タラントンのたとえばなし

タラントンのたとえ話(マタイ25章14~30節)はけっこうよく知られているたとえ話である。

ある人が旅に出るとき、自分の財産をしもべたちに預けた。それぞれの力に応じて、あるものには5タラントン、あるものには2タラントン、あるものには1タラントンを預けた。5タラントン預かったものは町に出てそれで商売をして5タラントン儲けた。2タラントンを預かったものも、同じように2タラントン儲けたが、1タラントンを預かったものは出て行って穴を掘り、そこに埋めておいた。

さて主人が帰ってきて、しもべたちと預かった金の精算をした。預かった金と同額のもうけを生み出したしもべは主人のお褒めをいただくのだが、土に埋めておいたものは「主人の厳しさをおそれて地に埋めておいた」とこたえて、主人の怒りを買う。「怠け者の悪いしもべだ。私が蒔かないところから刈り取り、ちらさないところからかき集めることをしっていたのか!」といって預かったものを取り上げられ、外の暗闇に放り出されてしまった。

心のともしび・幸せの訪れ

https://tomoshibi.or.jp/happiness/happiness-093.html

このたとえから「タレント(才能)」という言葉が生まれたのだそうだ。つまりこれまでの解釈は、タラントンは神から預かった才能や能力を意味し、それを活用してもうけた人はほめられ、その才能を土に埋めて使わなかったひとはとがめられるというのがこれまでの普通の解釈であった。

ところがこのたとえ話は腑に落ちないところがいくつかある。

そのひとつは「タラントン」が今のお金でどのくらいかというと、ほとんど億単位の金なのだそうだ。とても庶民に手の届く額ではない。それくらい才能とは高価なものだと意味するというだろうが、それにしてもあまりに巨額である。

その二つめは、そんな巨額の金を預かったら、とても恐ろしくて使えないと思うのが庶民である。私もきっとそうしたであろう。その庶民が「怠け者」とのそしりを受けるのは、小さきもの貧しきものの見方であるイエスには全くふさわしくない。

その3つめは、1タラントンを預かってそれで投資をしたら、全部損をして失ってしまったとしたらこの主人はどうしたのだろうか? そこが書いていないところも腑に落ちない。

そうした疑問を持ちながらこの箇所を読んでいたときに、とても明快な解釈をしてくれた牧師がいた。富田正樹牧師である。同志社香里高校の聖書科の先生であり、キリスト教資料集の編著者であり、「信じない人のためのイエス入門」という書を書いた人であり、なおかつ徳島北教会の牧師でもある。

富田牧師は「実はこの物語は、この世の資産家たちがいかに貧しい者を搾取するのか、裕福な者はもっと裕福になり、貧困者はもっと貧困になってゆくという事実を、イエスが庶民の側に立って怒りを代弁したたとえ話であると解釈できるのです」と述べている。金が金を生んでいく、持てるものはますます豊かに、持てないものはますます貧しくなっていく格差を拡大していくはなしであって、イエスがそういう側には立たないことは明白であろう。「今の世の中はかくも不公正にできている」ということをイエスはいいたかったのではないだろうか。それはイエスの時代だけでなく現代の世界も全く同じことが言えるだろう。

ただ、このたとえの冒頭には「天の国はまた次のようにたとえられる」(マタイ25章14節) という言葉で始まっているのが気になるのだが………。

ついでながら、ルカ19章には「ムナのたとえ」がある。このタラントンとよく似た話であるが、こちらはあまり話題にはならない。

二つを読み比べてみると、まずお金の単位が違った。当時の労働者の1日の稼ぎとなるのが1デナリ、その200日分の稼ぎ200デナリが1ムナ、その60ムナが1タラントンにあたるという。1ムナは200万円くらいで1タラントンはやはり億単位の額である。

さらにルカの方は10人の雇い人にみな平等に1ムナをあたえ、「私が帰ってくるまでこれで商売をしなさい」と指示する。タラントンにはこういう指示はなく、単に預けておくだけである。

で、もうけた額に応じて、町を管理する権利をあたえた。5ムナも受けたものには5つの町を治めさせたのである。金儲けのうまい人物に町を任せたら、きっとその町は繁栄するであろう。

このムナの話の方が少しは合理的なような気はするが、金を包んでしまっておいたものに厳しいのはタラントンの話と同じであり、「誰でも持っている人はさらにあたえられるが、持っていないひとは持っているものまでも取り上げられる」という格差拡大の結論も同じである。

土屋 至(元清泉女子大学講師 「宗教科教育法」担当)


