山田木綿子(カトリック菊名教会)
今回車椅子の誘導ボランティアをするまでは、理解していなかった最大の問題。
通常の野球場としての利用で3万人、アリーナ席を設けてのイベント時には5万5千人を収容できる東京ドーム。そこに、車椅子で利用できる多目的トイレは5個。1万1千人に1個。(今回はさらに会場レイアウトの都合上、利用できるのは3個。1万6~7千人に1個。)
ちなみに車椅子で利用できる多目的トイレは名前通りに他の機能も併せ持っていて、例えば、手摺付きであること、おむつ替え台が備わっている、オストメイトの方用のトイレ兼流しが付いている等のケースが多い。つまり車椅子利用者以外にも、車椅子を利用するほどではないが足腰に怪我や不安がありトイレでは手摺を必要とする人、健常だが乳幼児を連れておりおむつを交換する場所を必要としている人(もしかしたら授乳スペースとしても必要としているかもしれない)、一見すると何の必要も無さそうだけれど実はオストメイトを装着していて特殊なトイレ環境を必要としている人、などがパッと思いつく。そしてこれらのケースは、通常のトイレの利用者よりも一人当たりのトイレの利用時間が長いことは想像に難くない。
しかし都内最大級の集客を誇る施設で、これほどまでに多目的トイレの数が少ないとは驚いた。そしてその問題に当日まで気付いてもいなかった自分に驚いた。自分が利用者ではないので、「多目的トイレがある」ことだけで納得していたのだと知った。
社会は、収容人数に対しこのくらいの数で多目的トイレは設置しましょうとなにがしかの基準を設けていると思われる。それはこういった特殊な環境を必要とする人が外出して、社会に交わる機会がそれほどまでに少ないことを前提にしているのだということだ。
そしてそれで問題になっていない、ないし「ありえない!」と大きな声が上がらないのは、彼らが自衛策としておむつを利用したりして社会の悪条件に密かに我慢して対応しているからに過ぎないのではないか。自宅で、仕事場で日常的にトイレを利用して生活している人が、大好きな憧れの誰か(パパ様や野球選手やアイドル)に会う時には混雑を考えておむつを穿かねばならないとしたら、屈辱的ではないだろうか。それを当たり前として彼らに押し付けていないか、考えてみる必要があるのではないか。
何も彼らの待ち時間はゼロにすべきだとか、完璧に理想どおりの暮らしができなければいけないとは言わない。私たちが通常待つ程度の時間はお互い我慢しましょうねとしても、彼らが利用そのものを諦めるしかないほど途方もない時間トイレを待たねばならないのが当たり前なのはなんだかおかしいのではないかと思う。
多目的トイレは通常のトイレの何倍ものスペースを必要とするので今から増設が難しい設備ではあるが、これから新しく作る場合の基準を引き上げたり、設備の改修の際に積極的に増設をすすめると良いのではないだろうか。合わせて使いやすいけれどコンパクトな、革新的な多目的トイレのデザインが出てくることを期待したい。ベンチャー企業で良いアイデアを持っているところはないだろうか。
これも車椅子や杖の利用者の通常の社会生活を支える基盤として物足りなく思った点。
今回東京ドーム内で車椅子の誘導時に使うもののなかで、VIP用のエレベータが唯一の客用エレベータであった。その他のものは業務用のエリア(バックヤード)にあり、通常の利用者がアクセスできるエリアにはなかった。今回たまたまエレベータが配置の都合で塞がれていたのでなければ、日常的な車椅子などの利用は想定されていないことになる。その場合はおそらく今回のようにスタッフが付き添って、関係者入り口からバックヤードを抜けて出入りするのだろう。それで事足りる程度しか出入りがないということだ。3万人入ろうが5万人入ろうがそれでやりくり可能ということだ。今回の教皇ミサは、かなりの特殊事例になるのだろう。車椅子スペースはアリーナに120、スタンドに100程度の設定がされていたと聞いた。誘導の際はエレベータを待つことに時間の大半を費やしたように思う。特にアリーナに出入りするのが困難だった。小さな業務用エレベータと、すれ違うことも難しい細い従業員用通路しかなく、そこに車椅子と階段の利用が困難な人が集中した。
そもそもが野球場であり、アリーナのフロアは選手か関係者かしか利用しない想定の建物であるということも大きい。しかしライブやオクトーバーフェストなどのイベントも行うのであれば、今後はバリアフリー化をさらに進める必要があると思われる。それは1万人いればもしかしたら1000人が配慮を必要としていると想定して計画するべきではないだろうか。これでもたったの10%。日本の高齢者率は既に20%を超えて30%に近付いているとか。(全ての高齢者に配慮が必要なわけではないが、若くても配慮が必要な人もたくさんいるので目安程度に。)
車椅子エリアへの誘導をしていて何件かあったのが、明らかに車椅子などを必要としていない元気な人が車椅子エリアのチケットを持っていたこと。見る限り片言の日本語で話す異国の方々。本人は罪悪感などなく、車椅子ではないのかと問われても不思議そうに「違う」と言う。家族や連れが車椅子なわけでもないという。思うに、インターネットで抽選に申し込む際に、手あたり次第申し込んで車椅子のためのスペースを当ててしまったのではないか。彼らはただ純粋に理解していないのである、車椅子エリアはそのスペースでなければ入れない人のための場所だということを。つまり理解できる言語では書かれていなかったということだ。
