「他者を内側から知る」八ヶ岳・三位一体ベネディクト修道院での経験


矢ヶ崎紘子(AMOR編集部)

2007年、私が国際基督教大学(ICU)の学生であった頃、八ヶ岳にベネディクト会の男子修道院があった。ICUはプロテスタント諸派を中心とする様々なキリスト教徒の共同体であった。この環境は在学中にカトリックになった私を、キリスト教徒としての共通のルーツを求めるよう動機づけた。そして、宗教改革以前、東西分裂以前と遡り得る限り根本的な生き方の場を実際に訪ねたいと思った。そのなかで見いだした共同体が、ラテン世界の最も古い修道規則の一つであるベネディクト戒律に基づいて生活する三位一体ベネディクト修道院であった。当時三位一体修道院は修道生活を一般に紹介することに意欲的であったので、私はその後の数年間に何度も訪問し、霊的師と兄弟姉妹の間で多くのことを学んだ。

東京から中央線を西に下り、甲府、小淵沢を過ぎた富士見という小さな駅が三位一体修道院の最寄りであった。標高が1000メートルを越えると体調の変化を感じた。この駅から歩いて行ける範囲に修道院があった。修道士の案内で小淵沢の高森草庵を訪れる人もいた。夏、近くにあるカゴメのケチャップ工場を見学に行ったことがあった。畑で特別なトマトをもいでおみやげにし、来客用の食堂で一緒に食べた。冬は駅から修道院までの近道だった急な坂が凍って困ることもあった。

車で行ける範囲に食料品店もあった。一人の修道士が言った。「私たちは自分に何が必要かわかっている。だから絶海の孤島には住まない」。十分な食べ物、静けさと交通の便の両立など、霊性とともに身体の必要に配慮して、生活環境を注意深く選んだのだった。「私たちはすごい苦行はしない。徹夜の祈りもしない。十分食べるし睡眠もとる。けれども怠け者には、この生活は決してできない」。人間が物質を必要とする身体的な存在であることが必ず計算に入っていた。

修道院の建物は永く使うために、構造は打ち放しのコンクリートで、内壁は配線や配管が傷んでも取り換えやすいように木材でつくってあった。客室から聖堂まではいくつかの棟が廊下で繋がれていて、中庭側はガラス張りだった。そこから白い紫陽花が見えたと思う。聖堂は祭壇の後ろがやはりガラス張りで、季節ごとに森の姿が額装されたように見えた。朝はこんな歌を歌った。「目覚めよ、魂。目覚めよ、竪琴。眠りの子らを、呼び覚まそう。輝け大空、輝け大海。光を浴びて、主をたたえよ。永遠の父と、受肉の子イエスと、聖霊の神に、栄光、とわにあれ」。心と、世界と、神を無理なく結びつける歌だった。人間は霊的・知的・身体的次元の全てに広がっている存在なのだということを修道士たちの日常的な言葉の端々から学んだ。私は卒業論文に取り組んでいたので、図書室にいることが多かった。すると「勉強ばかりしていてはいけない。食堂に行って、他のお客さんと話して来なさい」「これから昼食の買い物だから、あなたも一緒に外に行きませんか」といった声をかけられた。霊性(内面性)も知性(思考)も日常生活(身体と他者との関係)に着地するように導かれた。

あるとき修道士から、修道院長ベネディクトとその双子の妹スコラスティカの物語を読むように勧められた。スコラスティカについてのエピソードは極めて少ないが、その一つは、年に一度会うことにしていた兄妹の会話が深夜に及んだとき、朝まで一緒にいてくれるようにスコラスティカがベネディクトに願う場面である。ベネディクトは戒律遵守を理由に断るのだが、スコラスティカが神に願うと、神は即座に雷雨を起こして、やむをえず彼を屋内にとどめたので、兄妹は夜を徹して霊的な会話を楽しむことになった。この話を記した大グレゴリウスは、より多く愛した方が優ったのだと述べている。読後、戒律(良識ある判断)も愛(一緒にいること)に奉仕しているのだと教わった。今、一つの寓意としてこれを解釈すると、二人が双子であるということは同質的な存在であることを、スコラスティカが説得に挫折したときに祈りに訴えたことは外的な働きかけに対する内面性の優越を示しているように思われる。つまり、この物語には同質性を媒介にして内的に他者を知るまたは他者に働きかけることへの示唆が表れているのではないだろうか。

このような「他者を内側から知る」ことへの示唆は、多くの歌で成り立つ共同の祈りの中で得た。共同の祈りにおいて歌が上手いというのは、自己表現の歌が上手いというのとは異なっている。ここで歌うときには主体性と自己確立とが、他者の声への注意深い聴取、従属と同時に成立し、その相互性のうちにいわば私たちを細胞とする大きな人のような共同体の一つの声が生じていくのであった。このような歌い方は直接人格形成につながっていた。つまり、歌うということは自分が主体として特定の言葉を特定の高さ、長さで歌うというだけでなく、多くの他者の身体(とその背後にある霊性と知性)から産み出された振動の中に注意深く身を置き、極めて主体的に、完全に同調してゆく自己滅却の訓練でもある。音は文字通りには空気の振動であり、比喩としては他者の現存を意味しよう。だから共同の祈りの歌は人格的存在が相互に浸透していくことの目に見える形なのである。

このようなやや抽象的な気づきを実際の歌や日常生活に浸透させるには忍耐がいる。当然のこと、一緒に歌うことや生活を共にすることは綺麗事では済まない。宗教は人間の基礎的な尊厳の場である良心、ひいては存在全体の交わりだから、外的価値観や強制・暴力によって他者に働きかければどれだけの悲惨が生じるかを私たちは身をもって知ることになる。だがその軋轢は「同質性を媒介にして他者を内的に知る・他者に内的に働きかける」ことへの転換によって少しずつ解決することができるであろう。歌から着想を得た「他者を内側から知る」ことの理論的な裏づけは稿を改めて行いたい。

 


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