日本の殉教者の血は実を結ばなかったのか――明治150年のカトリック教会の宣教政策を考える

土屋至(聖パウロ学園高校「宗教」担当講師)

最初に日本に来て横浜で宣教をはじめたジラール神父

10年ほど前プノンペンで行われたSIGNISアジア会議で、188人の殉教者が列福されたことや日本には3万人以上の殉教者がいるということを誇らしく報告したときに、フィリピンの神言会の神父さんからこんな質問を受けた。「日本にはそんなに殉教者がいたのにどうして今の日本の教会はそんなに小さいのか。殉教者の血は実らなかったのか。「一粒の麦が地に落ちて死ねば多くの実を結んだのではなかったのか?」と。

この質問に私たちは「それほどまでにキリスト教は江戸時代の迫害で根絶やしされたとしかいいようがない」と答えた気がするのだが、この質問は私たちにショックを与えた。考えてみれば確かにそうなのだ。明治期以降のカトリック教会の日本宣教政策がどこか間違っていたのではないかという深刻な反省が必要なのではないか。それもなく次から次へと列福・列聖の申請をしてくる日本のカトリック司教団にバチカンの高官はきっと不信感をもっているにちがいない。

信徒再発見の立役者プチジャン司教

つい5、6年前に日本再宣教150年の記念集会が横浜で開かれた。そしてその翌年だったか、イエズス会再宣教100周年記念集会が上智大学で行われたという。むむ! なんだ、この50年間の遅れは? そもそも大浦で信徒が再発見したときに、いち早く駆けつけるべきはイエズス会ではなかったのか。

聞くところによると、イエズス会は教皇から破門されていた期間が長く、それが解除になってから間もなかったので、日本に宣教師を送る余力はなく、またそれを希望してもバチカンからは認められなかったということだ。バチカンはキリシタン時代のイエズス会とフランシスコ会、ドミニコ会のみにくい足の引っ張り合いを知っていたのだろう。

出津で町おこしをしたド・ロ神父

結局、日本の再宣教はパリミッション(パリ外国宣教会)にゆだねられた。パリミッションは最初に横浜で宣教をはじめたジラール神父、信徒再発見の立役者プチジャン司教や出津で町おこしを行ったド・ロ神父、神山復生病院を創始したテストヴィド神父などのすぐれた宣教師を次々と送り込み、ローカルチャーチレベルではとても貢献したと思うのだが、日本の再宣教には少々荷が重く、バチカンの期待には十分に応えられなかったといえよう。

特に遅れたのは高等教育の分野であろう。プロテスタントは教派ごとにあちこちに大学をもうけ、宣教にこころがけた結果、当時の文学者、教育者、思想家、政治運動家の中に多くのクリスチャンを輩出したが、カトリックの場合、すぐれた外国人宣教師の名前はあげられても、日本人の知識人はまったくといっていいほどに見あたらない。こんなところにも明治期以降のカトリック教会の宣教政策の結果が現れていると思う。

神山復生病院をはじめたテストヴィド神父

お隣の韓国のカトリック教会にコンプレックスを持ってしまうのもムリはないとおもうのだが、どうだろうか?

 

参考:「横浜天主堂と日本再宣教」(日本再宣教150周年記念集会の時の中島昭子氏の講演)カトリック横浜司教区公式サイトより

http://www.yokohama.catholic.jp/rekishi_top/yb_rekishi_work.html

 


日本における「家族と希望の物語」

土屋 至(SIGNIS Japan 会長)

2017年11月に東京で行われた「第5回シグニス東アジア会議」において、日本からは以下のようなことを報告しました(この記事はそのときのレジュメをもとにしています)。

 

1.日本の家族をめぐる環境について

まず、日本の家族をめぐる環境についてですが、やはり大きな問題となっているのは少子高齢化です。2025年には「団塊の世代」が後期高齢者(75歳以上)となり、人口の3分の1が高齢者(65歳以上)となります。そのとき、病院も福祉施設も満杯で、年金や保険もパンク状態となることが予想されます。これが「2025ショック」と呼ばれるものです。

現状としては、医療施設や福祉施設から溢れた分を「地域」が引き受けざるを得ず、在宅介護を中心とする「地域包括ケア」が必要とされています。また、生産にたずさわる人口の減少、競争力の低下、景気の低迷による働き手の不足を、外国人労働者によって補わざるをえなくなっています。

 格差社会とこどもの貧困も大きな問題の一つです。低い給与で長時間働かされている非正規労働者の増大、共働きの増加、母子家庭ならびに貧困家庭の増加、子どもの貧困など、枚挙にいとまがありません。日本は経済大国で裕福だというイメージがありますが、子どもの貧困率は13.2%(2016年)と高く、子どもの約7人に1人が貧困状態にあるというのが現状です。

