教皇フランシスコの来日から一年経って――すべてのいのちを守るため


松島遥(上智大学大学院神学研究科2年)

「すべてのいのちを守るため」この教皇来日のテーマがコロナ禍にあってますます響いている。昨年の教皇フランシスコの来日は日本のカトリック教会が力づけられた大きな出来事であった。教皇の姿からキリストに倣う者としての模範を学び、教皇のメッセージと日本に対する期待から福音宣教の熱意を得た。関口教会で開かれた青年との集いや東京ドームでのミサでは、応募したのに入ることができなかったというという声も耳にした。教皇に会いたい若者がこんなにも多く日本にいるのだということに衝撃を受けた。東京ドームに集まった全員で、関口教会に集まった全員で本気で日本で福音宣教をしようとしたらどうなるのだろうと思った。教皇からの招きに応えてこれからの教会のために「何かしたい」と思ったのは私だけではないはずである。

関口教会で行われた青年との集いの中で教皇フランシスコは、「わたしたちが抱えうる最大の貧しさは孤独であり、愛されていないと感じることだ」と述べた。さらに、東京ドームミサでは日本社会の問題点を次のように指摘した。

ここ日本は、経済的には高度に発展した社会ですが、今朝の青年との集いで、社会的に孤立している人が少なくないこと、いのちの意味が分からず、自分の存在の意味を見いだせず、社会の隅にいる人が、決して少なくないことに気づかされました。家庭、学校、共同体は、一人ひとりがだれかを支え、助ける場であるべきなのに、利益と効率を追い求める過剰な競争によって、ますます損なわれています。多くの人が、当惑し不安を感じています。過剰な要求や、平和と安定を奪う数々の不安によって打ちのめされているのです。

教皇来日から一年が経過して、さらにコロナ禍にあって教皇の抱いたこの日本社会の側面はどのように変化しているのだろうか。教皇来日から一年経過して、愛されていると感じた人が増えただろうか。あるいは孤独から救われた人は増えているのだろうか。

むしろ、コロナ禍にあって社会の分断が加速し、孤独のうちにある人、愛されてないと感じる人は増えてしまったのではないだろうか。現時点でも社会の中で弱い立場に置かれた人であればあるほどコロナによって生活に強烈な打撃を受けている現状が明らかになりつつある。コロナによって人と人との分断が加速し、差別・偏見が蔓延し、さらに孤独が加速する。私たちはこのような状況の中でどのように行動することができるだろうか。教皇フランシスコは常に変革を私たちに呼びかけている。世界を変え続ける若者の存在を切に求めている。コロナ禍にあってますます顕在化した日本社会の暴力を今変革していかなければならない。

コロナ禍にあって動揺したのはカトリック教会も同様であろう。2月から3月にかけての教会での公開ミサの停止から始まり、持病・基礎疾患者への自粛の呼びかけ、年齢制限、人数制限など思ったように教会活動を展開できない日々が続いている。「すべてのいのちを守るため」ここでも私たちにこの言葉は問いかけてくるのである。すべてのいのちを守るための行動とは何か。

ここで少し「守る」ということについて考えてみたい。「すべてのいのちを守るため」というテーマが据えられているからには命が攻撃されている現実が想定されているはずである。私たちは何から命を守るのだろうか。しかも、守る対象はすべての命である。「すべての」と書かれているところに注目してみたい。これは「私の命」だけのことではないのであって、「すべての命」である。バスケなどをイメージすると分かりやすいだろう。守る役割というのは、通常何もないところには生じないのであって、脅かされる・攻撃される事実があるところに守るということの行動の必要性が生じてくる。すると、守るという行動は、単に立ち止まって何もせず過ごしているということではなくて、攻撃から守るという積極的な行動としての意味合いを帯びてくる。イメージとしては守るものを大事に抱えて外敵から守るということになろう。

私たちは何にすべての命を脅かされているのだろうか…… 孤独・不安・競争社会・格差・分断……様々な答えがあり得るだろう。

「すべてのいのちを守るため」という言葉がコロナ禍にあって良くも悪くもカトリック教会で用いられている。すべての命を守るためにミサの年齢制限にご協力くださいだとか、基礎疾患のある人はご遠慮くださいだとか、予約制であることを受け入れてくださいだとか。すべての命を守るためにご協力をお願いします。という風に用いられていることに私は若干の違和感を抱く。

当然カトリック教会として命を優先する選択を取ることは極めて正しいことである。年齢制限も、基礎疾患のある方にご遠慮いただくことも、予約制のミサも教会として泣く泣くの決断であり、それが感染防止に役立つということは当然理解することができる。

しかし、「教会に行かない」あるいは「ミサへの参加を自粛する」ということによるすべての命を守ることへの参与が、本当に「すべての命を積極的に守る」ということにつながるのだろうか。私たちカトリック教会はむしろ能動的に、積極的にすべての命を守るための行動をしていく必要があるのではないだろうか。

では、この教会に思うように集まれない状況の中でいかにして積極的な「すべてのいのちを守るため」の行動を起こしていくことができるのかという問いが生じる。

これは信徒一人一人に問われていることである。一人一人の置かれた状況の中で、神に召された場の中ですべての命を守るために何を今するべきなのか見つけていく必要がある。

ここで今一度冒頭に提示した教皇フランシスコの言葉に戻ってみたい。「わたしたちが抱えうる最大の貧しさは孤独であり、愛されていないと感じることだ」この教皇フランシスコの言葉はコロナ禍においてもますます深まるものである。私たちの隣人に孤独を感じている人はいないだろうか。愛されていないと感じている人はいないだろうか。

コロナ禍で加速した日本社会の分断を止めるためにはどうしたらいいのだろうか。差別・偏見をなくすにはどうしたらいいのだろうか。コロナによって職や収入を奪われ、困っている隣人のために私ができることはないのだろうか。

この種々の問題への応答が、教皇フランシスコのメッセージに対する応答にもなると考える。教皇フランシスコから受けた愛と希望を胸に「すべてのいのちを守るため」の行動を考え続けていきたい。

 


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