歓喜の街カルカッタ

私はこの『歓喜の街カルカッタ』(ドミニク・ラピエール著、長谷泰訳、河出書房新社、1987年)を見つけて読んだときにとても感動した。フランクルの『夜と霧』を読んだときと同じような感動だった。どうしてこの本を見つけたかは覚えていない。誰かに薦められて読んだという記憶もない。

『夜と霧』がそうであるようにこの本も読みにくい本である。この目を覆いたくなるような過酷な現実に満ちた世界最大のスラムがなぜ「歓喜の街」と呼ばれているのか、この本を読むと納得がいく。

以下はこの本の紹介文である。

 

サッカー場を3つ合わせたくらいの場所に7万人が住む、カルカッタ有数のスラム「歓喜の街」―。皮肉にもそう呼ばれる場所で彼らは、ゴミあさりや人力車を引きながら、1日20円ほどで家族を支えている。「20世紀に生きるわれわれにとって最も刺激的な体験は、月旅行をのぞけば、この『歓喜の街』で過ごすことである」と登場人物の一人は語る。

「パリは燃えているか?」の著者がマザー・テレサの国インドで体験した愛とヒロイズムの大型ノンフィクション! 全世界で12か国語に翻訳、300万部の大ベストセラー。日本語版ついに刊行!(単行本下巻帯より)

この街には、西欧の豊かな町のどこよりも、ヒロイズム、思いやり、そして喜びと幸福があった――確かに彼らは何も持っていない。しかし、この人たちはすべてを所有しているともいえるのだ!(単行本上巻帯より)

 

さらにこの本を原作とした映画がある。1992年作ローランド・ジョフィー監督の「シティ・オブ・ジョイ」。その紹介文はこちら。

 

貧困のシンボルの様な町カルタッタに、一人の少女の手術の失敗から立ち直れない青年外科医が吸い寄せられる。容赦なく彼を襲う“歓喜の町”の厳しい現実。年端もいかぬ少女の売春、顔役の息子の非情な搾取、暴力……。そして彼は、干ばつの北インドを逃れてこの大都会に家族共々職を求めに来た男ハザフに出会う。その友情を軸に、町の腐敗に立ち上がる主人公の、自力更生していく様をドラマティックに描く。

 

小説の方には農村からコルカタに出てきて人力車の車夫をしているバザリ、マイアミの裕福な家庭に育ったユダヤ系アメリカ人の医学生のマックス、そしてこのスラムにすみたいと言ってやってきたフランス人のカトリック神父ランベール。この3人が主人公となって物語が展開する。

映画の方には残念ながらカトリック神父は出てこない。だから宗教色はほとんど消されている。

小説の方がずっといいのだが、映画の方も決して悪くはない。私はこの映画を高校2年生の「宗教研究」のクラスの修道院泊まり込みの夜に見ることにしていた。感想については聴かないことにしているが、きっと生徒の心の奥深いところに感動を刻み込んだはずである。

小説の上巻の最後の部分にランベール神父が、マザーテレサを訪ねる場面がある。映画にはない。マックスがハンセン病の患者の施設を作りたいので助けてほしいとマザーに頼む。

 

「ユー・アー・ドゥーイング・ゴッズ・ワーク(あなたは神の望まれる仕事をなさっている)。わかりました。ハンセン氏病患者の世話をしつけたシスターを、三人行かせましょう」
ひとの身体がずらり並んだ部屋に目をやり、さらにマザー・テレサはいいたした。「あの人たちはわたしたちがあたえる以上のものを、あたえてくれます」
   (中略)
 ポール・ランベールは感無量の思いだった。
「カルカッタよ、たたえられてあれ。禍(わざわい)のなかにも、おまえは聖者たちを生みだしたのだ」

 

土屋至(元清泉女子大学「宗教科教育法」講師、SIGNIS JAPAN(カトリックメディア協議会)会長)

 


ユダヤ独立戦争と原始教会

平和とキリスト教の問題を考えるときに、このテーマはとても重要な示唆を与えると思うのだが、なぜかこれまでキリスト教はこれを問題とせず、あいまいのまま残してある。

平和を考えるテーマの時のラジオ「心のともしび」にも似たような内容で投稿したことがあるが、なぜか「ラジオ番組には不適当」という理由で採用されなかった。

紀元1世紀から2世紀にかけてローマ帝国直轄地であったユダヤ地方はローマ支配に抵抗して2度にわたって独立戦争を起こした。それに対してナザレ派のユダヤ教徒たち(いわゆるキリスト教徒のことであるが、まだこのときはユダヤ教の一分派であった)はどうしたのであろうか? 彼らはユダヤ人として独立戦争に加わったのであろうか? あるいは武器を取らずにどこかに逃亡していたのであろうか?