さらに、いじめや差別、自殺/自死の多さも目立ちます。10年前に比べると全体の自殺率は減少し、年間約21,000人にまで減少していますが(2016年)、若者の自殺は増えています。

最後に、被災地復興の現状についてですが、ボランティアや支援金が減少し、忘れられつつあります。特に福島では、まだ自分の家に戻れずに他県に住む人たちが多く存在しています。復興も停滞していると聞きます。

 

2.日本の教会の現状

次に、日本の教会の現状についてですが、日本の社会と同様に、教会司祭や修道者、信徒の高齢化と減少が問題となっています。

また、教会と地域との関係ですが、これまで特に都市部の教会は地元地域社会とよき関係を築くのがあまり上手でなかったのではないかと感じています。そのため、これからは「地域・福祉・教会」の関係の構築が必要となってくるでしょう。

前述に自殺の話題がありますが、カリタス・ジャパンのキャンペーンテーマは「自殺防止キャンペーン」から「排除のない多様性社会を求めて」と、社会の現状に合わせて変化しています。

 

3.「希望の物語」を紡ぐ人々

このような現状の中で、「希望の物語」を紡いでいる人たちがいます。東アジア会議には、映画『さとにきたらええやん』の舞台となった「こどもの里」館長である荘保共子さん、青少年の居場所づくりをしている「Kiitos」の白旗眞生さん、カトリック片瀬教会の有志の皆さんと片瀬地区に住む有志のチームで活動している「まりあ食堂」の相澤純子さんをお呼びして、話を聞きました。

そのほかにも、晴佐久昌英神父が行っている「福音家族」や「一緒ごはん」、福島から東京などに避難している家族と子どもたちの支援活動にとりくむ「きらきら星ネット」、モンテッソーリ風のこどもの居場所づくりをしている「多世代交流こどものいえ」など、さまざまな団体・活動を通して、「希望の物語」を紡いでいる人たちがいます。

【そのほかの活動例】

・「JLMM(日本信徒宣教者会)」の若者をベトナムやカンボジア、被災地への体験旅行を企画している。

・「癒しの里」福岡県豊津町で老人ホームを造った人たち

・自主夜間中学に関わっている人たち

 

土屋至会長

4.SIGNIS Japanの紡ぐ「希望の物語」

私たちSIGNIS Japanも「希望の物語」を紡ぐ一員として、2016年度日本カトリック映画賞に『この世界の片隅に』を選出しました。これは、戦争中の「家族」を描いた物語です。また、webマガジンAMORを刊行し、「地域・福祉・教会」を生きている人たちの発掘紹介をしていく予定です。

ほかにも、カリタス・ジャパンとのコラボレーションや「地域・福祉・教会」のための教会ホームページの活用など、さまざまな活動を通して、現代における家庭・家族の問題と向き合い、「希望の物語」を紡いでいきたいと思います。

 


イエスと家族

カトリック教会ではヨゼフとマリアとイエスの家族を「聖家族」と呼んで、理想の家族のように語られている。たしかにそうだったのだろうが、聖書を読んでいくとイエスは家族に冷たいように思われるところがおもしろい。

それが最もはっきりと読めるところはマタイ12章46~50節「イエスの母、兄弟」という箇所である。

イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」

こう言われた母と兄弟たちはどういう気持ちだったのだろうか? 穏やかならぬ気持ちでいたに違いない。母と兄弟たちは結局イエスには会えなかったのではないか。

だいたいイエスに兄弟がいたという話は聖書の他の箇所にも出てくるのだが、カトリック教会は「イエスには兄弟がいなかった、ここで兄弟と言われているのは親戚やいとこたちである」と強弁している。

イエスがナザレに帰って会堂で説教を始めたときにナザレの人はこう言う。(マタイ13章55~58節)

この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。

ジョン・エヴァレット・ミレー作『両親の家のキリスト』(1849~50年、テート・ブリテン蔵)

イエスは家族では受け入れられてなかったということなのだろうか。ルカではこのあと崖の所に連れて行かれて突き落とされそうになったと書いてあるが(16~30節参照)、このときイエスの母と兄弟たちはどうしていたのだろうか?

またさらにこんな所もある。(ルカ9章61~62節)

また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

これだけ読んでいるとイエスは家族に冷たいと言わざるを得ないのだが、きっとこの背景にはイエスの深い読みがあるのだろう。どなたかうまく解釈していただけないか?

