところに行かないで、教会の礼拝に来なさい」と。それで、彼は苦しみました。地元の仲間たちがいる、地元を盛り上げたい、応援もしたい、自分の仕事でもある。しかし牧師先生は言うわけです。「あの人たちは救われない人たちなんだ」「あの人たちのところにイエス様は行かないよ」。

その青年は苦しみぬいて、そのことを友人に相談しました。その友人は、今年の春私の教会で洗礼を受けた人でした。そのいきさつを聞いて、「うちの神父さんだったらそのようには言わないよ。一度うちの教会に来てみたら?」と言って、上野教会に連れてきました。そして私は彼に会いました。その青年は、びっくり仰天したわけです。言っていることが全く違うのですから。私は彼にこのように言ったのです。「あの人たちのところにイエス様は行かないよ、イエス様は自分たちのところにいるよ、などと言う人のところにイエス様はいないよ」と。そりゃイエス様は、どこにでもいると言えばいらっしゃるのだけど、「あそこにはいない」と、人が決めつけてしまってはいけないわけです。

上智大学ソフィアタワー(6号館)の101号室には、約350人が集まった

今日のミサの福音書の箇所、皆さん聞きましたでしょ? マタイによる福音書の最後の一行です。「私は世の終わりまで、あなたがたと共にいる」(28章20節)。これは、すべての人に語りかけたイエスの福音です。これは、「OOのところにはともにいるけど、××のところにはともにいない」といった話ではないのです。イエスはすべての人を選んでいるとも言えるわけなのです。マタイの最後で、すべての人を前にして、「世の終わりまで、あなたがたと共にいる(インマヌエル)」とイエスは宣言しているわけです。実に、美しい福音です。この一行を心の糧にして、この苦難の時代を、このバベルの町を生き延びようではありませんか。

本来ならキリスト教はその彼に対して、「君も地元のために、頑張っているんだね。私たちが教会でうまくいくように祈っててあげるから、安心して行っておいで」と言うべきではないですか? それが愛なのではないでしょうか。ガチガチな律法主義に愛はありません。「愛がなければ無に等しい」ということは、優先順位のトップに来るものです。「その人に何がしてあげられるだろうか」と考えることもそうです。その先にあるものが殉教でしょう。ヨハネによる福音書15章13節に、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とあります。しかしこれは、殉教、すなわち「教えに殉じた」のでしょうか? 違うと思います。これは「愛に殉じた」のですから、「殉愛」と言えるものでしょう。

たとえばアウシュヴィッツで、あの有名なポーランド人のコルベ神父が死にたくないと泣き叫ぶ他の人の身代わりとなって死にました。そのことから殉教者と言われますが、これも厳密には、「教えに殉じた」のではなく「愛に殉じた」と私は思います。掟があるからいやいや身代わりになったのではありません。泣き叫ぶユダヤ人に対して、自分の生命よりも愛を優先順位のトップにしたからこそ、身代わりになったのでしょう。

イエスは殉教したのですか? イエスの死は殉教ですか? 「掟に殉じた」のですか? やはり違うでしょう。「愛に殉じた」と思います。弟子たちを愛し愛し愛しぬいたゆえに、「お前たちを生かすために俺が死ぬ」というのがイエス様がなさったことです。決して、イエスは弟子たちに殉教を求めないはずです。「神は殉教を望んでおられるか」という問題提起に対して、本題である映画「沈黙―サイレンス―」について考えていきましょう。

つづく

(構成=倉田夏樹:南山宗教文化研究所非常勤研究員/写真=石原良明:AMOR編集部)

 


第41回日本カトリック映画賞授賞式&上映会レポート

2017年5月20日、第41回日本カトリック映画賞授賞式&上映会(主催:SIGNIS JAPAN、後援:カトリック中央協議会広報)が、中野ZERO大ホール(東京都中野区)にて行われました。