新約聖書ではこのことには全く触れられていない。福音書はイエスの生涯について語ったものなので触れていないのは当然だが、パウロは時代が少し前だし、異邦人が対象なのでこれも触れていないのはムリもないが、他の使徒の手紙の中で触れられていてもよさそうなのだが書かれていない。

4世紀に書かれたエウセビオスの『教会史』ならびに5世紀のエピファニオスの『異端反論』によると、エルサレム教団は「戦いに先立って」ヨルダン川の東にあるペラという町に脱出し、エルサレムの陥落は「すべての」キリスト教徒が立ち去った後におこった、とされている。つまり、戦いには加わらなかったというのである。
ハンス・キュンクもその著『教会論』(原著1967年)においてそのような立場をとる。「パレスチナのキリスト教徒は、ローマに対する反乱には参加しなかった。そのため民族の裏切り者とみなされ、迫害されたので、彼らはヨルダン川の東の地域に逃れ、シリアとアラビアの境に当たる地方にキリスト教信仰を広めることになった」(邦訳『教会論』上 石脇慶総・里野泰昭訳 新教出版社 1976年 178ページ)。ただキュンクによればペラへ逃れたのは戦いを避けたのではなく、迫害を避けたからということになる。

このユダヤ人キリスト教徒の「ペラ移動説」には疑問も多い。『キリスト教史1 宗教改革以前』(半田元夫・今野國男著 山川出版社 1977年)は、「これは何とも奇妙な話」として、ユダヤ人キリスト教徒たちは同胞たちとともに戦って玉砕したという説もある。

一方ユダヤ人たちは、エルサレムを脱出したパリサイ派のヨハナン・ベン・ザッカイに率いられ、ヤムニアに律法学院を作る。この学院が作った「18の祈願」のなかに「裏切り者の滅びの祈願」があり、「ナザレ派キリスト教徒への呪いの言葉」が祈りとして唱えられるようになる。ユダヤ人のキリスト教徒が裏切ったことへの憎しみの強さがかえってユダヤ人キリスト教徒が戦わずに逃げ出したということを物語っているのかもしれない。この「祈願」が採用されるのは85年頃といわれる。

この「異端者への呪い」は各地のユダヤ教のシナゴーグに伝えられ、これによって完全にキリスト教徒は会堂から追放される。パリサイ派のヤムニアのユダヤ教とキリスト教徒との対立を強く意識したのはヨハネ福音書である。ヨハネ文書にはこの「会堂追放」ということが3カ所現れる。ヨハネ福音書はこのヤムニアのユダヤ教への批判に応える形で生み出された弁証の所産であるということは、マタイ福音書と同質の背景をもっていることとして大変興味深い。ただマタイ福音書とヨハネ福音書の現れ方はかなり異なっている。マタイがユダヤ人ということに固執しているのに対し、ヨハネにはもうユダヤ人への執着は全くないといってもいいだろう。

第一次ユダヤ独立戦争(David Robertsによる絵画 1850年作)

マタイ福音書には「平和」に対するイエスの教えがよく述べられている。「山上の垂訓」の「真福八端」(マタイ5:3-10)にはルカの「平地の説教」(ルカ6:20-26)にはない「平和を実現する人」「義のために迫害を受ける人」は幸いという句が付け加えられている。

さらにマタイ福音書にはこんな所もある。24章15-16節に「憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら、……そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」(新共同訳)というイエスの言葉がある。その「主の戒めをよく守って、キリスト教徒は嵐の最初の遠鳴を聴いてヨルダン川の向こう岸のペラに逃げてしまった」(『教会史』ヨゼフ・ロルツ著 神山四郎訳 ドン・ボスコ社 1956年 51ページ)という。

しかし、マタイ福音書にはこういう所もある。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」(10:34)。

ペラに脱出したかどうかということはともかく、おそらくエルサレム教団はこの独立戦争に武器を持って戦わなかったのではないかと思う。マタイ福音の平和主義をみても、ユダヤ教徒のキリスト教徒に対する「裏切りの呪い」の強さからみても、そう判断される。

特にマタイの平和主義の主張はマタイのおかれた歴史的背景の中で読んでいくと、とても興味深いものがある。エルサレム教団がユダヤ独立戦争で武器を取らずにエルサレムを抜け出したことは、イエスの示した平和主義に「忠実に生きた」こととしてもっと積極的に評価していいのではないかと思う。

2度にわたるユダヤ独立戦争において、ナザレ派のユダヤ教徒たち(つまり原始教会のキリスト教徒たち)は武器を取って戦わなかった、そしてそのこと故にユダヤ教徒たちからの独立/離反をはたしたということは誇らしい歴史として喧伝してもいいことだと思うもうのだが、歴代のキリスト教徒たちはそうしてこなかったということに、キリスト教の矛盾があると思うのだが、いかがであろうか?