土屋至(聖パウロ学園高校「宗教」担当講師、元清泉女子大学「宗教科教育法」講師)

 


『目覚めていなさい』

私は月2回、CLC (Christian Life Community) の例会に出席する。その例会では、最初に次の日曜日の福音書の箇所を読んで30分くらい黙想をして、そのあと短く分かち合う。

アドベント(待降説)の最初の日曜日のミサで読まれる福音はマルコ13章33〜37節であった。「目覚めていなさい。いつ主人が帰ってくるからわからないから。」という内容である。このころの福音は「賢い5人の乙女と愚かな5人の乙女」をはじめ、似たような話が多い。前回のタラントンのたとえ話も同じように、主人が帰ってくるのを待っている設定である。

それを黙想して分かち合ったら、開口一番「この福音をそのまま読むと、『これじゃあ、寝られないじゃん』と当然ながら思ってしまうのだが………」という素朴な質問が出てきた。

次に出てきた質問は、この日の福音の「主人の帰ってくる日」というのはなにを意味するのであろうか? 世の終わりとか終末とかいう答えも考えられるだろう。あるいは待降節にちなんで「救い主の誕生」というのも答えになるであろう。

しかし、私が黙想のなかで思い浮かべていたのは、「死の場面」であった。とくに加賀乙彦著『宣告』に描かれるような死刑囚の刑の執行を思い浮かべていた。いつだかわからないけれど必ずやってくる死刑の執行の日が「主人の帰ってくる日」ではないかと、それがいつ来るかわからないけれど、いつ来てもいいように準備をしておくことが「目覚めていること」ではないかと思った。

考えてみたら「私たちひとりひとりもいつ刑が執行されるかわからない死刑囚なのである」といったのはビクトル・ユゴーだったか。それは死刑囚ほど差し迫ってはいないかもしれないが、「その日」はいつか必ずやってくる。だからそれがいつ来てもいいように、備えておくことが「目覚めている」ということではないか。

この結論を得て、とても納得したのである。

http://www.glocallife.net/entry/death-penalty

土屋至(元清泉女子大学「宗教科教育法」講師  現聖パウロ学園高校「宗教」担当講師)


タラントンのたとえばなし

タラントンのたとえ話(マタイ25章14~30節)はけっこうよく知られているたとえ話である。

ある人が旅に出るとき、自分の財産をしもべたちに預けた。それぞれの力に応じて、あるものには5タラントン、あるものには2タラントン、あるものには1タラントンを預けた。5タラントン預かったものは町に出てそれで商売をして5タラントン儲けた。2タラントンを預かったものも、同じように2タラントン儲けたが、1タラントンを預かったものは出て行って穴を掘り、そこに埋めておいた。

さて主人が帰ってきて、しもべたちと預かった金の精算をした。預かった金と同額のもうけを生み出したしもべは主人のお褒めをいただくのだが、土に埋めておいたものは「主人の厳しさをおそれて地に埋めておいた」とこたえて、主人の怒りを買う。「怠け者の悪いしもべだ。私が蒔かないところから刈り取り、ちらさないところからかき集めることをしっていたのか!」といって預かったものを取り上げられ、外の暗闇に放り出されてしまった。

心のともしび・幸せの訪れ

https://tomoshibi.or.jp/happiness/happiness-093.html

このたとえから「タレント(才能)」という言葉が生まれたのだそうだ。つまりこれまでの解釈は、タラントンは神から預かった才能や能力を意味し、それを活用してもうけた人はほめられ、その才能を土に埋めて使わなかったひとはとがめられるというのがこれまでの普通の解釈であった。

ところがこのたとえ話は腑に落ちないところがいくつかある。

そのひとつは「タラントン」が今のお金でどのくらいかというと、ほとんど億単位の金なのだそうだ。とても庶民に手の届く額ではない。それくらい才能とは高価なものだと意味するというだろうが、それにしてもあまりに巨額である。

その二つめは、そんな巨額の金を預かったら、とても恐ろしくて使えないと思うのが庶民である。私もきっとそうしたであろう。その庶民が「怠け者」とのそしりを受けるのは、小さきもの貧しきものの見方であるイエスには全くふさわしくない。

その3つめは、1タラントンを預かってそれで投資をしたら、全部損をして失ってしまったとしたらこの主人はどうしたのだろうか? そこが書いていないところも腑に落ちない。

そうした疑問を持ちながらこの箇所を読んでいたときに、とても明快な解釈をしてくれた牧師がいた。富田正樹牧師である。同志社香里高校の聖書科の先生であり、キリスト教資料集の編著者であり、「信じない人のためのイエス入門」という書を書いた人であり、なおかつ徳島北教会の牧師でもある。