1976年に始まった日本カトリック映画賞は、毎年、前々年の12月から前年の11月までに公開された日本映画の中で、カトリックの精神に合致する普遍的なテーマを描いた優秀な映画作品の監督に贈られます。今回の受賞作は、片渕須直監督『この世界の片隅に』(原作は、こうの史代さんによる同名の漫画)です。

受賞理由について、日本カトリック映画賞を選ぶSIGNIS JAPAN(カトリック・メディア協議会)の顧問司祭である晴佐久昌英神父は「今年ほどこんなに誇らしく、幸いな気持ちで受賞理由を述べるのもめずらしいくらいの大きな喜び、というくらい、この映画が大好きです」と話し、一番の受賞理由として、「最初に映画を観たとき、今という時間や生活、そして一人ひとりを大切にしなければと思いました。一人ひとりのうちに秘められた尊さをもっと大切にしたい。その気持ちを皆さんにも味わってほしい」との思いを語りました。さらに主人公のすず(CV:のん)が自分にとっては実在の人物で家族同然だと述べた上で、「この世界の片隅に誰が住んでいるのか。この世界の片隅に、どうでもいい人がいるわけではない。その人が幸せでなければ私も幸せになれない。この世界の片隅に幸せが訪れない限り、誰も幸せになれない。こんな当たり前なことにもう一度気付かせてくれた。わたしはこれからすずさんと一生いっしょに暮らしていくことになります」と熱く思い入れを語りました。

この映画が教えてくれる福音的なメッセージとして、「これらの小さなものの一人を軽んじないように気をつけなさい」(マタイ福音書18章10節)という言葉を引用し、「聖書の時代も今この現代も、この世界の片隅の一人ひとりが軽んじられている。しかしこの世界の片隅こそが、この宇宙の中心なんです」と話し、他者や弱者を大切にするまなざしや思いを新たにしてくれるこの映画への感謝を述べました。

 

授賞式の様子(土屋至・SIGNIS JAPAN会長より、表彰状が手渡される)

クリスマスみたいなのをやれるのが平和だと思う

晴佐久神父と片渕監督の対談は、「日本カトリック賞と聞いてどう思いましたか」という晴佐久神父の質問から始まりました。片渕監督は「そんな賞があるんだなと思った」と正直に答えましたが、実は家系がカトリックと縁があるとのこと。ひいおばあさんがカトリックの信者で、ご自身も教会に所属の幼稚園に通っていたそうです。

それを受けて、「冒頭で賛美歌が流れていたことと何か関係があるのですか」と晴佐久神父が聞くと、「そういうわけではなく、クリスマスのシーンを表現するために賛美歌を使った」ということです。原作は翌年の昭和9年の1月から始まっているため、このシーンはアニメオリジナルです。これについて監督は「クリスマスみたいなことをやれるのが平和なんじゃないかなと思って」と話しました。このクリスマスのシーンは非常に重要な意味を持っています。

 

理不尽さと救い

次に、晴佐久神父が「映画を観て、普段の生活が突然壊される恐ろしさや理不尽さ、機銃掃射(きじゅうそうしゃ、機関銃で敵をなぎ払うように射撃すること)のリアリティを感じました」と感想を述べると、監督は「本当は日常だけを描きたかったんです」と話しました。しかし、「原作はあえて戦争も描いているので、それによって日常のかけがえのなさや意味深さが見えてくると思った」と続けました。

また、「すずさんと晴美さんが歌を歌ってるところから始まって、それがラッパの音になって、それから大きな音が聞こえてきて、大砲の音が鳴って」というような戦争の描写についても、「音によって戦争が発展していくのは、漫画では表現できないこと」であり、色についてもそれが同じであると監督は言います。空が爆発しているシーンは非常に色とりどりで、晴佐久神父は「きれいだなと思っちゃった」と話しました。実際にお二人が戦争を体験した人から聞いた話には、赤く染まった空がきれいだったとか、B29がきらきらしていたという感想もあったそうです。

