古谷章・古谷雅子
5月29日(月) テラリージョス・デ・ロス・テンプラリオス~エル・ブルゴ・ラ・ネーロ(1)
歩行距離:31.7km
行動時間:8時間40分
今日の行程は24kmでもよいのだが、休養十分なので調子がよければもう8kmを歩けるかもしれないと5時50分薄暗い中を発つ。アルベルゲには早発ち用無人出口が必ずあるので前夜に確認しておくことが肝要だ。大部分が標高850mあたりの平らな麦畑の中なので日差しが強い。早く出るのが賢明だ。もっともこの日は結果として雨模様で涼しかったが。30分ほど行くと道の片側がポプラの並木で守られる。小さな集落をいくつか通ってまずは巡礼路の宿駅として中世に発展したサアグンを目指した。
途中のモラティノスあたりにはこじんまりした横穴貯蔵庫が丘の斜面いくつも作られている。この辺りは石材に乏しく煉瓦建築が多い。村の広場の木には色とりどりの毛糸で編んだ腹巻みたいなものが巻かれていた。日本でマツケムシ駆除のために巻くコモのようなものかとも思ったが、季節はずれだ。アートかもしれないが不明だ。次のサン・ニコラス・デル・レアル・カミーノは比較的大きな村で、古い煉瓦の教会の前に早朝からやっているバルがあった。2つの鐘がある鐘楼を見ながら定番の朝食。
8時10分、パレンシア県からいよいよレオン県に入った。このあたりから、国道とは別に「autovia el camino」と表示されているローカルな自動車道路が巡礼路と並んでいる。県境から小1時間で小川に沿って行くと小さなローマ橋の向こうのひらけた草地に「橋の聖母礼拝堂 Ermita de Vergen del Puente」があった。ロマネスク・ムデハル様式、12世紀に煉瓦で建てられ救護院を兼ねていたそうだ。この形式は徒歩で1時間ほど先のサアグンの文化圏であることを示している。入り口は閉ざされているが、南側に後世に建てられた立派な門柱がある。一つは聖人、もう一つは武人が彫られていた。
雰囲気がよいので一服していると雨が降ってきた。雨衣やザックカバーの出番がようやく回ってきた。この後は小雨が降ったり止んだりだが、清々しく快適だった。40分ほどでサアグン到着。
サアグンは11世紀末にクリュニー派がカスティージャの重要拠点としたので巡礼路都市として急成長した。○○派といっても私たちには知識がないが、(長い引用になるが)饗庭孝男著『日本の隠遁者たち』(ちくま新書、2000年)には次のような分かりやすい記述がある。
「十世紀に修道院として組織的にはじまったものにブルゴーニュ地方、クリュニーから出たクリュニー修道会がある。ピラミッド形態で、教皇にのみ属し、地方の貴族領主の支配をうけず、他方で多くの土地の寄進によって成長していったが、特徴として典礼、儀式が煩雑で、「代祷」(貴族や金持ちの依頼)が多かった。しかしこの修道会によってキリスト教が日常の水準で洗礼と終油をほどこし、教会記録や文書をつくり戸籍をととのえ、かつサンチアゴ・デ・コンポステーラまでの大巡礼を組織した。その附帯条件としては当時、西欧にはいっていたイスラム勢力と対峙することであった。
もう一つ十一世紀末に、そのような儀式や寄進によってうるおったクリュニー修道院を批判しながらあらわれた修道会にシトー派がある。当然彼らは典礼を簡素化し、奴隷付きの土地寄進は受けず、自給自足のため、植林、牧畜、養魚、鉱山その他の産業にたずさわり、労働と信仰を中心にしたストイックな道を歩もうとした・・・(中略)・・・森の中、泉のほとり、山の頂き、谷の奥、川のそばなどに建物をつくった。人里から遠く離れた隠修にふさわしい隠修修道院となったのである。
この二つの隠修修道院は十世紀から十二世紀において大きな成長をとげる。しかし進んで大衆の中に入らず・・・(中略)・・・啓蒙的なことはしなかった。それはむしろあとにくる十三世紀の托鉢修道会である聖フランチェスコ修道会や聖ドミニコ修道会が行うことになる。この二つの会はともに反キリスト者の多い都市にその力をもった。・・・(中略)・・・都市の力が増大した時代であり、人口もふえ、商人を中心とする力が支配的になりつつあったからである。」
この説明に呼応するような変遷が形に残っているのがサアグンの町ともいえる。寂れたとはいえ、いくつもの時代を跨ぐ様々な遺跡が次々と目に入り、小1時間を街歩きに費やした。煉瓦造りのサン・ディルソ教会とサン・ロレンソ教会が残っているが、前者はロマネスク期の四角い塔が印象的だ。修道院は隠修的ではなく高い塀はない。サン・ベニート門をくぐりセア川に架かる11世紀に再建された石造りのローマ橋を渡って町を出てさらに進む。町はずれまで見事なポプラ科の大木の並木があり綿毛が飛んでいた。水豊かな川・緑豊かな木々の中の寂寥感漂う遺跡の町が、うまく観光資源を生かして活気を取り戻すことができるだろうか。