富田牧師は「実はこの物語は、この世の資産家たちがいかに貧しい者を搾取するのか、裕福な者はもっと裕福になり、貧困者はもっと貧困になってゆくという事実を、イエスが庶民の側に立って怒りを代弁したたとえ話であると解釈できるのです」と述べている。金が金を生んでいく、持てるものはますます豊かに、持てないものはますます貧しくなっていく格差を拡大していくはなしであって、イエスがそういう側には立たないことは明白であろう。「今の世の中はかくも不公正にできている」ということをイエスはいいたかったのではないだろうか。それはイエスの時代だけでなく現代の世界も全く同じことが言えるだろう。

ただ、このたとえの冒頭には「天の国はまた次のようにたとえられる」(マタイ25章14節) という言葉で始まっているのが気になるのだが………。

ついでながら、ルカ19章には「ムナのたとえ」がある。このタラントンとよく似た話であるが、こちらはあまり話題にはならない。

二つを読み比べてみると、まずお金の単位が違った。当時の労働者の1日の稼ぎとなるのが1デナリ、その200日分の稼ぎ200デナリが1ムナ、その60ムナが1タラントンにあたるという。1ムナは200万円くらいで1タラントンはやはり億単位の額である。

さらにルカの方は10人の雇い人にみな平等に1ムナをあたえ、「私が帰ってくるまでこれで商売をしなさい」と指示する。タラントンにはこういう指示はなく、単に預けておくだけである。

で、もうけた額に応じて、町を管理する権利をあたえた。5ムナも受けたものには5つの町を治めさせたのである。金儲けのうまい人物に町を任せたら、きっとその町は繁栄するであろう。

このムナの話の方が少しは合理的なような気はするが、金を包んでしまっておいたものに厳しいのはタラントンの話と同じであり、「誰でも持っている人はさらにあたえられるが、持っていないひとは持っているものまでも取り上げられる」という格差拡大の結論も同じである。

土屋 至(元清泉女子大学講師 「宗教科教育法」担当)


歓喜の街カルカッタ

私はこの『歓喜の街カルカッタ』(ドミニク・ラピエール著、長谷泰訳、河出書房新社、1987年)を見つけて読んだときにとても感動した。フランクルの『夜と霧』を読んだときと同じような感動だった。どうしてこの本を見つけたかは覚えていない。誰かに薦められて読んだという記憶もない。

『夜と霧』がそうであるようにこの本も読みにくい本である。この目を覆いたくなるような過酷な現実に満ちた世界最大のスラムがなぜ「歓喜の街」と呼ばれているのか、この本を読むと納得がいく。

以下はこの本の紹介文である。

 

サッカー場を3つ合わせたくらいの場所に7万人が住む、カルカッタ有数のスラム「歓喜の街」―。皮肉にもそう呼ばれる場所で彼らは、ゴミあさりや人力車を引きながら、1日20円ほどで家族を支えている。「20世紀に生きるわれわれにとって最も刺激的な体験は、月旅行をのぞけば、この『歓喜の街』で過ごすことである」と登場人物の一人は語る。

「パリは燃えているか?」の著者がマザー・テレサの国インドで体験した愛とヒロイズムの大型ノンフィクション! 全世界で12か国語に翻訳、300万部の大ベストセラー。日本語版ついに刊行!(単行本下巻帯より)

この街には、西欧の豊かな町のどこよりも、ヒロイズム、思いやり、そして喜びと幸福があった――確かに彼らは何も持っていない。しかし、この人たちはすべてを所有しているともいえるのだ!(単行本上巻帯より)

 

さらにこの本を原作とした映画がある。1992年作ローランド・ジョフィー監督の「シティ・オブ・ジョイ」。その紹介文はこちら。

 

貧困のシンボルの様な町カルタッタに、一人の少女の手術の失敗から立ち直れない青年外科医が吸い寄せられる。容赦なく彼を襲う“歓喜の町”の厳しい現実。年端もいかぬ少女の売春、顔役の息子の非情な搾取、暴力……。そして彼は、干ばつの北インドを逃れてこの大都会に家族共々職を求めに来た男ハザフに出会う。その友情を軸に、町の腐敗に立ち上がる主人公の、自力更生していく様をドラマティックに描く。

 

小説の方には農村からコルカタに出てきて人力車の車夫をしているバザリ、マイアミの裕福な家庭に育ったユダヤ系アメリカ人の医学生のマックス、そしてこのスラムにすみたいと言ってやってきたフランス人のカトリック神父ランベール。この3人が主人公となって物語が展開する。