できあがった2時間の映画を通しで見たあとに、監督は「すずさんを救いきれていないような気がした」と感じたそうです。生き残ってしまった人が自分のせいで誰かが死んでしまったのではないか、と罪の意識に苛まれてしまう「サバイバーズ・ギルト」というものがあります。監督は、すずさんの背負ったものが大きすぎると感じ、エンドロールにもアニメーションを入れました。「あのエンドロールのおかげで、私たちも本当に救われた気持ちになる」と言う晴佐久神父に対して、監督は「本当にあそこまでそろって一本の映画なんじゃないかな」と応えました。ここもアニメオリジナルのものです。

 

片渕監督と召命

この映画によって救われたのは、すずさんや観客だけではありません。晴佐久神父が「監督のこの映画を作ろうと思ったモチベーションはすごいなと思いました。それはただのエゴや仕事を超えた何か、これはどうしても作らなければっていうような思いが自分の中にあったのではないかと思ったんですが、いかがですか」と尋ねると、監督は「一つはこれを作ることで、自分自身としても救われるんじゃないかなという気がしました」と答えています。

片渕須直監督(後ろは幸田和生・SIGNIS JAPAN顧問司教)

監督は原作を知ったときから、これは多くの人に観てもらえるものになると思っていたそうですが、「こういう映画を形にすることができるなら、自分が今まで生きてきたこと、経験してきたことが色んな意味でその映画の中で結実できるというか、自分がここまでやってきたことが無駄じゃなかったんだなという意識を抱けると思った」と続けました。

また、この映画を作るための資料集めが苦にならなかったという「オタク気質」な監督は、戦闘機や飛行機がお好きだそうで、その知識も豊富です。そのような積み重ねがこの映画につながっており、「このために僕は存在していたんだろうかって思ったくらい」だと話します。それに対して、晴佐久神父が「カトリックではそれを『召命』って呼ぶんですよ。神に選ばれて使われているんだって考えです」と言うと、監督は「誰かに使われているんじゃないのかなっていうふうな気持ちは本当にしました」と語ります。

 

どこにでも宿る愛

映画の最後のほうで流れる歌に、「どこにでも宿る愛」という歌詞が出てきます。「周作さんという旦那さんとすずさんは本当にたまたまの偶然みたいなもので出会ったかもしれないけれど、出会ったがゆえに愛情が芽生え、育っていくこともある」と監督は話し、「一番最後の広島で見つけてきた孤児ともたまたまの出会いなんですけど、そこに宿る、宿っている、育っていく愛があったろうなと思う」と続けました。

原作では、この言葉はすずさんの失われた右手の言葉として出てくるそうですが、「そういう意味では、悲劇は悲劇だけれども、決して悲劇で終わらず、失ったかに見えるものが非常に大きな働きをしている。希望になりますね」と晴佐久神父は話しました。

 

一人ひとりの大切さ

印象に残ったシーンとして、「群集のシーンが忘れられない。本当に一人ひとりが生きているというか、ちょっと駅ですれ違っているような人、ちょっとおしゃべりしているような人も、その一人ひとりにすずさんと同じ場面や人生というか、喜びや悲しみがあるんだなと思った」と語った晴佐久神父。それについて監督は、「自分は映画の中に存在している群集のほうかなって思ってしまうので、自分もここに存在しているから気にしといてね、という感じで」とコメント。

それを受け、晴佐久神父は「一人ひとりを大切にして作られている映画だなという気持ちになったし、僕らも自分中心で生きているけれども、ふっとすれ違った一人ひとりがとても尊い人生を生きているんだなと感じさせてくれた」と話しました。さらに、一人の司祭としてこの映画を選んでよかったことでも、「この作品の奥に一人の人間の美しさっていうものを私たちはきちんと見ることができる、表現することができる、そういう希望や励ましをもらったのが大きかった」と、動くすずさんに出会えたことの喜びを熱く語っていました。

 