 


津和野乙女峠の高木仙右衛門と守山甚三郎

日本のキリシタンの歴史の中でもっとも大規模な迫害があったのは、実は明治になってからのことであった。明治政府は維新後もキリシタンの禁教令を解かず、名乗りを上げたキリシタンたちを捕縛し、拷問を加えて迫害した。

なかでも「浦上四番崩れ」で捕縛され、西日本の各藩に流罪となって「浦上の旅人たち」は3400人といわれています。

名乗りを上げたキリシタンたちの中のリーダーであった高木仙右衛門と守山甚三郎とは津和野藩におくられ、ここではもっとも厳しい迫害がおこなわれた。

このあたりの話はあちこちのホームページに書かれているので、そちらを読んでほしい。

私は今ここで「乙女峠 命をかけて ―津和野殉教物語」(水口登美子著「心のともしび運動YBU本部」発行)の薄いパンフレットの高木仙右衛門と守山甚三郎についてのエピソードを紹介しよう。そこにそれまでのキリシタンたちとは少し異なった近代的なクリスチャンの姿が現れていると思う。

 

仙右衛門らが三尺牢に閉じ込められている間たびたび甚三郎は役人に呼び出され説得されました。役人たちは甚三郎を呼び出すと必ず東のほうを一心に拝み「改心して太陽を拝め」と命令しました。しかしかれはきっぱりと「拝みません」と答えます。役員は怒り「私たちが無事に過ごせるのは太陽のおかげだ。おまえたちは目に見えない神を一生懸命に拝んでいる。しかし、そんなくだらないものは一日も早く捨て改心するように」とくる日もくる日も説得しました。

ある日甚三郎は役人にむかって「それではそのわけを説明しましょう」と言って次の話をしました。「ある日お役人様が何かの用事で外出されたとしましょう。用を済ませて家への道を急ぐうちとっぷり日も暮れ、いなかのことなので道も悪く一寸先も見えません。途方にくれていた時、ある人が提灯に火をつけて『どうぞこれを使ってください』と親切に貸してくださったのです。そのお役人は提灯のおかげで無事家に帰ることができました。

お役人様、私に太陽を拝めとおっしゃるなら助けてくれた提灯を高いところにあげ、平伏して『お提灯さま、おろうそくさま、ありがとうございました。あなたのおかげで命が助かりました』と言い、提灯を貸してくださった方はどこにいるのかわからずお礼を言う必要はないとおっしゃるのでしょう。けれど、わたしなら、そんな提灯にお礼などを言わず、提灯を貸してくださった方にありがとうございました、とお礼を言いにまいります。私たちは太陽のありがたさを知っていますが。その太陽を作った神に拝み感謝しているのです」と彼は答えました。役人はあまりに道理にかなった話に何も言うことができず、怒りながら牢にほおりこんでしまいました。

甚三郎らを三尺牢にいれた役人たちは改心者に「タバコ一服でも与えたら三〇日間の門締め」と強く言い渡しました。みなは怖れ誰も牢に近づきません。その日夕方すでに改心し、城下の方へ働きに帰ってきた改心者は、甚三郎をみてみなが食物などを与えないのを知るや「同じ国から同じキリスト教を信じこの地にきたのです。今は改心していても、必ずあの人々の助け、祈りによって神にゆるしてもらおうと思っているのに、早くたべさせるように」と言って、それ以後食物を未改心者たちに差し入れたのでした。

事実改心者たちは謙遜に「私たちは弱く、キリスト教をやめて本当に悪かったのです、神にゆるしてくださるように祈ってください」と彼らに願い、どんなに軽蔑され断られても、食物を運んだのでした。未改心者が夜やってくると喜んで彼らを迎え、食物を与え、空腹を満たし、また米や野菜を牢にいる人のためにと与えたのでした。改心者の人々の謙遜であたたかい心がなければ、未改心者たちは上地にしてしまい決して長い長い牢の生活に耐えることはできなかったでしょう。

