齋藤克弘
さて、この教皇ピオ10世、名前だけは、第二バチカン公会議後に破門された大司教を中心とするメンバーが共同体の名称として用いた「ピオ10世会」で悪い印象を持たれているかもしれませんが、典礼音楽に関しては非常に重要な示唆をされた教皇で、教皇のこの自発教書『トラ・レ・ソレキトゥディニ』 (Tra le sollecitudini, 1903. 11. 22)は第二バチカン公会議の決定にも大きな影響を与えています。ピオ10世は本名ジュゼッペ・メルキオッレ・サルト、1835年ヴェネツィア近郊のリエーゼで10人兄弟の次男として生まれましたが、兄が早世したので実質的には長男同様に育ちました。若いうちから村の学校でラテン語を学び、23歳の時に司祭に叙階されました。1903年前任のレオ13世の帰天後のコンクラーベ(教皇選出選挙)で教皇に選出されました。
8月にローマの使徒座に着座した4か月後の12月にこの自発教書を発布しました。教皇着座の4か月後に発布したということは、ピオ10世の心中では教会音楽に関するさまざまな懸念や示唆を教皇になる前から抱いていたということが伺えます。
この自発教書でピオ10世が指摘している重要な点を簡単にまとめて言うと、教会音楽(原文では musica sacra)は典礼に固有の性質である聖性と形式の良好性が必要であり、それが最も高度なものはグレゴリオ聖歌であること。この聖性と形式の良好性は作品においても演奏においても必要であること。教会の音楽は声、すなわち歌って祈ることが中心であり、楽器は伴奏など補助的なもので、楽器だけの演奏が長くなってはならないこと。世俗の音楽を教会に持ち込んではならないことあくまでも典礼に奉仕するものでなければならないこと。などが書かれています。
実は、トリエント公会議からこの時代までには、あまたの作曲家が数多くの教会音楽の名作を作曲してきましたが、典礼の流れや司祭の祈りとは関係なく演奏がされてきました。例えば、Sanctus感謝の賛歌は、司祭が奉献文を(無言で)唱え始めると、聖歌隊やオーケストラが感謝の賛歌の演奏をはじめ、前半部分(最初の「天のいと高きところにホザンナ」)を歌い終わると、今度は司祭が聖別されたパンとぶどう酒の入ったカリスを高々と奉持しました。それが終わると聖歌隊は後半を歌い始めるというものだったのです。現在のわたしたちのミサの感覚では想像ができませんが、このような演奏が当時は「あたりまえ」であり、この時代に作曲された感謝の賛歌の表題はラテン語で、単に Sanctus ではなく、Sanctus-Benedictus と表記されていたのです。これは、確かにミサ曲としてはSanctus なのですが、後半部分は別の曲のように作曲されている、あるいは、一つの曲として演奏しない、ということを表しているわけです。
あるいは Gloria や Credo のようなテキストが長い曲では、演奏も長くなり、聖歌隊の演奏とは別に典礼式文としてこれらの文言を唱えた司祭は、演奏が終わるまで、司祭席に座って待っていなければなりませんでした。
ご自身が音楽にも通じておられたピオ10世は、教会の典礼音楽のこのような現状を憂いていたこと
から、教皇就任わずか4か月後にこの自発教書を発布されて、典礼音楽の本来のあり方を説かれたのです。同時に、この時代にはグレゴリオ聖歌を復興しようとする運動も盛んであり、その意味でもグレゴリオ聖歌を教会音楽の模範と示され、特に、ベネディクト会のソレム修道院の研究と実践を高く評価されて、その尽力を大いに称賛されました。そして、ソレム修道院のグレゴリオ聖歌の歌い方を教会の歌唱法の規準とされ、ピオ10 世はグレゴリオ聖歌の規範版を発行されたのです。
しかし、この自発教書でピオ10世が示唆したことは、おそらくグレゴリオ聖歌が歌われるようになったことを除くと、多くの指摘が教会の中で守られるようにはならなかったように思います。『典礼憲章の解説』を書いたヘルマン・シュミットはその中で次のように述べています。「人間というものは、自分の眼前にある五十年乃至(ないし)百年間守られてきた習慣を、成可く(なるべく)動かさないようにしたいと望むものである。」と。まさに、教会の音楽についてはこの指摘が当てはまるのではないかと思います。この後、ピオ10世の自発教書の指摘が教会の中で見直されるようになるのは、第二バチカン公会議を待たなければなりませんでした。
(典礼音楽研究家)