晴佐久神父とアニメ

監督は幼稚園に上がる前からアニメーションを見始め、東映の長編アニメーションや鉄腕アトムというタイトルが出ると、同世代かもしれない、と晴佐久神父が反応(片渕監督は1960年、晴佐久神父は1957年生まれ)。さらには「映画を観ていてカット割りが本当にテンポよくって、こんなに観ていてゆったりしたほがらかな気持ちで観ていながら、よく見るとカット割りは本当に細かくきちんとつながれていてびっくりした」と話しており、受賞理由でも『君の名は。』に触れるなど、晴佐久神父はアニメーションにかなり詳しいようです。「カット割り」は映像関係の専門用語ですが、神父様の口からそんな言葉が出ることに少し驚きました。さすがはSIGNIS JAPANの顧問司祭。

晴佐久昌英神父

晴佐久神父が指摘したように、テンポが速いのには理由があります。原作の漫画は週刊連載でたくさんのエピソードから成っているのですが、それをできるだけ全部入れようとしたためにこのようなテンポになったそうです。晴佐久神父が「本当にテンポがぽんぽんと、もっと観ていたい、美しい絵なのに、あっという間に過ぎていく」と名残惜しそうに言うと、「すずさんのある一日を長く描いて、代表的な何日しか描かないという方法もあったのですが、すずさんがお嫁に来てからその先の丸二年間、こういう毎日があったんだよっていうことを紹介したかったんです」と監督は述べました。

そして、晴佐久神父が「ずーっと長く愛されますよ。『この世界の片隅に』以前以降って言われるくらい、大きな影響力を持っていて、特にこの年代(70代や80代、時には90歳を越えた方もいたようです)の方たちがアニメを観るっていう(のはなかなかないこと)」と絶賛すると、片渕監督は「そういうのは本当にありがたいなと」と述べ、続けて「アニメーションには色んな可能性がまだ秘められていると思っていますので、こういう映画も作れるし、また別のタイプのも作れるでしょう。色んなジャンルがアニメーションという技法で表現できるし、作られると思いますので、もしそういうのを見かけたときは是非ご覧になっていただけたらありがたいかなと」とアニメーションの可能性を語りました。

 

映画の見どころ

対談の様子

最後に、大切に観てほしいシーンを聞かれた監督は、意外にも「服」に注目してほしいと答えました。その理由を「すずさんは色んな服を着ているように見えますが、実はそんなに多くの数を持っているわけではない。小さいころにおばあちゃんがくれた椿の柄の着物や、お義姉さんモガ(モダンガール)だったんですね、と言っていたお義姉さんの服がどうなっていくのかというように、服の上にも歴史があるので、その服の運命を観てほしい。びっくりするくらいドラマチックです」と語りました。

最盛期よりは上映館数が減ったものの、今回のようなホールでの上映や、季節柄8月にも再上映の可能性があるとのこと。最後に、監督は「何度も観ることで、また違ったものが見えてくると思います。群集の一人ひとりに色と表情がついていて、世界の切れ端がこの映画の中にあります。画面の真ん中だけでなく、端っこにもたくさんのドラマが潜んでいるのかもしれません」と述べ、晴佐久神父が「画面の片隅にも注目ということですね」と締めくくりました。

(文:高原夏希、写真:石原良明/AMOR編集部)

 


クロマニヨン人と「まんまカフェ」

晴佐久昌英(カトリック浅草・上野教会主任司祭)

上野の国立科学博物館へ、話題の「ラスコー展」を見に行ってきました。

中学校の歴史の教科書に載っていた、ラスコーの壁画を覚えている人も多いでしょう。2万年前のクロマニヨン人が洞窟の壁に描いた、「石器時代のモダンアート」とでもいうべき牛や馬の絵ですが、それを、最新技術のレーザースキャンや3Dプリンターで、色も形も本物そっくりに再現した、実物大の模型が展示してありました。