改心者たちが長崎へ帰ってから1年あと(1873年)未改心者たちが長崎へ帰ることになったとき、盛岡ら三人の役人は仙右衛門、甚三郎他二名を屋敷に招いてごちそうしました。役人たちは今までの残酷で恐ろしい拷問をわびたかったのです。その咳で彼らは「武士なら立派な武士だ。おまえたちのような信念で生き抜いたのは珍しい」と言って甚三郎らの立派で固い信仰をほめたたえたのでした。

1918年の夏、甚三郎は一通の手紙を受け取りました。それは乙女峠でキリシタンの説得に当たった役人森岡の長男の健夫さんからでした。

かれは修道士となっており、その手が意味にぜひ会ってそのときのお詫びがしたい、と書かれ浦上から津和野までの旅費が添えられてありました。

こうしてかつて津和野で迫害された者と拷問を与えた子孫が手を取り合って、殉教地乙女峠へとあがっていったのでした。森岡さんは光琳寺跡の草むらに跪き、涙ながらに「私の父の罪をゆるしてください」とわびたのでした。すると甚三郎は彼の手を取って「あなたが信者になられてこんなうれしいことはありません」とともに涙を流しあい、互いに救いの信仰を生きていることを神さまに感謝したのです。

 

残念ながらこのパンフレットはもう手に入らないので、ここで紹介できることがうれしい。津和野物語にはこんな話も潜んでいたのである。

【参考】

http://guide.travel.co.jp/article/6982/

http://www.christiantoday.co.jp/articles/17227/20151008/tsuwano-otometoge-yamaoka-koji-1.htm

 

(土屋 至/SIGNIS Japan (カトリックメディア協議会) 会長、元清泉女子大学講師「宗教科教育法」担当)

 


ナザレのイエス

福音書のなかで好きなところは?と聞かれると私はルカ4章16~30節をいうことにしている。イエスが自分の出身地のナザレで説教をする場面である。はじめて聖書を読む人にはこんな所もあるんだと驚きを禁じ得ないだろう。

 

その説教を聞いて人々は「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いていった。『この人はヨゼフの子ではないか』」という。

するとイエスはいう。「預言者は自分の故郷では歓迎されないものだ」と預言者エリヤやエリシャの例を出す。

「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖までつれていき、突き落とそうとした。イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた」というのである。

 

福音書の場面に入り込み現場にいるひとりになりきって、この場面を想像するという作業は「イグナチオの霊操」ですすめられる黙想であるが、この場面ほど豊かに想像をかき立てられるところはそうない。

よく読むと前半ではナザレの人はイエスの説教に感心してイエスをほめていた。後半をいったら人々は怒り出したという。ならば後半は言わずもがなのことだった。言う必要もなかった。なのになぜわざわざイエスはそう言ったのだろうか? 後半で書かれていることを先取りしていったらやはりそうなってしまったという感じである。

町の人はこの説教をしている人が「大工の子イエス」であると知ってから評価が豹変した。ということはイエスがナザレではどういう人物として受け取られていたのだろうか? ほかの箇所では「イエスは大酒飲みの大食らい」(マタイ11章19節)と言われている。どんな青年だったのか? あんまり評判は芳しくなかったようである。

「町の外へ追い出し、崖から突き落とされそうになる」というのも人々の怒りの激しさが想像される。町から追い出され、山の崖までどんなうふうに連れて行かれたのか、イエスは身の危険を感じなかったのか、イエスは何を考えていたのか、少なくともイエスはこれに抵抗していない。言い合いをした様子もない。

そしてイエスは「人びとの間を縫って」そこから逃げ出したというところではイエスのすばしこさが描かれる。子ども時代、近所の悪ガキたちと遊んでいて、そこで鍛えられたすばしこさではないか。

この箇所はマルコにも併行箇所がある。(マルコ6章1〜6節) マルコは「イエスが大工の子であることを知って人々はつまずいた」としか書かれていない。崖から突き落とされそうになった話はない。さらに「人びとの不信仰」をなげく。

マタイにもある。(マタイ13章53〜58節) 基本的にマルコと変わらない。最後に「人びとが不信仰だったのでそこではあまり奇跡をなさらなかった。」と結ぶ。

聖書にこんなところがあるのかと驚くような箇所は皆おもしろい。これは知られるとイエスの(イエスと言うよりは弟子たちか)評判をおとしかねないような箇所があえて書かれているところである。