映画の方には残念ながらカトリック神父は出てこない。だから宗教色はほとんど消されている。

小説の方がずっといいのだが、映画の方も決して悪くはない。私はこの映画を高校2年生の「宗教研究」のクラスの修道院泊まり込みの夜に見ることにしていた。感想については聴かないことにしているが、きっと生徒の心の奥深いところに感動を刻み込んだはずである。

小説の上巻の最後の部分にランベール神父が、マザーテレサを訪ねる場面がある。映画にはない。マックスがハンセン病の患者の施設を作りたいので助けてほしいとマザーに頼む。

 

「ユー・アー・ドゥーイング・ゴッズ・ワーク(あなたは神の望まれる仕事をなさっている)。わかりました。ハンセン氏病患者の世話をしつけたシスターを、三人行かせましょう」
ひとの身体がずらり並んだ部屋に目をやり、さらにマザー・テレサはいいたした。「あの人たちはわたしたちがあたえる以上のものを、あたえてくれます」
   (中略)
 ポール・ランベールは感無量の思いだった。
「カルカッタよ、たたえられてあれ。禍(わざわい)のなかにも、おまえは聖者たちを生みだしたのだ」

 

土屋至(元清泉女子大学「宗教科教育法」講師、SIGNIS JAPAN(カトリックメディア協議会)会長)

 


ユダヤ独立戦争と原始教会

平和とキリスト教の問題を考えるときに、このテーマはとても重要な示唆を与えると思うのだが、なぜかこれまでキリスト教はこれを問題とせず、あいまいのまま残してある。

平和を考えるテーマの時のラジオ「心のともしび」にも似たような内容で投稿したことがあるが、なぜか「ラジオ番組には不適当」という理由で採用されなかった。

紀元1世紀から2世紀にかけてローマ帝国直轄地であったユダヤ地方はローマ支配に抵抗して2度にわたって独立戦争を起こした。それに対してナザレ派のユダヤ教徒たち(いわゆるキリスト教徒のことであるが、まだこのときはユダヤ教の一分派であった)はどうしたのであろうか? 彼らはユダヤ人として独立戦争に加わったのであろうか? あるいは武器を取らずにどこかに逃亡していたのであろうか?

新約聖書ではこのことには全く触れられていない。福音書はイエスの生涯について語ったものなので触れていないのは当然だが、パウロは時代が少し前だし、異邦人が対象なのでこれも触れていないのはムリもないが、他の使徒の手紙の中で触れられていてもよさそうなのだが書かれていない。

4世紀に書かれたエウセビオスの『教会史』ならびに5世紀のエピファニオスの『異端反論』によると、エルサレム教団は「戦いに先立って」ヨルダン川の東にあるペラという町に脱出し、エルサレムの陥落は「すべての」キリスト教徒が立ち去った後におこった、とされている。つまり、戦いには加わらなかったというのである。
ハンス・キュンクもその著『教会論』(原著1967年)においてそのような立場をとる。「パレスチナのキリスト教徒は、ローマに対する反乱には参加しなかった。そのため民族の裏切り者とみなされ、迫害されたので、彼らはヨルダン川の東の地域に逃れ、シリアとアラビアの境に当たる地方にキリスト教信仰を広めることになった」(邦訳『教会論』上 石脇慶総・里野泰昭訳 新教出版社 1976年 178ページ)。ただキュンクによればペラへ逃れたのは戦いを避けたのではなく、迫害を避けたからということになる。

このユダヤ人キリスト教徒の「ペラ移動説」には疑問も多い。『キリスト教史1 宗教改革以前』(半田元夫・今野國男著 山川出版社 1977年)は、「これは何とも奇妙な話」として、ユダヤ人キリスト教徒たちは同胞たちとともに戦って玉砕したという説もある。

一方ユダヤ人たちは、エルサレムを脱出したパリサイ派のヨハナン・ベン・ザッカイに率いられ、ヤムニアに律法学院を作る。この学院が作った「18の祈願」のなかに「裏切り者の滅びの祈願」があり、「ナザレ派キリスト教徒への呪いの言葉」が祈りとして唱えられるようになる。ユダヤ人のキリスト教徒が裏切ったことへの憎しみの強さがかえってユダヤ人キリスト教徒が戦わずに逃げ出したということを物語っているのかもしれない。この「祈願」が採用されるのは85年頃といわれる。

