マザー・テレサにあずかるご復活とは


末森英機(ミュージシャン)

その昔、カルカッタ。今はコルカタ。中心街にほど近い、ボウズロードという、比較的、イスラム教の人々が多い、そのメインストリート沿いに、マザー・テレサの本部がある。その一階に、マザーの棺が納められる部屋。質素(じみ)で、まったく飾り気のない安置所が設けられている。履き物をぬいで、はだしになり、その敷居をまたぐと、毎回、込み上げてくるのは、いったい、なんだろう。悲しみではない。苦しみではない。喜びとも違う。つつましいものに、ならざるをえない、という涙に似たもの。あるいは、魂のゆくえが、知らせてくれる言葉にならない、祈りのようなもの。それとも、迷いの眠りから、はっと目覚める、ひとが神の御計らいと呼ぶようなもの。いただける復活。たしか神は、善悪を復活の日に与えると、約束されていたけれど。

毎朝、夜明け前の祈りの時間を過ごす。たくさんの、さまざまな国から見えた、ボランティアに参加する老若男女。祈りの場の1階にある、マザーのお墓に、一歩足を踏み入れるたび、胸に込み上げてくる。のどをつまらせる。もうとっくにマザーは亡くなられているのに、こんなにもたくさんの人々が、あとを絶たない。神の心にかなう心と、かなわぬ心というものが、あるだろうか? 神のことで、苦しみを覚えた瞬間、たったひとつの小さな埃でさえ、神の蒔く砂糖の粒をえられるものなのか? マザーはその答えとなった。いただける復活を生きる、生きなさいとほほえんでいらっしゃる。

なにが、人を幸せにしたいと思っているのか? それを知ることができるのか、復活を生きれば、生まれ変わるというのが、この岐路にあるということに気づかされるのだ。当時、マザーがカーリーテンプルを巡るスラムに漂いでたときに、飢え渇く者たちを、満たそうとすることは、正気の沙汰ではなかった。復活というステージを与えられたとき、彼女は思った。本当に憎まなければならないものが、何かを知ることで、罪人(つみびと)を罰しないというキリストの声を自分のものにできると。それが、復活を呼び寄せると。神はみずからを贈ると。だから、わたしたちは、光でできていると。

花びらで「JESUS I TRUST IN YOU」と書かれたマザー・テレサの墓。毎朝シスターによって書かれ、その日ごとに言葉が変わる(写真提供:町田雅昭)

わたしたちは、少しの混乱と、無とその闇を破ることのできない、あいまいなまなざしをいつも捨てることができないでいる。いただく復活。否、それが共通の人間性を持たせているということもできる。だから、宗教が生まれ、祈りをもらい、疑わしい選びに振り回され、衝突と沈黙を常とする。人に刻印される裏(面)と表(面)、それすらも申し分のない奇跡ではないか。いかしいただける復活。信じられるものすべては、存在する。数え挙げることもできないほどの。あずかる復活。

与え、そして激しく奪う、人は肉体を脱ぎ捨て、灰に変わる。肉体は死そのもの。神のみ言葉はいつも、時と場所にふさわしく、神に奪ってきてもらうもの。力ずくで奪ってきてもらうもの。マザーはそのとき、深くこうべを垂れる。とげを抜くために、使ったとげを捨てるような神のため。それは、マザーのほほえみのように、神がまるで、風のなかを行き来するように。主のみ名がとなえられる。それはいただける復活。心がやさしく、やわらぐことができないのなら、その人の心は石。

かつて生まれてきた、また、今生まれつつあり、やがて生まれてくる、普通の人にとっては、神のなされようは、とても解釈のおよばぬものとなり。けれど、このマザー・テレサの前で、こみあげてきて、喉をつまらせるもの。復活にあずかる。人の望むすべてが、得られる場所。

 


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