末森英機(ミュージシャン)
イエズスは思い出のガリラヤで僕を待っておられる。イエズスはイエズスの僕の思うところにあられる。めぐみにつぐめぐみを受けて、僕はまたひとつぶの、よろこびのしずくの種に呼ばれるだろう。立ち止まることなしに、ティベリアス湖畔への道にイエズスを追い求めつづければ、先に立って、そこに行き、イエズスを見ることになる。ふれること、目で見たこと、手でふれた傷、いのちのもことばについて。せいれいは、みことばを運ぶゲネサレのみなもをわたる、いぶきの風。参与とめぐみ。ガリラヤの空気のなかで、み旨を受けがい、そのイニシアチブにうやうやしく服する僕。連れてゆけ、つれてゆけ。「主よ、わたしはガリラヤへ帰りたい」「もう一度あなたにお目にかかれるでしょうか」「ほんとうに、どこへ行っても、いっしょに歩める幸せを感じるから。こころの目で見るようです」と。イエズスは息吹で話され、そして呼吸で語られるから、そのまなざしは耳に聞こえるようです。僕は信じている。しかし、信じるとは、どういうものか、僕は知らないから。僕はなにを信じているのか知らない。誰のしたことも過ちだったということに、少しも気づかない二千年。異邦人から、始めのない時間から始まり「先にガリラヤへ行っているから」(マルコ16:7)。僕よ僕、したがうこととマネすることは別である。