森 裕行(縄文小説家)
私の記憶は足の記憶から始まった。2歳になるかならないころ、日光東照宮の入り口付近の砂利道を歩いた足の裏の感触であった。その後怖い山門の仁王像におびえて泣いて、母に抱きかかえられた記憶も。足の裏の砂利の違和感が人生の記憶のスタートだった。
ホモサピエンスの歴史は20万年と言われるが、足が種の存続に大きな働きをしたことは間違いないようだ。二足歩行、長時間の狩猟活動、そして仲間とのコミュニケーション(会いにいくにも足が必要)……。
しかし、足は現代では余り語られることはない。下半身であり汚れた地面と接する部位ということもあろう。健康面で大切ではあるが、足が大きく取り上げられ話題になることは少ない。そんな足に光を当てたのはキリスト教の洗足式である。キリストが受難の前日に弟子の足を洗い清めたことに由来するもので、今でも復活祭の前の聖木曜日に記念される。もちろん、日本列島では神道も仏教も穢れと禊の文化が同じようにあるので、穢れを水で清める歴史はとてつもなく古いかもしれない。
洗い清める水は世界的には四大元素や五行に必ず含まれ、哲学的にも深く思索されてきた。縄文時代の水においても、清めという切り口から以前「縄文時代と聖水」を論じてきたが、有孔鍔付き土器や注口土器などは、聖なる水に関わりがある道具ではなかったかと私は推定している。
身体の一部を洗い清めるのは象徴的な行為であり、手であっても、頭であっても、足でも同じ意味合いを持つ。さらに、身体の穢れよりも心の穢れに比重があり、世俗にまみれた私たちを解き放つ、神仏の《ゆるし》の思想が背後にあるのだろう。
そして、心の穢れの最たる感情は《後ろめたさ》だ。罪悪感は法律や倫理道徳につながるGuiltの訳で、日本人にとって少しニュアンスが違う言葉だが、ここでは《後ろめたさ》を罪悪感と呼ぶことにする。さて、この罪悪感はエリクソンの人格形成論では5歳から7歳の意志力の時代に発現するとされる。身体もある程度成長し自発性を持って行動が可能になる時期なのだろう。自発性は分別を必要とする。それは子供なので親や社会からの借り物かもしれない、しかし、試行錯誤と共に周りから鍛えられていく。時に罪悪感が内から突然湧きおこりハッとさせられることがある。感情は倫理道徳と別次元であり、何か真実への道を囁いているのかもしれない。
私もいろいろな罪悪感を5〜7歳ごろ経験したが。その中の一つにこんな罪悪感があった。
ドクダミだらけの裏庭でよく一人で遊んだ。今と違い、都内でも様々な生き物が蠢いていた。蛙やトカゲもいたが、ダンゴムシや何種類ものアリ。ある日一人でアリの行列を眺め、大きなアリを捕まえ何気なく殺してしまった。その時、アリがこちらを睨んだように感じ、とんでもないことをしてしまったという感情が湧き出した。
そんな時期には、ゆるされる経験もする。厳しく叱られることもなく、無償の愛というのであろうか。そして、それは人生を左右する愛の原型となり、本当の自発性への原動力になるのだと思う。しかし、本物になるには少年期を過ぎ青春期、時には成人期に格闘しなければならないのだろう。ただ、現実は厳しく社会は待ってくれない。社会の要請から成人儀礼が入念に行われ、成人として認められる社会も多い。
さて、先日(2025年3月6日)。中央高速パーキングエリアの釈迦堂遺跡博物館の企画展「JomonCollection -韮崎市-」を訪れた。初めて坂井遺跡の背面人体文土偶を拝観できた。実物を見て驚いたのは、少し前に大原美術館(倉敷)でギュスターヴ・モロー(1826-1898)の「雅歌」1893を見たばかりだったこともあるのだろう、その青年女子を丹念に造形されたと思える、肉感的ともいえる美しさには驚嘆した。約4800年前の土偶なのだ。
均整のとれた土偶で、高さは16㎝(頭部なし)。志村滝蔵氏が1927~1929年ごろに韮崎市坂井で発掘され、「坂井」(1965)や「韮崎市誌」(1978)に詳しい。坂井は東を黒沢川/塩川、西を釜無川にはさまれた場所で、本業の農業に従事しながら、発掘活動に全力を尽くされた志村滝蔵氏と、その活動を温かく支援された鳥居龍蔵氏に、心より敬意を表します。なお、背面人体文土偶の名付け親である安孫子昭二氏は、大学一年の時に志村滝蔵氏と直接お会いされたとのこと。坂井土偶を典型とした背面人体文土偶の解説は「縄文中期集落の景観」(安孫子昭二著 2011 アム・プロモーション)に詳しい。
さて、この背面人体文土偶は、約4800年前の縄文中期後葉に中部高地や関東南西部で盛んに使われたものである。この土偶がどのように使用されたのかについては、前回縄文人の忠誠心で触れた通り、青年女子の成人儀礼に用いられていたと推測している。
この土偶には、青年期の女性ではと思える肉感的な造形だけではない特徴がある。鋭く直線で描かれた正中線と乳房、さらに乳房に相当するくらい大きな出臍。女性は妊娠し出産間際になると出臍になることが多いと聞いたことがある。正中線は妊娠線と重なり、これらが土偶に描かれているのは、将来の幸福な結婚・妊娠・出産を願っての像だと想像できる。そして、成人儀礼の時の衣装(入墨やボディーペインティング含む)とも関係があるのではとも思う。
成人儀礼は当時のことを考えると実にめでたい儀礼だったのではないか。当時は乳幼児期の死亡率が高く、15歳まで生き残る子供は半分くらいとも言われ、人々にとっては大変喜ばしく、将来への期待も込められた儀礼だったと容易に想像できる。
また、背面人体文であるが、これは安孫子昭二氏や武藤雄六氏が指摘したように本人以外の人形(ひとがた)ではないかと思われ、一つの解釈として、四国巡礼における二人同行やキリスト教における聖霊のように、霊的な助けを与える象徴とも考えられ、大変興味深い。
それでは、どのような儀礼であったのか。これから先は私の想像にすぎないとお叱りを受けるかもしれないが、書き進めてみよう。
宗教学のミルチャ・エリアーデは、狩猟・採取社会から定住化するときに、食料に関係する植物に神秘的までの連帯感を持つようになるとしている。地母神信仰も重なるかもしれない。日本のイザナミ、ヨーロッパのデメーテル(ギリシャ)やブリギット(ケルト)などが代表的である。また食べ物に関してはオオゲツヒメ、ディオニソスなど自らの命を投げ捨てて、恵みをもたらす神の信仰があり、新石器時代を経た現代の文明や文化にもその影響を色濃く残しているのではないだろうか。どの伝統宗教にも贖罪の思想はあり、キリスト教では十字架の贖罪とゆるしがあるが、縄文時代にも同じような禊ぎの思想があった可能性もあると思う。
最後に、どのような場所で儀礼や準備が行われたかだが、神聖な湧水や川で禊ぎができる場所とも関係があったのではなかろうか。
冬が過ぎて春が訪れる。まだ冷たい神聖な川で禊を済ませた成人候補者たちは、聖所である竪穴住居に戻る。入口では、年老いた女性神官が彼らを温かく迎え、一人一人の足を洗い、麻布で丁寧に拭いてくれる。
*因みに縄文人は素足での生活が多かったと思われるが、深靴やサンダル状の履物の存在を仄めかす土製品や土偶もあり当時の履物事情を垣間見せてくれる。