宮下望(日本福音ルーテル教会信徒)
私は神の愛を感じることが少ない。
神は与えるだけでなく取り去られるし、恐怖や愛の渇いたところに私を置いておくこともされる。私はそのようなことを、愛が注がれるための準備をしてくださる祝福だと考えるが、憤怒や激しい痛みによってむなしくされた意味と同じく、神の愛であるとはどうしても感じられない。
もっとも、神を愛することはする。しかし、人格を育ててくれた、自由をくれた、病気を癒やしてくれたなどの経験と感謝とがないと、神を愛したり、神に仕えたいという気持ちが起きたりはしないだろう。
以前は、ある意味では今よりも強いけれども、感情を蹂躙するような粗野な信仰を持っていたもので、神の愛ももっと身近に感じられた。葛藤を抱え、教会を引っ張っていきたい気持ちがあり、同胞との隣人愛を実践し、自分の信仰がどこまで通用するか試したい気持ちもあり、要するに教会に意志を持って参加していた。
今では教会に失望する出来事が続き、教会を牽引したいというような意志は退いてしまった。啓蒙されるよりも語ったり沈黙したりすることが増え、年季の入った悩みも殆ど解決され、葛藤も少なくなった。信者同士では言わないでも分かることが多く会話が少なくなってしまう。十分愛し合えておらず、理解し合えていないというのに。
私が自分の罪だと思っていることがいくつかある。天国の門がいつも近くにあるほど死に迷いがないわけではないこと。弁明や説明が退いているほど歳も重ねておらず、謙遜ではないこと。そうした謙遜の成り立ちを、無関心や虚無主義の文脈でしか想像できないこと。警戒心に先入観が支配されていることが多く、恥ずかしがりで控えめなことも相まって心を開いたり話しかけたりすることがなかなかできないこと。悪徳を避け続け、実存的理解を避け正面から克服してこなかったので、悪徳を避け続ける意志を持てる人にしか、罪から逃れるための手を差し伸べられないこと。キリストの再臨や癒やしの力を実感できず、しばしば病気や障害に絶望し、様々の権威に迷っていくような藁をもすがる気持ちになること。
相手に心を開いてもらうには、他者への先入観よりも先に信用してほしいという切実さをもつことが有効らしい。信用されたい、と思い、特にそれをホームレスの貧しい人などに向けると、どこにも力の入らない祈りができる。心を開き、また祈りに応じて明るい先入観というか、なんと声をかけていいか神からの啓示があることもある。信用され
られたい、と思うと、特にそれをホームレスの貧しい人などに向けると、どこにも力の入らない祈りができる。心を開き、また祈りに応じて明るい先入観というか、なんと声をかけていいか神からの啓示があることもある。信用されられられたいと目の前の人に思うと、霊感が強ければ、その人が祈っている気持ちを感じ取れるかもしれない。人以外の動物の信心も、その祈りの気持ちで推し量ることができる。
このホームレスの人みたいになるくらいなら死にたいと思った」みたいな悪意ある捉え方をされる可能性もなくはないと思います。
ガールフレンドと付き合いだして一週間目のこと。彼女の背中を見つめていると、愛以上の感情を抱くという神秘的な体験をした。もう再現はできないが、少なくともそれは色恋の延長の感情ではなかった。この世には愛以上の感情があることが分かった。
私の憧れは、遠方の忙しくて遊んでくれない妹と遊ぶこと、彼女と結婚すること、未信者の彼女に、神に仕えたいという修道女のような志を持ってもらい意気投合すること、愛と謙遜を身につけて霊的な完成を目指すこと、アヴィラの聖テレジアのように念祷の果てにキリストの再臨を経験することなどだ。
理想がたくさんあり、理解してもらいたい、寂しいという気持ちも強い。この調子だと、謙遜は遠いかもしれない。
陶酔の方は、聖霊の働きのうちではあるけれども、神以外では書物や音楽が主である。音楽はとにかく陶酔を共有されづらく、落胆することも多い。夢中であることは、なぜこうも共有されづらいのだろうか。神の話は切り出すのが難しいことも多く、道徳や読書の話など周縁から話すことが多い。ところで陶酔は、創作活動によって克服される。
●虚無主義の克服
つまらない、やっても無駄だと思われるなど、学生時代勉強に取り組んでいたときによく感じていた感情である。私
の考えによれば、これを克服する方法は知識の先にある複雑な意味を認めることである。
●虚栄心の克服
虚栄心を避け続けるのでなければ、謙遜を身につけるしかない。いったいどれだけかかるのか、先が思いやられる。きっと十分消化できていないことはたくさんあるので、今後それらをテーマにしたさまざまな記事が書けると思う。
●最低限の傲慢、自尊心の克服
果たして自力で食事したいとか排泄したいとか、そうした誇りや恥じらいを持たなくなることが必要かどうかは考えものである。恥は誇りの裏返しであり、隠れた誇りであることがある。最低限の傲慢を失うと、他者への正常な気配りができなくなるのではないかという懸念を、ついこの間までは持っていた。しかし今では、最低限の傲慢がなくても気配りは可能なのではないかと考えるようになった。誇りは神への反抗である。まだ自分はやれるようになるというリハビリのような希望は、しばしば隠れた誇りであり、低くされた恥にも同じようなところがあるのではないか。高いものへの密かな羨みや、低すぎることへの恥じらいや当惑など。神に委ねる信仰は、虚栄心の残した上下関係意識を取り去るはずである。
初回の記事にはとにかく自分がこれまで考えてきたことをできるだけ書いた。次回以降は現在自分が啓蒙されている最中の書物について、ChatGPTの良書作成と古い外国語の翻訳について、陶酔なしに虚無主義に呑まれずに、この世のものを愛せるかどうかについてなどを話そうと思う。いつか不信と背信と迷信を批判したり、克服の糸口を探したりする記事が書けたらと思う。

