石井祥裕
キリスト教にとって「王」という観念がどういう意味をもっているのでしょうか。2019年、こんな問いかけをもって、いつものミサを見てみると、そこで、いつも「王」と叫んで、神をたたえていることに気づきました。栄光の賛歌がそれでした。
「王」が出てくるのは実は一回
「神なる主、天の王、全能の父なる神よ」のところ。そして、「主のみ聖なり、主のみ王なり、主のみいと高し、イエス・キリストよ」の2回。唱え慣れ、歌い慣れてしまっているので、特別に感じていませんでしたが、たしかに「王」と2度呼んでいます。ひとつは父なる神を、ひとつはイエス・キリストを。
ところが、ラテン語の原文を見ると、ちょっと違うことに気づきました。案外と大事なことかもしれないので、今なお文語体で歌われている詞を直訳的にしてみます。あくまで本稿内での試みです。
栄光の賛歌
いと高きところには神に栄光、地には善意の人に平和。
わたしたちはあなたをほめ、あなたをたたえ、あなたをおがみ、あなたをあがめ、
あなたの偉大な栄光のゆえに、あなたに感謝いたします。
神である主よ、天の王、全能の父なる神よ。
御ひとり子である主よ、イエス・キリストよ。
神である主よ、神の小羊、父の御子よ、
世の罪を取り除く方、わたしたちをあわれんでください。
世の罪を取り除く方、わたしたちの願いを聞き入れてください。
父の右に座している方、わたしたちをあわれんでください。
あなたのみ聖、あなたのみ主、あなたのみ至高のお方、
イエス・キリストよ、聖霊とともに、父なる神の栄光のうちに。
アーメン。
(直訳的試訳AMOR版)
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つまり栄光の賛歌で「王」が出てくるのは、前半の父なる神への賛美の句の中だけで(太字下線部)、後半のイエスに対する賛美句にある「主のみ王なり」は、「あなたのみ主」というのが原文です。
ちなみに、原文では「あなた」にあたるところや関係代名詞で区切られているところも、日本語では全部「主」と訳されているので、栄光の賛歌はとても「主」が多くなっています。全部で14回。ですが、原文で「ドミネ」(主よ)が出てくるのは3回。「主です」が1回というのが事実です。
したがって、「王」という語はこの賛歌ではただ1回、父なる神を「天の王」と賛美している箇所に出てくるだけです。
神は「至高の王」
神が地上の王たちに勝る王というだけではなく、「天の王」でもある、つまり唯一至高の王であるとのイメージは、旧約聖書に親しむとおのずと出てきます。新約聖書もそれらを受け継いで、たたえる文言があり、栄光の賛歌の土台となっています。たとえば、1テモテ書6章15~16節。
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「王の王」とはすべてに勝る王、唯一の至高の存在ということのイメージになっています。
黙示録19章6節では、救いの到来への喜びをこめて、こう告げられます。
全能者であり、
わたしたちの神である主が王となられた。
御子キリストもやはり「王」
栄光の賛歌で「王」は一回、父なる神についてだけとはいえ、日本語の詞がキリストについて「主のみ王なり」と意訳したとしても事柄として間違っているわけではありません。
栄光の賛歌は、父と子が等しく神であることを弁明し、主張し、賛歌として高めているという4世紀の関心事がよく出ているものです。父である神に対しても、御子キリストに対しても「神である主よ」と呼んでいるところにそれが明白です(ちなみに、この賛歌の区切り方の理解の変遷については、齋藤さんの「音楽の神髄」シリーズ「ミサ曲 6 栄光の賛歌 Ⅱ」を見てください。とても参考になりますよ)。
その御子キリストについての部分で「王」とたたえていることのヒントとなる句が二つあります。一つは「神の小羊」。黙示録17章14節には、神に逆らう者たちに小羊が打ち勝つと語られている箇所があります。
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先ほどの1テモテ書の引用では、父である神に対して「王の王、主の主」という述語が使われていましたが、ここでは神の小羊キリストに対して同じ述語が使われています。
もう一つは、栄光の賛歌の訳、現行の「主のみいと高し」、上の直訳で「あなたのみ至高のお方」という句で、実質的に「主の主、王の王」と同義でしょう。父である神と同じく、御子キリストも「唯一至高の王」であるという賛美が、この賛歌には貫かれているわけです。
このような賛美は栄光の賛歌だけでなく、ミサ全体にあふれています。
「聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン」(集会祈願の結び)
「全能の、父である神の右の座に着き」(使徒信条)
「天に昇り、父の右の座に着いておられます」(ニケア・コンスタンチノープル信条)
「聖なるかな、聖なるかな、万軍の神なる主。主の栄光は天地に満つ」(感謝の賛歌)
「国と力と栄光は限りなくあなたのもの」(主の祈りに続く副文への応唱)
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このように、父である神と同じく、王であるキリストへの賛美が貫かれています。
「王であるキリスト」とは、年間最後の主日の祭日としての主題ですが、ミサはいつも「王であるキリスト」の賛美だということがわかります。十字架に至って復活した主こそが、わたしたちの王、そういうメッセージをいつも放っているのがキリスト教の礼拝です。
今もいつもリアル、そしていつか完全に
「王」というイメージは、古くさいでしょうか。栄光の賛歌が文語体なので、古い聖書的イメージを引用して、ミサでは歌っているのだな、と思われるでしょうか。そうではなく、ずっと、そして今もいつも、キリスト者が存在しているところのリアルな現実です。キリスト者だけでなく、「人は皆そうなのでは?」という問いかけをもって。世の中に、どれだけどのような支配者、権力者、有力者がいようとも、小羊のように、あの十字架で身をささげた方こそがまことの王、至高の存在なのでは……、そのことを心の底に置いて、生きていくのは意味があるのではないでしょうか、と。それは、はたして、一つの信仰や世界観の押しつけになるのでしょうか。はたまた、キリスト者は、いにしえの神話の世界、幻想の世界を漂っているだけなのでしょうか。ミサの中で、信者たちの口が栄光の賛歌を歌うとき、そんな問いかけが口に、心にいつも刺さっているように思えてなりません。
(典礼神学者)