SIGNIS JAPAN事務局長としてのミッション:これまでの歩みと使命


町田雅昭(SIGNIS JAPAN事務局長)

これまでの歩み

神奈川の県立高校から上智大学に進学しました。英語の教師を見返してやりたかったのが動機でした。第一志望は国際基督教大学でしたが、たまたま受験日が重なったのと、入試の方法がまったく違ったので、自信が持てず、上智を受けました。偶然、上智の入試の前夜に、テレビでモンテ・カッシーノの攻防のドキュメンタリーをやっていて、翌日世界史の問題にその地名が出題されていたのです。こんなことがあるものかと思いました。

「坊さん学校」とは聞いていましたが、予想以上でした。語学のクラスはもちろん、一般教養も半分以上は神父様が担当されていました。教え方もうまかったので、気に入っていました。

当時は、キリスト教に関心があったわけではなく、外国人の教員が多くて生の英語に触れられると思っていた程度でした。ただ、私のいた男子クラス担任で、英語教師の当時助祭だった先生が信仰入門講座を開いて勧誘していたんですね。英語を学ぶにはまず相手の文化を理解しないと思い、友達と一緒に話を聞きに行きました。

一緒に話を聞いていた仲間が次々に受洗して多分最後の方に洗礼を受けました(ミイラ取りがミイラになった!)。当時はそういう雰囲気がありました。語学、宗教・哲学、文学と、司祭の先生方に囲まれていたわけです。日本人の教授・助教授もいましたが、司祭に習った時間の方が圧倒的に長かった。洗礼代父は元々カトリックの同級生にお願いしました。四年に上がる直前ですね。堅信の時は私より先に洗礼を受けた同級生にお願いしました。

とは言え、カトリック信徒としての自覚はあまりありませんでした。卒業後に恩師に会ったときに、麹町教会に置きっぱなしだった籍を住んでいる地域の教会に移せと言われて、当時まだできたばかりの調布教会に移したくらいです。青年会で何かやったとは思いますが、特別なものは何もありません。転勤もありましたし、戻ってきてもいわゆる日曜信者で教会活動にはほとんど参加してなかった。

結婚して稲村ケ崎に住んでいたときは由比ガ浜教会でしたが、ミサに通っていただけで、特に何かしていたわけでもないですね。雪の下教会のように大きくなかったのが良かったですけど。1976年から1980年頃のことです。

病気がちになった両親と同居するために府中に戻り、調布教会に戻ってからバザーで屋台を手伝うようになって、知り合いが出来てきたという感じです。ヨハネ・パウロ2世が来日したときも、むしろ会社のことしか考えていませんでした。

 

アメリカでの生活 教会とEWTN

子育てが終わってから、アメリカ・デトロイトに駐在になりました。最寄りのカトリック教会に通いました。雰囲気は多少違うけれども、大きな違いは感じなかった。ミサの式次第はまったく同じでしたから。行って2~3年して、「ギフトグループ」というのに誘われました。6人くらいの一種の小グループで、二週間に一度リーダーの家に集まって、『聖書と典礼』のようなものを読んでみんなで分かち合いをするという集まりでした。終わった後にクッキーなんかをコーヒーや紅茶で頂いて雑談も。それを5年くらいはやっていました。リーダーが転勤などの理由で変わることもありましたから、いろんなアメリカ人のお宅に伺うことができました。

Grow In Faith Togetherで、ギフト(GIFT)です。「共に信仰を深めよう」ですが、お互いにお互いが神様からの贈り物だという意味も込められていました。だから、歓迎されましたね。

アメリカで駐在生活を送りながら、テレビを回していると、ミサの番組があったり、神父様やシスターが話していたり、聖書物語のアニメがやっていたり。聖人伝が30分のドラマになっていたりするわけです。それが毎週どころか24時間休みなく流れていました。駐在最後の2年間はそれを録画していました。『手塚治虫の旧約聖書物語』も放送されていましたよ。

ヨハネ・パウロ2世が亡くなったときにはひたすら関連番組が再放送されていました。ワールド・ユースデイや各国への司牧訪問、様々なドキュメンタリーが放送されました。

どうしてこういう番組が日本では放送されないんだろうか、と思いました。EWTNというアメリカの放送局があります。シスターが作ったんですね。はじめの資金は限られていましたが不思議なことが続いて、1981年にガレージからテレビ放送を開始し、今では全米だけでなく、ほぼ全世界に衛星放送網を広げています。ウェブサイトから番組を観ることができます。

アメリカで定年を迎え、後任も来たので休暇をとって、EWTN本部を訪ねました。日本では「心のともしび」のTV番組を見ていましたが、EWTNと相互交流して、もっと豊かな番組になったらいいのにと思いました。ところが、帰国して「心のともしび」に問い合わせたらテレビ放送はもうすぐやめると聞いて唖然としました。

それで、自分の思いを調布教会の主任司祭に話してみたら、中央協議会の広報に相談することを勧められました。2006年の2月でしたね。

中央協議会で、SIGNISという団体があり、近々インターネットセミナーがあるというので、行ってみました。そうしたら、たまたま入会パンフレットが配られていたんですね。違うと思ったらやめればいいんだと思って、入りました。

ですから、ずっと全部繋がっているように感じます。

 

シグニスと出会い、それから

その年のシグニスの集まりに、台湾から当時のシグニス・アジア事務局長が来ていました。翌2007年のシグニス・アジア会議は日本に開催国になってもらいたいという要請でした。私がシグニスに入って、初めてか二度目の会議です。それで皆さん決断できない様子でしたので、晴佐久昌英神父様が、「みんなそれでいいの? 後悔しない?」とおっしゃるんですよね。私も「やりたいんならやればいいんじゃないですか」って言ってしまった。