この「異端者への呪い」は各地のユダヤ教のシナゴーグに伝えられ、これによって完全にキリスト教徒は会堂から追放される。パリサイ派のヤムニアのユダヤ教とキリスト教徒との対立を強く意識したのはヨハネ福音書である。ヨハネ文書にはこの「会堂追放」ということが3カ所現れる。ヨハネ福音書はこのヤムニアのユダヤ教への批判に応える形で生み出された弁証の所産であるということは、マタイ福音書と同質の背景をもっていることとして大変興味深い。ただマタイ福音書とヨハネ福音書の現れ方はかなり異なっている。マタイがユダヤ人ということに固執しているのに対し、ヨハネにはもうユダヤ人への執着は全くないといってもいいだろう。

第一次ユダヤ独立戦争(David Robertsによる絵画 1850年作)

マタイ福音書には「平和」に対するイエスの教えがよく述べられている。「山上の垂訓」の「真福八端」(マタイ5:3-10)にはルカの「平地の説教」(ルカ6:20-26)にはない「平和を実現する人」「義のために迫害を受ける人」は幸いという句が付け加えられている。

さらにマタイ福音書にはこんな所もある。24章15-16節に「憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら、……そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」(新共同訳)というイエスの言葉がある。その「主の戒めをよく守って、キリスト教徒は嵐の最初の遠鳴を聴いてヨルダン川の向こう岸のペラに逃げてしまった」(『教会史』ヨゼフ・ロルツ著 神山四郎訳 ドン・ボスコ社 1956年 51ページ)という。

しかし、マタイ福音書にはこういう所もある。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」(10:34)。

ペラに脱出したかどうかということはともかく、おそらくエルサレム教団はこの独立戦争に武器を持って戦わなかったのではないかと思う。マタイ福音の平和主義をみても、ユダヤ教徒のキリスト教徒に対する「裏切りの呪い」の強さからみても、そう判断される。

特にマタイの平和主義の主張はマタイのおかれた歴史的背景の中で読んでいくと、とても興味深いものがある。エルサレム教団がユダヤ独立戦争で武器を取らずにエルサレムを抜け出したことは、イエスの示した平和主義に「忠実に生きた」こととしてもっと積極的に評価していいのではないかと思う。

2度にわたるユダヤ独立戦争において、ナザレ派のユダヤ教徒たち(つまり原始教会のキリスト教徒たち)は武器を取って戦わなかった、そしてそのこと故にユダヤ教徒たちからの独立/離反をはたしたということは誇らしい歴史として喧伝してもいいことだと思うもうのだが、歴代のキリスト教徒たちはそうしてこなかったということに、キリスト教の矛盾があると思うのだが、いかがであろうか?

 


津和野乙女峠の高木仙右衛門と守山甚三郎

日本のキリシタンの歴史の中でもっとも大規模な迫害があったのは、実は明治になってからのことであった。明治政府は維新後もキリシタンの禁教令を解かず、名乗りを上げたキリシタンたちを捕縛し、拷問を加えて迫害した。

なかでも「浦上四番崩れ」で捕縛され、西日本の各藩に流罪となって「浦上の旅人たち」は3400人といわれています。

名乗りを上げたキリシタンたちの中のリーダーであった高木仙右衛門と守山甚三郎とは津和野藩におくられ、ここではもっとも厳しい迫害がおこなわれた。

このあたりの話はあちこちのホームページに書かれているので、そちらを読んでほしい。

私は今ここで「乙女峠 命をかけて ―津和野殉教物語」(水口登美子著「心のともしび運動YBU本部」発行)の薄いパンフレットの高木仙右衛門と守山甚三郎についてのエピソードを紹介しよう。そこにそれまでのキリシタンたちとは少し異なった近代的なクリスチャンの姿が現れていると思う。

 

仙右衛門らが三尺牢に閉じ込められている間たびたび甚三郎は役人に呼び出され説得されました。役人たちは甚三郎を呼び出すと必ず東のほうを一心に拝み「改心して太陽を拝め」と命令しました。しかしかれはきっぱりと「拝みません」と答えます。役員は怒り「私たちが無事に過ごせるのは太陽のおかげだ。おまえたちは目に見えない神を一生懸命に拝んでいる。しかし、そんなくだらないものは一日も早く捨て改心するように」とくる日もくる日も説得しました。

ある日甚三郎は役人にむかって「それではそのわけを説明しましょう」と言って次の話をしました。「ある日お役人様が何かの用事で外出されたとしましょう。用を済ませて家への道を急ぐうちとっぷり日も暮れ、いなかのことなので道も悪く一寸先も見えません。途方にくれていた時、ある人が提灯に火をつけて『どうぞこれを使ってください』と親切に貸してくださったのです。そのお役人は提灯のおかげで無事家に帰ることができました。

