黒川能女
原爆投下の様子を夫・位里とともに大きな墨絵に描き残した丸木俊は、この前の戦争の時に黙ってしまったことを悔やみ、今は黙ってはいられないと『言いたいことがありすぎて』(1987年)という本を書きました。大東亜戦争時にはものが言えない時代だったのです。ため息の極致に思えたのです。
当時は、皆が戦争の被害者だったのでした。
私の父は、戦争勃発の年の夏から4年間、極寒の満州へ兵士として出征し、傷病兵となって帰国したのでした。伯父に当たる人も3名が戦死。志願して満州農業開拓団となって行っていた家族は、一人も帰ってこられなかったのでした。
戦後間もない復興途上の東京は、食糧難時代でもあり、家を失い、親を失った孤児、たずね人や路上生活者、不良少年などがたむろし、パチンコ屋の軍艦マーチが響き、スクラムを組む労働者、大学生によるデモ隊、ジープで風切る米兵にまとわるパン助と言われる女たち、バーやダンスホールに遊ぶ人たちなど、決してきれいではなかったのです。
時代は移り、東京の大学で学んだ頃、2時間半かけて汽車で通ったのでしたが、学校が靖国神社近くでしたので、昼休みを境内で過ごす毎日でした。ガラスケースに展示された若い兵士の遺書がずらりと並んでいるのでした。特攻兵のものや犠牲となる前日の遺書でした。身につまされる思いで読みました。「人間魚雷(回天)」と言われた兵器などの展示も眼に入りました。「おかあさん、お国のために桜花となって明日散ります。育ててくれてありがとう……」などと記されているのでした。
住まいを東京に移し、8月を迎えるごとに東京大空襲を体験した話、集団疎開で苦しんだ話などを聴き、死人の倒れている間を親戚の人を捜し歩いた話などを聞かされます。
戦争を知らない人々よ! 心を開いて犠牲者の声なき声を聞いて、「二度と戦争をしない」と約束してください。老人の切なる願いです。
命拾いを体験し、生かされた恩恵を自分に出来ることを整理し、時間を大事に使おうと心に決め、「戦争を知らない若者に聞いておいてほしいことを書きしるしました。
200字詰めの原稿用紙に納める字数に工夫が入りましたが、『戦争の記憶を』戦争のため息として書き上げ、毎月俳句10句を出している小誌に投稿しましたところ、活字にして7月号にのりました。娘に見せたところ、よくわかるよくやったといってくれました。
丁度、お盆も来るこの季節よんでもらったらとのこと、長い人生の半分を下手でも日記のように記してきた8月をかえりみて和とじのノートに約25冊から敗戦忌8月の頃の作品をぬいてみました。自選句です。
残暑や 声を限りの 法師蝉目なうらに 燃え盛る火や 終戦忌
迎え盆 今しずしずと 渡り来る
遠き日の ご縁をつなぐ 盆火かな
父の忌や 愛でしりんどう 供えけり
だんまりを 決めこんでいる 蝸牛
人々に 会える親族 盆参り
終戦忌 言わずとこれが 敗戦忌
心より 不戦を祈る 死者生者
残暑中 急ぐ自転車 親子かな
声あげよ 我ら今ある 敗戦忌
東京の 下町戦火 カンナ燃ゆ
炎天下 黙しかけ込む 記念館
広島忌 涙で不戦 誓い合ふ
曼珠沙華 遠くに濃くて 静なり
あかあかと 今燃えている 葉鶏頭
広島忌 あの日の敵が 死を悼む
終戦忌 いわずもがなの 敗戦忌
敗戦忌 前夜火の海 熊谷市
すさまじや 残骨探す 日の思い
上出来も 仏花としての 蓮の花
蛙鳴く この世のちの世を 共にせり
夕焼や 残照うつす 窓明かり
有難うございます。
俳句ですが、普通は縦書き一行一句なのですが、横書きでは詩歌の余韻を残して鑑賞してもらいたいのですが、叶いません。
宗教掛かった句が一つもないのに、あなたの句は、、、と批評されもします。
お仕事ごくろうさまです。