あき(カトリック横浜教区信徒)
別のエッセイでも書きましたが、わたしの父は東北から集団就職列車に乗って京浜工業地帯のある会社に就職しました。
当時鶴見という町は、この工業地帯を支えてきた人たちがたくさん住んでいました。電車は茶色の国鉄カラー。その床は当時の学校と同じく、板張りに油を塗って茶色。
今では考えられませんが、夕方ホームの売店の前には、工員が呑んだ酒瓶やビールの空き缶がたくさん転がっていました。
初冬の夕暮れ時、街灯のカサが風に揺れ明かりがふらふらと地面を照らす頃、ガード下の酒屋の立飲みカウンターには客がいっぱい。うす緑色の丸ビンの中のスルメ等を摘まみながら横一列に酒を呑み、その日の憂さを大きな声で晴らしていました。わたしの父もそんな一人。年に数回家族を動物園などに連れて行くときにも、必ずここによって一杯呑んでいたのを思い出します。
わたしも高校を出る頃は反抗期。
父の言うことは一切聞かず、自分が正しいと思っていたことを勝手にやっていました。
田舎のご祝儀(結婚式)に行くことになったとき、父の言うことを無視。当時はやっていたジーパンは公式に認められていると嘯き、静止を聞かずにジーパンで参加したのを思い出します。田舎の人もそんなわたしを無碍にはできず、机の下にジーパンを隠して足元の見えない受付をさせてくれました。
父は大酒飲みで頑固一徹。
気が付けばわたしもそんな父に似ているのかもしれません。
当時の鶴見の駅前は、いまのようにきれいに区画整理がされていたわけでもなく、戦後のバラックが適当に立ち並んだ雰囲気のまま、雑多な街並みでした。
話は代わりますが、鶴見には多くのラーメン屋さんがありました。
特にそれぞれ工夫を凝らした餃子が有名でした。
父はその中でも「満州園」という店が好きで一人でよくいっていました。
本当であれば成人したわたしと「一緒に酒を交わしたいだろう」と、今ならわかるのですが、わたしが就職して鶴見で父の背中を見つけても、反抗心の残っている当時のわたしは、一人で家に帰っていました。
入社して何年か経った、ある仕事帰り。
駅の階段を降りたところで父を見つけました。「ちょっと寄っていこう」と父は私を誘って「満州園」の暖簾をくぐりました。
木の机とビニール座の小さな椅子に向い合せに座り、父が白乾児(パイカル)と餃子を2人前頼んで、特に話すこともなく。
パイカルは馴染みが無いかもしれませんが、中国のコーリャンを原料とする蒸留酒。
独特な香りの強い酒です。
「仕事はどうだ」
「特に問題ないよ」
「そうか」
それから無言のひと時があり、餃子を食べて一緒にバスに乗って家に帰りました。
それが父と二人で酒を呑んだ一回きりの経験です。
しばらくして父が他界しました。
ある時、階段の下でわたしを待っていた父のことが思い出されて、一人で「満州園」の暖簾をくぐりました。
パイカルと餃子を一人前。
呑むほどに酔って、店の人に父との思い出を語り「パイカルは酒屋ではなかなか売ってないんだよね」と話をしました。
勘定をするとき、店員がやってきました。
なんと四合瓶に商売用のパイカルを詰めてもってきてくれました。
本当にうれしかった。
しばらく家で大事にこの強い酒を呑んでいたのを思い出します。
気が付いたら、もう少しで父が他界した年になります。
わたしも父に負けない酒呑みになってしまいました。
酒瓶には人それぞれの想い出が詰まっています。
コロナ禍で赤ちょうちん、酒の小売りやさん。それ以外の沢山の人々。
つらい日々が続いています。
一人一人が他人事ではなく、自分のこととして受けとめ、コロナ防止に努めれば、いつの日か一緒に飲める日が来るでしょう。
そんな日が来ることを祈りたいと思います。