第2回「復活したキリスト コリント人への手紙第一15章16-22節」


佐藤真理子

もし死者がよみがえらないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお罪の中にいます。そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通してくるのです。アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。コリント人への手紙第一15章16-22節

 

先月12日はイースターでした。今年は各々の場所でイースターを過ごされた方も多かったかもしれません。今回は、キリスト教における「イースター」の意味について書きたいと思います。

ご存じの方も多いかと思いますが、イースターとは、復活祭を指します。誰の復活かというと、キリストの復活です。キリストが十字架で人の罪を贖うために死んだあと、よみがえったことを記念した祭日です。これはキリスト教にとってクリスマス以上に重要な出来事と言っても過言ではありません。「主が今生きている」ということが、キリスト教信仰の基盤であり、聖書に書かれていることがただ2000年前に起こった出来事というだけでなく、私たちに今現在関わってくるということの理由だからです。もしキリストがいま生きていなかったら、キリスト教はとっくに廃れているでしょう。キリストが今もなお人々を動かし人を変える力を持っているのは、まさしく、この方が今生きておられるからなのです。

キリストはその生き方によって多くのものを人に示しましたが、キリストが世に下り神の子として成し遂げたことで重要なことは主に二つあります。それは罪からの救いと、死からの解放です。

旧約聖書のはじめ、創世記を読むと、なぜ神が世にキリストを遣わしたのかを理解することができます。創造のはじめ、人は神の似姿として、極めて善い存在として創造されました。人は神を完全に信頼していました。神は人を養い、「あなたは園のどの木からも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」(創2:16-17)と彼らに語りました。ところがある時神に対する疑いをもたらす存在に出会いました。蛇の姿をしたサタンです。蛇は人の神への信頼を崩しにかかりました。蛇は神が禁じた善悪の知識の木の実を食べるように人に勧めるためこう言いました。「あなたがたは決して死にません。それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」(創3:4−5)

人は神に疑いを持ち、神の言葉でなくサタンの言葉を信じました。これが罪の始まりであり、人に死がもたらされた瞬間でした。死なないというサタンの言葉は偽りでした。

聖書はキリストについてこう説明しています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネの福音書3章16節。神は愛です。神から離れた心、つまり愛から離れた心が罪です。犯罪に刑罰があるように、罪には罰が伴います。キリストは愛する私たちの罪を代わりに背負って、十字架での磔刑によって償うためにお生まれになりました。このことによって、信じた者にはキリストによって罪の赦しが与えられるようになりました。人の初めの罪は、神を疑ったことでした。それゆえ神は私たちに再び神を信頼することを求めているのです。また、善悪の知識の木を食べたことによって人に死がもたらされましたが、キリストは復活し、すべての人に永遠のいのちを与える存在となり、死を滅ぼしたのです。キリストは初穂となり信じる全ての人に死からの復活の希望を与えました。「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ロマ6:23)

キリストが復活したことは、聖書の中に、多くの人の証言とともに記されています。キリストが入ったはずの墓は、空の状態で発見されました。そして聖書に記されている1世紀の人々から今に至るまで、世界中で多くの人がその後、キリストと直に再び出会うことになります。私もその一人です。

もちろん私にも神に対する疑念が襲って来る時があります。しかし、聖書のみことばによって再び立ち上がれるとき、また祈りの答えが与えられるとき、苦しみの中で助けが与えられるとき、道が開かれるとき、キリストを信じる者の一人である私は、あらゆるときに神を見るのです。目には見えませんが、確かに存在するという確信が私の心に差す光によって分かるのです。

キリストの弟子たちは、エマオという場所への道で復活したキリストと出会い、彼と話しながら心が燃える経験をします。自分が話している相手がイエス・キリストだと彼らに分かった瞬間、彼らの目が開かれると同時に、キリストの姿は消えてしまいます。キリストは目には見えませんが、それゆえに私たちの一番近くにいることができるのです。今年の復活祭を皆がそれぞれの場所で過ごしたことには、深い意味があるのではないかと思います。神はいつでもどこでも、私たちの一番そばにいるのです。神が求めているのは、それをいつも私たちが忘れずに生きることなのではないでしょうか。

「いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛しあうなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。」ヨハネの手紙第一4章12-13節。

神は死んでいません。キリストは今生きています。

 

佐藤真理子(さとう・まりこ)
東洋福音教団沼津泉キリスト教会所属。上智大学神学部卒、上智大学大学院神学研究科修了、東京基督教大学大学院神学研究科修了。
ホームページ:Faith Hope Love

 


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