イエスの本当の姿を追求する「史的イエス論」の立場からいうと、こういう所こそあとから背びれ胸びれをつけられた姿ではない、本当にあった「歴史のイエスの姿」だという。

妻が亡くなる前の2013年10月妻と一緒にイスラエル巡礼ツアーにいったときに、じつはこの「突き落としの崖」の下をバスで通った。むかしは崖の下に教会があったそうだ。この「突き落としの崖」をネットで探したら映像と写真があった。

 

 

「福音の村」晴佐久神父説教集で。この箇所をテーマにした説教福音の村晴佐久神父説教がある。これもまたおもしろい。

土屋 至(元清泉女子大学講師 「宗教科教育法」担当)


パラクレートス(助け主)である聖霊

聖霊とはなにか、とてもわかりにくいとされている。そもそも「聖霊とはなにか?」という問いかけにクレームがきそうである。「聖霊は人格(ペルソナ)だからなにかではなくてだれかではないか」と。ま、そうカタイこといわずによんでほしい。

そんななかで最もわかりやすく説明されているのが、聖霊降臨の日曜ミサのなかで歌われる「聖霊の続唱」ではないかと思う。

 

エル・グレコ『聖霊降臨』(1605-1610年頃、プラド美術館、マドリッド)

聖霊の続唱

聖霊来てください。あなたの光の輝きで、

わたしたちを照らしてください。

貧しい人の父、心の光、証の力を注ぐ方。

やさしい心の友、さわやかな憩い、ゆるぐことのないよりどころ。

苦しむ時の励まし、暑さの安らい、憂いの時の慰め。

恵み溢れる光、信じる者の心を満たす光よ。

あなたの助けがなければ、すべてははかなく消えてゆき、

だれも清く生きてはゆけない。

汚れたものを清め、すさみをうるおし、受けた痛手をいやす方。

固い心を和らげ、冷たさを温め、乱れた心を正す方。

あなたのことばを信じてより頼む者に、尊い力を授ける方。

あなたはわたしの支え、恵みの力で、救いの道を歩み続け、

終わりなく喜ぶことができますように。

アーメン。

 

これを読んでどんな感じであろうか? すこしはぴんときただろうか?

確かにこれを読むとこんな存在があったらいいなと思わせるものである。これを素直に信じることができたらどれほど「尊い力を授かって」心強いことか。

こころに直接働きかける存在、コミュニケーションを助ける存在、感情を動かす存在…..

聖霊のことを最もよく語っているのはヨハネである。

 

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14章26節)

 

この中の「助け主」という言葉のギリシャ語が「パラクレートス」であるが、これがおもしろいことに翻訳によって「弁護者」「いやし主」「なぐさめ主」だったりする。

ま、そのすべてが正しいのであろう。「聖霊の続唱」で歌われていることと一致するではないか。

土屋至(元清泉女子大学「宗教科教育法」講師、SIGNIS JAPAN(カトリックメディア協議会)会長)

 


マリアのlet it be

中学3年生の「宗教」で「聖母マリア」を読む

マリアを取りあげる授業はビートルズ「Let it be」を聞くことからはじめる。

「この歌知っている人?」

ときくとほとんどが手を挙げる。いつになっても不朽の名作だと思う。

「じゃ、Let it be ってどういう意味かな?」

「『なるようになるさ』という意味じゃないの?」

「『あるがままに』だっていうのを聞いたことがあるよ」

「ここに和英両訳の歌詞付きのカラオケ映像があるので、見てみよう」

「これは『あるがままに』だよね。でも他のセリフに気がついた? 『聖母マリアがやってきて知恵の言葉をささやいた』っていうところ。この言葉は聖書に出てくる聖母マリアの言葉なんだよね。しかも『知恵の言葉』だという。で、そこの所を読んでみよう。ルカ1章27節〜38節だ。」

 

……………{朗読省略}……………

 

「この中に『Let it be』があるのだけれどどこかわかるかな?」

「え、わからな〜い!」

「ヒントはマリアの言葉だ」

「そうするとここかな?『マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。』でもここには『あるがままに』も『なるようになるさ』も出てこないよ」

「じゃあ、英語訳をみてみよう。英語訳はこうなるんだ。

And Mary said, ”I am the handmaid of the Lord; let it be to me according to your word.

