ミサはなかなか面白い 70 「交わりの儀」という呼び名


「交わりの儀」という呼び名

答五郎 やあ、おめでとう。新年もよろしく!

 

 

 

問次郎・美沙 おめでとうございます。今年もよろしくお願いします!

 

 

答五郎 さて、去年を振り返ると、3月の48回目で奉献文の冒頭の対話句を見始めてから、ずっと奉献文を旅していたようだよ。予告どおり、今回から式次第の次に入っていこう。「交わりの儀」と呼ばれているところだね。

 

 

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問次郎 主の祈りからのところですね。「……主の祈りを唱えましょう」といって、皆が主の祈りを唱えたり歌ったりしますよね。奉献文の間、沈黙が多かった信者さん方の声が印象深いです。
主の祈りの「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」という部分から、聖体拝領に向かっていくというふうに理解しています。

 

女の子_うきわ

美沙 でも、「聖体拝領の儀」といわれず、「交わりの儀」といわれているのですよね。しかも、儀というと別な部分のように感じましたが、奉献文の結びの栄唱のあとすぐに続くのですよ。

 

答五郎 二人とも、鋭く見ているね。たしかに「交わりの儀」というと、独立して開式や閉式を伴っている一つのまとまった部分のように感じるけれども、実際には感謝の典礼全体の第3節といった程度で、「感謝の典礼」全体としては一つの大きな流れがあるのだよ。

 

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問次郎 「交わり」という語が、わかりやすいようで、どこかしっくり来ない感じがしたことがありますが……、原語は何でしょうか。

 

 

答五郎 ラテン語でコムニオという。共有、参加、分担などを意味する名詞だよ。実は、これは、英語、フランス語でも communion、ドイツ語でもラテン語外来語的に Kommunion というぐらい典礼用語となっている。

 

 

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問次郎 第2バチカン公会議による典礼刷新で、その呼び方になったのですか。

 

 

答五郎 実は、最初からずっとそうだったのだよ。日本語訳では、これを事柄を見て「聖体拝領」と訳す慣例が生まれたようなのだ。たしかに、聖体拝領が一つの特色あるポイントなのだけれど、コムニオという言葉が使われている意味ももっと考えようという意向で「交わり」と訳すようになったらしい。

 

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問次郎 では、「交わり」と訳したことの意義を理解しなくてはなりませんね。

 

 

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答五郎 感謝の典礼が三つの部分からなっているとして、最初は「供えものの準備」、中心が「奉献文」、そして「交わりの儀」と続いていくよね。この流れのもとには何があるのだったかな。

 

 

女の子_うきわ

美沙 はい、イエスの晩餐の姿の光景が含まれていると思います。それから初期の文献からわかるのは、最初に、パンとぶどう酒を司式者のところに持ってくること、次に司式者がそれらの上に感謝の祈りを唱えること、そして、そのパンとぶどう酒を皆に配るという、祭儀の流れです。

 

答五郎 そうだったね。ミサの原体験というか原風景には、結局、準備された食べ物・飲み物を神への祈りをささげながら分け合う、共有するという、神賛美の食事の姿が見えてくるだろう。

 

 

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問次郎 しかも、その食べ物・飲み物は、パンとかぶどう酒とかいうのではなく、キリストのからだ、キリストの血というものになるのですよね。

 

 

女の子_うきわ

美沙 コムニオの意味も、食べ物・飲み物の共有以上に、キリストの共有、キリストへの参加という意味になるのですね。

 

 

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問次郎 それは確かにすごいことですね。

 

 

答五郎 キリストの体と血の意味、つまり聖体の意味について使徒パウロが語っている言葉が参考になる。一コリント書10章16-17節だ。問次郎君、読んでもらおうか。

 

 

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問次郎 はい。「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」

 

答五郎 どうかな。賛美の杯、裂くパンは今でいう聖体(キリストの御からだと御血)を指しているといえるし、しかもここで「あずかること」と訳されている原語(ギリシア語)はコイノーニアといって、それはラテン語のコムニオと同じなのだよ。つまりこのパウロのことばは、「交わりの儀」の部分の説明でもあり、その名前の由来を語っているともいえる大切な箇所だよ。

 

女の子_うきわ

美沙 聖体を受けることは、キリストのコムニオ、つまりキリストにあずかり、キリストに一致することなのですね。そして、そのことによって皆も一致するということなのですね。

 

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問次郎 一致がテーマなのですね。ならここは「一致の儀」と呼んでもいいのではないですか。

 

 

答五郎 まさにそう! それも一つの訳語として提案されたことがあるらしい。でも、漢字二文字だとやや抽象語的になるから、「交わりの儀」「交わり」が優先されたのかもしれない。いずれにしても、語義・語源だけでなく、聖書的な意味ということを考えて訳す必要も、解釈する必要もあるといえるだろうね。

 

女の子_うきわ

美沙 訳には苦労はつきものなのでしょうから、幅広く受けとめたらいいのよ。

 

 

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問次郎 わかった。今のパウロの言葉から教わるのは、聖体がキリストと皆(信者たち)との一致や交わりだけでなく、聖体によって、つまりキリストによって、皆(信者たち)が互いに一致するということかと思います。

 

答五郎 そう。そこなのだよ! 聖体拝領という理解だと、自分が受ける、受領するという面しか見えてこない場合があるだろう。この聖なるものをいただけるのかどうなのか、いただくためには清められていないといけないとか……と、個人の条件のようなものばかりが気になってくるものだよ。何か足りなくないか?

 

女の子_うきわ

美沙 「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です」という点ですね。

 

 

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問次郎 いわゆる共同体ということですね。

 

 

答五郎 共同体という日本語もよく言ったもので、まさしく信者は「キリストの共同体」、キリストを共有する体、キリストと共同の体というべきもの。英語でもコミュニティとコミュニオンは関連しているだろう。共同体という観点は、ミサのこの部分では欠かせないもので、そのことを考えなければ……という意識から「交わりの儀」というようになったのだよ。

 

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問次郎 キリストの聖体によって、キリスト者の共同体が生まれる部分が「交わりの儀」なのですね。

 

 

答五郎 そう。なかなかクールな表現をしてくれたね。その観点で見ていくと、主の祈りに始まる全体の流れの意図がとてもはっきり見えてくるよ。次からそれを確認していこう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


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