お役人様、私に太陽を拝めとおっしゃるなら助けてくれた提灯を高いところにあげ、平伏して『お提灯さま、おろうそくさま、ありがとうございました。あなたのおかげで命が助かりました』と言い、提灯を貸してくださった方はどこにいるのかわからずお礼を言う必要はないとおっしゃるのでしょう。けれど、わたしなら、そんな提灯にお礼などを言わず、提灯を貸してくださった方にありがとうございました、とお礼を言いにまいります。私たちは太陽のありがたさを知っていますが。その太陽を作った神に拝み感謝しているのです」と彼は答えました。役人はあまりに道理にかなった話に何も言うことができず、怒りながら牢にほおりこんでしまいました。

甚三郎らを三尺牢にいれた役人たちは改心者に「タバコ一服でも与えたら三〇日間の門締め」と強く言い渡しました。みなは怖れ誰も牢に近づきません。その日夕方すでに改心し、城下の方へ働きに帰ってきた改心者は、甚三郎をみてみなが食物などを与えないのを知るや「同じ国から同じキリスト教を信じこの地にきたのです。今は改心していても、必ずあの人々の助け、祈りによって神にゆるしてもらおうと思っているのに、早くたべさせるように」と言って、それ以後食物を未改心者たちに差し入れたのでした。

事実改心者たちは謙遜に「私たちは弱く、キリスト教をやめて本当に悪かったのです、神にゆるしてくださるように祈ってください」と彼らに願い、どんなに軽蔑され断られても、食物を運んだのでした。未改心者が夜やってくると喜んで彼らを迎え、食物を与え、空腹を満たし、また米や野菜を牢にいる人のためにと与えたのでした。改心者の人々の謙遜であたたかい心がなければ、未改心者たちは上地にしてしまい決して長い長い牢の生活に耐えることはできなかったでしょう。

改心者たちが長崎へ帰ってから1年あと(1873年)未改心者たちが長崎へ帰ることになったとき、盛岡ら三人の役人は仙右衛門、甚三郎他二名を屋敷に招いてごちそうしました。役人たちは今までの残酷で恐ろしい拷問をわびたかったのです。その咳で彼らは「武士なら立派な武士だ。おまえたちのような信念で生き抜いたのは珍しい」と言って甚三郎らの立派で固い信仰をほめたたえたのでした。

1918年の夏、甚三郎は一通の手紙を受け取りました。それは乙女峠でキリシタンの説得に当たった役人森岡の長男の健夫さんからでした。

かれは修道士となっており、その手が意味にぜひ会ってそのときのお詫びがしたい、と書かれ浦上から津和野までの旅費が添えられてありました。

こうしてかつて津和野で迫害された者と拷問を与えた子孫が手を取り合って、殉教地乙女峠へとあがっていったのでした。森岡さんは光琳寺跡の草むらに跪き、涙ながらに「私の父の罪をゆるしてください」とわびたのでした。すると甚三郎は彼の手を取って「あなたが信者になられてこんなうれしいことはありません」とともに涙を流しあい、互いに救いの信仰を生きていることを神さまに感謝したのです。

 

残念ながらこのパンフレットはもう手に入らないので、ここで紹介できることがうれしい。津和野物語にはこんな話も潜んでいたのである。

【参考】

http://guide.travel.co.jp/article/6982/

http://www.christiantoday.co.jp/articles/17227/20151008/tsuwano-otometoge-yamaoka-koji-1.htm

 

(土屋 至/SIGNIS Japan (カトリックメディア協議会) 会長、元清泉女子大学講師「宗教科教育法」担当)

 


ナザレのイエス

福音書のなかで好きなところは?と聞かれると私はルカ4章16~30節をいうことにしている。イエスが自分の出身地のナザレで説教をする場面である。はじめて聖書を読む人にはこんな所もあるんだと驚きを禁じ得ないだろう。

 

その説教を聞いて人々は「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いていった。『この人はヨゼフの子ではないか』」という。

するとイエスはいう。「預言者は自分の故郷では歓迎されないものだ」と預言者エリヤやエリシャの例を出す。

「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖までつれていき、突き落とそうとした。イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた」というのである。

 

福音書の場面に入り込み現場にいるひとりになりきって、この場面を想像するという作業は「イグナチオの霊操」ですすめられる黙想であるが、この場面ほど豊かに想像をかき立てられるところはそうない。

よく読むと前半ではナザレの人はイエスの説教に感心してイエスをほめていた。後半をいったら人々は怒り出したという。ならば後半は言わずもがなのことだった。言う必要もなかった。なのになぜわざわざイエスはそう言ったのだろうか? 後半で書かれていることを先取りしていったらやはりそうなってしまったという感じである。