ほらここにあるだろう? でもね、マリアの言葉は『let it be to me according to your word』なんだけれど”Let it be”の訳では『to me according to your word』をすっとばしちゃったんだ」

「ほんとだ。『おことばどおりこの身になりますように』というのと『なるようになるさ』や『あるがままに』ではまったく違うよね。ビートルズはどっちのつもりでうたっていたんだろうか?」

「ほんとだ。おもしろ〜い!」

「ところでマリアはどのようなところでこの応えをしたんだろうか? ここは有名な「受胎告知」とか「お告げ」といわれる場面だけれど。 誰か説明して」

「ある日、天使ガブリエルがマリアの前に現れて、『あなたは間もなく男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい』といわれる。まだ結婚もしていないのに唐突にそういわれたマリアはビックリしちゃって『そんなことはありえない。まだ結婚もしていないのに』という。すると天使は『あなたは聖霊によって身籠もる。神さまにできなことはない』っていう。その応えが『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように。』というわけです」

「そうだね。このマリアの応えについてどう思う。」

ダンテ・ガブリエル・ロセッティ『受胎告知』(Ecce Ancilla Domini)、テイト・ミュージアム(ロンドン)

「う〜ん。なんといえばいいのかな? 大胆というか勇気があるというか。」

「信仰が篤いというか、神さまにまかせ切っちゃっている。」

「マリアはこのお告げをことわることもできたと思う。私にはとてもそんなことはできないっていってね。でも彼女はことわらなかった。私はこのマリアの応答を「神さまのいわれることだからなんとかなるさ」というように訳すのが一番好きだな。そうすると「なるようになるさ」っていうのに近いかな。」

「この場面、昔から多くの画家によってえがかれている。「受胎告知 絵画」で検索するとたくさんでて来るけれど、どの絵が好きかな? フラ・アンジェリコ、レオナルド・ダビンチなどなど。マリアがおびえている表情をしているのもあるね。これについてはまた別のチャンスでふれたいけれど、今日はひとつだけ紹介しよう。

ダンテ・ガブリエル・ロセッティ(1828〜1882)の「Ecce Ancilla Domini」という1850年の作品だ。このマリアのモデルは妹のクリスチーナ・ロゼッティだといわれ、天使は自分自身(彼の名はガブリエル)だとされている。クリスチーナ・ロゼッティという名を聞いたことがあるだろうか? 小学唱歌の「た〜れかか〜ぜをみ〜たでしょう♪」の童謡の作詞家(訳:西条八十、作曲草川信)として知られる。この「かぜ」の歌(クリスチーナ・ロゼッティ「かぜ」はヨハネ3章8節を歌った歌なんだ。」

「トリビア〜!」

土屋 至(元清泉女子大学講師 「宗教科教育法」担当)


復活したイエスと出会った弟子たち

まず、「イエスの復活」についての次の5つの聖書の箇所を読んでほしい。

1. イエス、女性たちの前に現れる (マタイ28章1~10節)
2. マグダラのマリアに現れる (ヨハネ20章11~18節)
3. エマオで弟子たちに現れる (ルカ24章13~35節)
4. イエスとトマス (ヨハネ20章24~29節)
5. ガリラヤで弟子たちに現れる (ヨハネ21章1~14節)

 

「これらの箇所に共通することは何か」と中学3年の女子生徒たちに質問してみた。彼女たちはいつもながらきわめて率直である。

「なんかへん。幽霊みたい。」

「なんで皆それがイエスとすぐに気づかないのだろう。ずっと一緒にいたのに気づかないなんて変だよ」

「弟子たちがそれがイエスだと気づくとイエスはまた消えてしまう」

復活したイエスは確かにその前のイエスとははっきりと違う姿あったようである。

それがイエスであると気づくきっかけは何だったのか?と続けて質問する。

「パンを裂く」

「イエスの傷に触れる」

「網をおろすように指示する」

などのシンボリックな何かであった。

なぜイエスは誰もが否定できないような復活の証拠を残されなかったのか?

なぜ弟子たち以外のたとえばファリザイ派の学者の前に出現されなかったのか? もしそのように出現されたら、それは歴史的な事実となってもっと多くの人がイエスを信じたのではなかったのか? このこともまた私たちの想像力をかき立てる。

「エマオの晩餐」レンブラント作

このイエスの復活について、わたしは次のように生徒たちに説明する。

確かにイエスの復活について歴史の中で証明するのは聖書しかない。しかし『イエスが復活した』というキリスト教徒がいたということはユダヤ人の歴史書やローマの歴史書に残っている。これは歴史的な事実である。