その精巧な再現力に驚かされましたが、実はそれ以上に驚かされたのは、当時のクロマニヨン人の家族と生活の様子もまた、本物そっくりに再現して展示してあったことです。まるで生きているような彼らの表情に、思わず近寄って、その顔の前で手を振ってしまったほど。もちろん人形ですから、まばたき一つしませんでしたが。あまりのリアリティに、その場で一気に意識がさかのぼり、当時の彼らにシンクロしてしまいました。人形と目が合ったとき、一瞬でしたが、2万年前に一緒に火を囲んでくつろいだ時の記憶が、至福の体験として、煙の匂いや笑い声と共によみがえったのです。

改めて見ると、彼らの顔立ちは気高い精神性を感じさせますし、毛皮を上手に縫い合わせた上品な着こなしや、貝殻をビーズのようにつなぎ合わせた頭飾りなどから、美と調和に満ちた穏やかな暮らしぶりがうかがえます。当時は狩猟遊動生活ですから、数家族が合同で狩りをし、獲物を分け合い、共同保育をし、さまざまな困難を共同体として乗り越えていました。その幸いな共存生活は、文字通りの「楽園」だったはずです。共同作業で描かれたという壁画は、まさに、彼らの喜びと感謝の表現だったのではないでしょうか。

「クロマニヨン人」というと人類以前の原人のように思われがちですが、れっきとした現生人類の一員であり、私たちと同じDNAを持っていたことが分かっています。だからこそ、あれほどのイメージ豊かな芸術作品を残すことができたわけですが、同じ遺伝子を持っているならば、この危機の時代を生きる我々が見習うべきこともあるはずです。何万年もの間、平和で安定した暮らしを持続しえた尊敬すべき先輩たちから学ぶべきこと、それこそは、共同狩猟、共同食事、共同保育、共同芸術、すなわち、すべてを共有し、分かち合う、「共同生活」であることは間違いありません。

現代社会は、善かれあしかれ、「個人主義」です。しかし、行き過ぎた個人主義は、人類に本来的に備わっている、「人の道」から逸脱しています。個人が幸せであるためには、個人を生かす「個人の集団」が、生き生きと機能していなければならないという当たり前のことが、忘れ去られていないでしょうか。血縁という「小さな家族」が機能していなければ子どもは育たないし、血縁を超えた「大きな家族」が機能していなければ、血縁の家族も生きてはいけません。そんな孤立こそが、「失楽園」の本質でしょう。

旧約聖書の創世記には、人類を創造したときの、創造主の言葉が記されています。

「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助けるものを造ろう」(2・18)

核家族ごとに個別に生活するという奇妙な挑戦を始めた、現代人。ネットやコンビニに依存しながら「一人でいるのが楽だ」、「一人でも生きていける」という幻覚を持つほどの病理に至った我々の、ここ数百年の無謀な実験は、完全に失敗に終わりました。そのような「孤立現代人」が、いまやあらゆる問題を抱えこんだまま絶滅しかけていることに、どれほどの人が気づいているでしょうか。クロマニヨン人の知恵と実績に敬意を表して、「ちょっと面倒だけどすごく幸せな共同生活」を取り戻すべき、大変革期がすでに到来しています。

まんまカフェの詳細はこちらから

このたび、カトリック上野教会で始めた、「まんまカフェ」は、「みんなで一緒にご飯を食べましょう」という、至極まっとうな挑戦です。まずは、ひとりぼっちで子育てして疲れ果ててしまい、相談相手もなく、自分を見失いそうなお母さんたちに、「お子さんと一緒にいらっしゃい、教会という大家族が、ごはんとお味噌汁造って待ってますよ」と、呼びかけています。そのうちに、貧困家庭の子どもたちも来てくれたら、いわゆる「子供食堂」としても機能するねと、スタッフで話し合っているところです。

みんなで集めた食料を、みんなで料理して、みんなで一緒に食べるのは、とても楽しいですよ。悩み事も話し合えるし、なによりも、信頼できる「大家族」と共にいるという、心からの安心を体験できます。毎週木曜日、12時からです。どうぞ、どなたでもおいでください。

そのうち、みんなで一緒に壁画でも描いちゃいましょうか。

(上野教会報「うぐいす」198号より転載)