町の人はこの説教をしている人が「大工の子イエス」であると知ってから評価が豹変した。ということはイエスがナザレではどういう人物として受け取られていたのだろうか? ほかの箇所では「イエスは大酒飲みの大食らい」(マタイ11章19節)と言われている。どんな青年だったのか? あんまり評判は芳しくなかったようである。

「町の外へ追い出し、崖から突き落とされそうになる」というのも人々の怒りの激しさが想像される。町から追い出され、山の崖までどんなうふうに連れて行かれたのか、イエスは身の危険を感じなかったのか、イエスは何を考えていたのか、少なくともイエスはこれに抵抗していない。言い合いをした様子もない。

そしてイエスは「人びとの間を縫って」そこから逃げ出したというところではイエスのすばしこさが描かれる。子ども時代、近所の悪ガキたちと遊んでいて、そこで鍛えられたすばしこさではないか。

この箇所はマルコにも併行箇所がある。(マルコ6章1〜6節) マルコは「イエスが大工の子であることを知って人々はつまずいた」としか書かれていない。崖から突き落とされそうになった話はない。さらに「人びとの不信仰」をなげく。

マタイにもある。(マタイ13章53〜58節) 基本的にマルコと変わらない。最後に「人びとが不信仰だったのでそこではあまり奇跡をなさらなかった。」と結ぶ。

聖書にこんなところがあるのかと驚くような箇所は皆おもしろい。これは知られるとイエスの(イエスと言うよりは弟子たちか)評判をおとしかねないような箇所があえて書かれているところである。

イエスの本当の姿を追求する「史的イエス論」の立場からいうと、こういう所こそあとから背びれ胸びれをつけられた姿ではない、本当にあった「歴史のイエスの姿」だという。

妻が亡くなる前の2013年10月妻と一緒にイスラエル巡礼ツアーにいったときに、じつはこの「突き落としの崖」の下をバスで通った。むかしは崖の下に教会があったそうだ。この「突き落としの崖」をネットで探したら映像と写真があった。

 

 

「福音の村」晴佐久神父説教集で。この箇所をテーマにした説教福音の村晴佐久神父説教がある。これもまたおもしろい。

土屋 至(元清泉女子大学講師 「宗教科教育法」担当)


パラクレートス(助け主)である聖霊

聖霊とはなにか、とてもわかりにくいとされている。そもそも「聖霊とはなにか?」という問いかけにクレームがきそうである。「聖霊は人格(ペルソナ)だからなにかではなくてだれかではないか」と。ま、そうカタイこといわずによんでほしい。

そんななかで最もわかりやすく説明されているのが、聖霊降臨の日曜ミサのなかで歌われる「聖霊の続唱」ではないかと思う。

 

エル・グレコ『聖霊降臨』(1605-1610年頃、プラド美術館、マドリッド)

聖霊の続唱

聖霊来てください。あなたの光の輝きで、

わたしたちを照らしてください。

貧しい人の父、心の光、証の力を注ぐ方。

やさしい心の友、さわやかな憩い、ゆるぐことのないよりどころ。

苦しむ時の励まし、暑さの安らい、憂いの時の慰め。

恵み溢れる光、信じる者の心を満たす光よ。

あなたの助けがなければ、すべてははかなく消えてゆき、

だれも清く生きてはゆけない。

汚れたものを清め、すさみをうるおし、受けた痛手をいやす方。

固い心を和らげ、冷たさを温め、乱れた心を正す方。

あなたのことばを信じてより頼む者に、尊い力を授ける方。

あなたはわたしの支え、恵みの力で、救いの道を歩み続け、

終わりなく喜ぶことができますように。

アーメン。

 

これを読んでどんな感じであろうか? すこしはぴんときただろうか?

確かにこれを読むとこんな存在があったらいいなと思わせるものである。これを素直に信じることができたらどれほど「尊い力を授かって」心強いことか。

こころに直接働きかける存在、コミュニケーションを助ける存在、感情を動かす存在…..

聖霊のことを最もよく語っているのはヨハネである。

 

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14章26節)

 

この中の「助け主」という言葉のギリシャ語が「パラクレートス」であるが、これがおもしろいことに翻訳によって「弁護者」「いやし主」「なぐさめ主」だったりする。

ま、そのすべてが正しいのであろう。「聖霊の続唱」で歌われていることと一致するではないか。

土屋至(元清泉女子大学「宗教科教育法」講師、SIGNIS JAPAN(カトリックメディア協議会)会長)