さらに困ったことに、そういう健常者の車椅子エリアの利用がある一方で、通常席だが車椅子を利用したいという人達も出てきた。スタンド席などは構造上、階段の上に椅子が並んでいる(外せないし、スロープもない)ので車椅子では置き換えられない。車椅子エリアにいる健常者と席を交換できればよいが、席番号がわかるわけではないのでそれも難しい。アリーナのケースでは空きスペースに車椅子を並べていたようだ。
解決策の一案として、抽選の時点で車椅子の大まかなサイズごと(椅子の小型、椅子の大型、ベッド型など)にエリアを設定しておいて、車椅子のサイズを指定しないとその枠への応募ができないようにしたら間違いが減るのではないか。運営側も車椅子のサイズが事前に分かっていれば、席の設定や誘導の導線などを考えることができるのではないか。また、一般席から車椅子利用への変更は会場の都合上困難としても、車椅子利用の可能性がある場合は車椅子エリアでの抽選を促したほうが結果的にスムーズなのではないだろうか。
それ以外にも、視覚障害や杖の利用(歩行に注意や配慮が必要な人)の情報も集めた方が安全なように思う。スタンド席の間の通路は狭く急峻で段差のペースもまちまち、健常者の足でも気を付けないといけないような構造であった。そこに白杖を利用する人や、杖に縋って歩く人を通すのは事故の可能性が増すように思う。今回はアリーナ席に行くためにもその階段を下りねばならず、無事故でミサが終えられた(多分)のは有り難いことだった。
段差が少ないルートで辿り着けて、できれば通路幅が少し広く、立ち上がるときや横移動の際に助けになる手摺が付いているような席があれば良いのにと思った。
しかし、利便性を考えて区分してしまうことは、社会の分断と無意識を招く可能性もあり、一概に良い点ばかりとも言えない(人は、目についたり隣にいなければその存在を忘れてしまうものなので。)
今回、特別対応を約束されたという人たちが関係者入口(スタッフの人数が集中しているであろう出入口)に集まった。点字資料が用意されているはずだ、音声ガイダンスがあると聞いている、通常の席数を超えて車椅子スペースを確保してあるはずだ、などなど。現場は大混乱で、そのたびに事情の分かる人を探してスタッフが奔走していた。
特別対応が悪いというのではなく、誰かががふんわりと特別対応を約束し、受け取り手側もそのふんわりとした約束を鵜呑みにしてその場に来てしまうことが原因だと思われた。点字資料は確かに用意されていたし、席も確保されていた。しかしそういった準備を、誰のために誰が準備してどのように提供するのかを現場スタッフに全く伝達していないし、受け取り手の人に伝えてあるわけでもないのが問題だった。
どうか特別対応を引き受けたからには最後までご自身の責任で対応を行ってほしい。例えば資料を用意したのならば、どこでどうやって引き渡すのかまで決めて伝えておく。特別対応を受ける人は、どうぞ約束してくれた人にきちんと隅々まで確認して特別対応を受けてほしい。現場のスタッフに向かって声を荒げても何も解決しないので、声を荒げるなら約束してくれた人にどうぞ。現場のスタッフに特別対応があることを伝えなかったのは、約束した人の責任でしかない。途中から「あとは誰か(主にスタッフ)がどうにかしてくれるから」では支える方がうんざりすると思いませんか?
特別対応の項目でも書いたが、約束された特別対応がスタッフに共有されていないと声を荒げたり、いかにも仕事ができないとでも言いたげに見下したような態度をとる方々がいた。確かにスタッフの情報共有はできていなかったかもしれないが、ご自身とお約束してくれた方との間の情報共有を棚上げして人を責めてはいないだろうか。
日々の生活でままならないことも多く苛立つことも多いとは思うけれど、それは赤の他人に厳しく当たることとは無関係なはずだ。
ましてや今回は有料のサービスではなくミサ。(むしろこれほど大量の人員と資金を投じているイベントに無償で参加できるなんて、驚異的だ。これがライブなら1人1万円近いチケット代が生じるはずだ。)そのミサを支えてくれるのは信徒ではないスタッフであり、日頃はライブやイベントなどを手掛けているような人達なのだ。(いきなりカトリックのやり方や常識など分からないし、障がい者の対応もあまりないだろう。)
抽選に外れて家でじっと祈っている人も多いだろう。ミサに与れるだけで感謝ではないだろうか。
ミサに与りに来たということはキリストのブドウの木の一枝であるということではないのか。人としての在り方、キリストに繋がる者としての在り方は、健常者も障がい者も変わらないものではないだろうか。
ボランティア席で、パパ様のパレードの際に土足で椅子の上に立った人達が居た。止めたら靴を脱いで椅子に上っていた。そうじゃない。椅子の上に立つのはおかしくないですか? 車椅子エリアでも柵に殺到して席にいる車椅子の方々の前を塞ぐようなことが起きていたように見えた。
パパ様の姿を見たいのは分かる。でも他の人だって見たいだろう。椅子に立ち上がったら、車椅子の前に立ちふさがったら、その後ろの人はますます見えなくなるということに思い至らない身勝手さに呆れた。
感謝をもって。他者への配慮はいつ何時でも忘れずに。パパ様のお説教が素晴らしい! 弱者への愛に感激した! こういう世界を作らなきゃね!と感じたなら、なにより自分が、日々キリスト者としてどうすべきかを考えて実行したいものだ。