イエスが十字架につけられて殺されたあとに、弟子たちは皆失意のうちにちりじりとなった。あるものはふるさとに帰ろうとした。

しかし何かがあって彼らは希望を取り戻し、再び集まって教会を作り、布教活動を始めたということも歴史的な事実である。この『なにか』の宗教体験を『復活したイエスとの出会い』であると福音書は記しているのである。

つまり、失望から希望へ、失意のうちから立ち直って勇気を取り戻し、以前のような弱虫でない使徒へと変身していくそのきっかけを与えたものが「復活したイエスとの出会い」であった。これこそまさに「復活」ではないのか。復活したイエスと出会った弟子たちも〈復活〉したのである。

参考 http://tsuchy1493.seesaa.net/article/394055845.html

(土屋至/元清泉女子大学講師「宗教科教育法」担当)


イエス弟子の足を洗う

イースター前の1週間を教会では「聖週間」と呼んでいる。その木曜日の13日は「聖木曜日」(英語ではなぜかこの日を Good Tuesday という)といい、普段とは異なる特別な典礼が行われた。

この日、イエスは弟子たちと「過越を祝う」食事、いわゆる「最後の晩さん」をともにし、そのなかで「最後の晩さんの記念として」「ミサ」を制定される。

この「最後の晩さん」に先立ち、イエスは弟子たちの足を洗う。(ヨハネ13章1~11節)ペトロが足を洗われる番になると、ペトロは「主よ、私の足など洗わないでください」とイエスにいうが、イエスは「もしあなたの足を洗わなければ、あなたとは何の関わりもないことになる」といわれ、「それなら、足ではなくても頭も」というのである。

教会では、この洗足の場面を聖木曜日の儀式として行っている。司祭が12人の信徒の足を実際に洗うのである。12人の弟子はみな男だったので、普通は男性ばかりが選ばれるのだが、中には女性が選ばれる教会もあるという。

この儀式はなかなかいい儀式であり、私は好きである。私も何度か足を洗われた。気分がいいというか……………。

ところで、中学1年生と一緒に聖書を読んでいたときに、この場面を生徒がイラストに描いてくれた。イエスもペトロも女の子ふうになってしまっているが、そのイラストの吹き出し部分に「めっそうもございません」と書かれていたのである。もちろん聖書にはそういう表現はない。

まず「めっそうもない」などという表現が中学生の間にまだ生きていたことに驚く。そしてなるほど、ここでのペトロの言葉は「めっそうもない」という表現はまさにぴったりな表現なのである。

土屋 至(元清泉女子大学講師 「宗教科教育法」担当)


山上の説教と平地の説教を読み比べてみるとおもしろい

前回はマタイ福音書5章のいわゆる「山上の垂訓」の「心の貧しい人は幸い」という箇所について述べた。今回はそこの併行箇所であるルカ6章20節以降の「平地の説教」とマタイ5章の「山上の説教」と読み比べてみよう。

まずこの文を先を読み進める前に実際にマタイ5章とルカ6章とを読み比べてその違いを書き出してほしい。その後で以下を読み続けられたい。

なぜこれが「平地の説教」と呼ばれるのか、ルカ5章17節を読めば「イエスは彼らと一緒に山

ガリラヤの丘

から下りて、平らなところにお立ちになった」とあるのが所以でこれが「平地の説教」と呼ばれるようになった。

マタイ5章の「山上の説教」では「真福八端」といわれるように8つの教えがあるが、ルカでは3つしかない。

しかもルカでは不幸の例の否定形が表現されている。「今富んでいる人」「今満腹している人」は「不幸だ」というのである。

また、ルカの方では「心の貧しさ」というような表現ではなく、「貧しい人」である。この違いは小さくない。「義に飢え渇く人」ではなく「今、飢えている人」と直接的、現実的である。ルカの方には「今、貧しい人」「今、泣く人」というように「今」という言葉がめだつ。

まだある。マタイの方は「神の国はその人たちのものである」とあるが、ルカは「神の国はあ

ガリラヤ湖

なた方のものである」となっている。どちらが貧しい人たちに向けて直接語っているのだろうか? ルカの方が貧しい人に直接語りかけていることになる。

そうすると「心の貧しい人」というのは「心底貧しい人」や「乞食の心を持つ人」というような表現よりもそれを少し薄めた形で述べているのではないか。「おのれの貧しさを知る人」あたりの訳が適当であるように思うがいかがであろうか? マタイが対象としていた人たちはユダヤ人の極貧層というよりもそれより少し上の人たちであったのではないかと推測されるのである。

土屋 至(元清泉女子大学講師 「宗教科教育法」担当)