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そのマリア様が出現した場所は、知っている限り、今言ったルルドとか、あとファティマの聖母とか? どちらも一大巡礼地だよね。巡礼という宗教現象がついて回ることが多いんだね。
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ルルドやファティマのほかにも、マリアにちなむ巡礼地はたくさんあります。今の日本風にいえば、一つひとつがパワースポットと言えるものです。
ですので、それら全体をとらえようとするような、いわば「マリア学」といったものが必要かもしれません。なかなかそんな文献は少ないのですが、英米仏のカトリック大事典類がまずその窓口になると思います。
日本の『新カトリック大事典』(上智大学編、研究社発行、1996~2010)の「マリア」の項目も、聖書と教会の教えに基づいて解説する部分と、マリア崇敬・信心、マリアの出現、マリアの清心、マリアの喜び、マリアの悲しみなど民間に根づいた信心についても解説する部分がバランスよく出てきます。今回のリサーチも基本は、『新カトリック大事典』に依っています。
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広い意味では、受難・十字架上での死から、ルカ福音書や使徒言行録で述べられる主の昇天、聖霊降臨の体験までを含む一連の出来事であり、経験です。それは、キリスト教を成立させた根源的な出来事であり、そこに全人類の救いをもたらす神の計画が決定的に実現されたという意味で「啓示」、とくに「公的啓示」だという言われ方をします。それは、新約聖書が証言する内容として、完了したということも教会の大事な理解です。
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あ、リョウ君は信者じゃないんだけど、最近、マリアの出現っていう現象があると知ってびっくりしたんだってさ。
ただ、ルルドのベルナデッタのときも、最初は、洞窟の中で美しい、若い、白い衣を着た女性が見えたというふうにだけ言っていたのですが、またたくまにそれがマリアの出現だという噂が広がっていったというのです。ようやく何回か出現を受けた最後のほうで「私は無原罪の御宿り」というお告げを聞いた、ということがありました。
ですので、「現れ」が「見える」ことに関しては、その人が洗礼を受けているかどうかは関係ないと思います。ただ、それを「マリア」だと悟り、信じるためには、もちろん信者であるということが土台となっていくでしょう。
エマオへ向かった弟子たちも最初だれかがいるなと思っても、イエスとはわからず、パンを裂いて渡してくれたときにイエスだとわかった。そのとたんにイエスは見えなくなるという話ですよね。イエスだとわかったときに、彼らはキリスト者になったと言えるのではないでしょうか。
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いっぽう、そこに何かメッセージを感じて、それがその人の人生を変えたり、新たに形づくったりしたとき、その出現体験の出来事は、大事に記念されるものとなっていくでしょう。それが個人のことだけでなく、その人のいる共同体、社会にとって大きな意味をもったとき、個人経験だけでなく、一つの宗教史的「事件」となっていくのだと思います。そのためには、また何か別なファクターが働くのでしょう。
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それが「マリアの出現」と認識されて人々の心に伝わり、崇敬が盛んになるためには、人々の側の生活状況・心のあり方が関係しているといえる面があります。ただ、どのように出現するかどうかは、言ってみれば、神の意志しだいというふうに考えるものだと思います。
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呼びかけに応じてというと、シャーマニズムの一種のような現象を想像しているのでしょうか。シャーマンという霊能者が呪術で神霊が呼びして直接交渉したり、あるいは神霊がシャーマンに降臨したり憑依したりするという宗教現象です。日本で巫術と呼ばれ、とくに女性シャーマンの巫女のことはよく知られています。
マリアの出現体験も広い意味では、そのような一種の神霊体験と比べられるところがあるかもしれません。とはいっても、奥深い聖書の伝統と教会の伝統を踏まえているものなので、やはりまったく別な事象と考えるべきでしょう。少なくとも、人間の要求に応じて現れてくれるものでないというのは、たしかだと思います。
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たしかに出現のマリアが言ったことばがきわめて重要なメッセージを含んでいるとして、その重要性の面からも、よけいにその出現の重要性が大きくなるといえます。ルルドの場合は、「罪人の回心のために神に祈りなさい」というメッセージが人々の心に大きく響いていったということがあります。出現のときに何かメッセージがあるか、どんなメッセージかはそれぞれの出現の出来事によって多様だということはいえます。
ところでりさっち、実はリョウ君からだけでなく、ジュン君からも質問が来てるんだー。たとえば、「マリアが出現したとして、そもそも何のために出てきてくれるのか。出現した場所には何か共通の特徴があるのだろうか」だってさ。
ですが、何かの意味をもつ出来事・体験であるというのは大切なので、それは状況しだいですし、その人の魂の状態も関連するということです。出現場所についても一律の法則性は見いだせないと思います。
ただ、リョウ君の第3問でお答えしたとおり、19~20世紀という時代に関しては、やはり一つの傾向は感じられます。宗教性を喪失していきつつある現代人・現代社会に生きる信者やすべての人に回心と信仰を訴えるメッセージです。
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キリスト教的には、それらも神が造られた世界、被造界のものなのですから、一概にそれらを無碍(むげ)に否定することもないです。しっかりその出来事の質、メッセージ性、善をもたらすものであるか否かなど、私的啓示の一つとして吟味検討され、教会指導部による崇敬の許可・不許可ということが出てくるのです。
そのことを踏まえて、マリアはその仕える生き方の完全性において尊敬され、崇敬される存在であり続けるということです。そのことを生涯の始まりに関して言っているのが「マリアの無原罪の御宿り」であり、生涯の終わりに関して言っているのが「聖母の被昇天」と言えると思います。
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(企画・構成:石井祥裕/脚色・イラスト:高原夏希=AMOR編集部)
【参考文献】
ルネ・ローランタン著『ベルナデッタ』ミルサン、五十嵐茂雄共訳(ドン・ボスコ社 1979)
竹下節子『聖母マリア 〈異端〉から〈女王〉へ』(講談社選書メチエ 1998)