あのときそう言えたのは、その15年ほど前に、勤めていた日産で世界中のサプライヤー250社ほどを集めた国際会議を開いた経験があったからです。サプライヤーズミーティングというのは、協力メーカーへの説明会ですね。欧米圏の部品メーカーのための国際会議でした。

2017年に行われたシグニス東アジア会議のミサで、説教を通訳する筆者。

それでタスクチームをまず5人ほどで作りました。全社から購買、輸出、生産管理の経験者を集めてチームを作りました。実際の会議には、設計からも品質管理からも、工場の生産課も呼ばないといけない。もちろん経理も法規部もです。

当時は日米通商摩擦の時代でもありましたから、米州部や欧州部からもメンバーを集めて、結果的には日産として全社対応でしたけど。

良いものがあればどこからでも購買は買うぞと。決まったら、他部署の協力が必要になります。本来は海外メーカーの部品は使いたくなかったんです。海外メーカーには一から説明・育成しないといけませんから。大変でしたが、それで日本のメーカーにはよい刺激となりました。時代の変化ですね。アメリカでも日本でも開催しました。

そういう経験があったわけです。

それにしても、当時のシグニスには国際会議の運営経験者はいませんでした。現場を見た人もいない。開催承諾後の2006年のシグニス・アジア会議に、当時会長の千葉茂樹監督と、シグニスからもう一人、中央協議会から一人の3人が参加しました。しかしその直後に、中央協議会がシグニス事務局を返上し、もう一人の参加者もシグニスを退会してしまったんです。

結局、どんな会議なのかまったく知らない私ともう一人のメンバーとで担当することになったわけです。もう定年後の再就職でしたから、仕事を3か月休んで準備に当たりました。もう一人には会場確保や諸連絡、ウェブサイト構築を分担してもらいました。一人ではできませんでしたから。そうして2007年の9月、シグニス・アジア会議を迎えました。

 

自分の経験が活かせるなら

その後、こういう活動をするのであればシグニスに残っていても良いかなぁと思っていましたが、ないのであれば私が貢献する余地もないでしょうし、数ヶ月は決めかねていました。やがて翌年のアジア会議の話題が出てきました。2007年の会議の時に、カンボジアの大変若い会員が、「来年はカンボジアでやります!」と意欲的でした。30歳前だったでしょうか。それで、立派にやり遂げていました。基盤があるというか、慣れているところは、まったく違和感もなく国際会議を開くんですね。日本だけでしょ。怖気づいて何もしないのは。

アジアの国々で一番英語が出来ないのは日本だと一般的には言われますが、他のアジアの皆さんの英語が完璧かといえば、そんなことはまったくありません。私たちが聞いて半分も分からないかもしれない、でも話す、しかし意味は通じる。日本人は完璧な英語を話さないと笑われると思っているのかもしれません。でも、相手だって母国語とは限らないんだし、アメリカ人やイギリス人を相手にしている時のように高貴な英語を話す必要もありません。

会議を運営する筆者(写真はシグニス東アジア会議)。

次のシグニス・アジア会議の開催国に名乗りを挙げるかについて、シグニス・ジャパンは、今も同じ問題を抱えています。しかし、日産のサプライヤーズミーティングの時に国際会議に慣れていた輸出出身の人が全部教えてくれたように、誰かに全部教えながら一緒にやってみたいんですよね。

上智に入ったこと、洗礼を受けたこと、日産に入ったこと、購買部門にいたこと、アメリカ駐在になったこと、今シグニスにいること、考えてみるといろいろと不思議です。全てが繋がっている様に思えます。

大学を卒業して日産での面接もそうです。最初の希望は輸出部門でした。しかし、役員による部門紹介のときに一番関心を持ったのは、購買だったんです。モノづくりには興味があった。ノックダウン生産にも関心がありました。つまり、将来のアジアの国々での経済発展に貢献したい、という希望もあったので、面接のときに思い切って当初の希望と違うことを言ったら、本当に購買に行かせてもらえました。輸出に行っていたらまったく違う、輸出のための事務処理、銀行、保険会社、船社、商社、海外のディストリビューターのための仕事をしていたでしょう。

 

事務局として出来ること、そして目標

実を言うと、シグニスの中にいてメディアだとかジャーナリズムという話は、私の仕事ではないような気がしています。そういう訓練は受けてきませんでしたから。シグニス・アジア会議に行くのは、事務局長として、海外の動向や刺激を皆様にお伝えするために行っているつもりです。そうした事務局の役割を10年くらいやっていますね。

国際会議を終えて、集合写真。

それを通して、日本のシグニスに刺激を与えたい。そのために、なるべく誰かに同行してもらっています。たとえば、世界大会に一緒に来てくれたシグニスメンバーがカトラジを始めました。東京でのアジア会議の時に触発されたメンバーの中からSNNが出来ました。その後、別のメンバーがウェブマガジンAMORを立ち上げました。シグニスの会員になってくれた人もいますし、会員にはならないけれどもカトリック映画賞の司会を毎回して下さる方もいます。

これからも、シグニス・アジアやシグニス・ワールドの人々に出会ってもらって、新しい動きが出てくるような刺激を届けられるようにしていきたいです。それが私の役割ですね。そしてその中から何人かでも、自分たちの活動を起こしてくれればうれしいです。

そして、日本で国際会議が開ける人を、一人育てるのが、今の私の目標です。

 


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