『おばかさん』


『おばかさん』
遠藤周作著、 KADOKAWA、1959年、800円+税、本文314頁、

 

あき(横浜教区)

 

なぜ『おばかさん』のガストン

 

来年月で70歳を迎える私です。

最近むかし読んだ本を読み返したくなり、高校時代よく読んだ遠藤周作の本を文庫本で探しました。 なかでもわたしが一番好きだったのが『おばかさん』(1959

遠藤周作といえば、たくさんの名著があります。わたしも高校時代にいろいろ読みあさりました。

皆さんも『イエスの生涯』『キリストの誕生』『沈黙』や『死海のほとり』『深い河』という本を読んだことがあると思います。 それらの本は、わたしにキリスト信者になるきっかけを与えてくれました。

ただ個人的には名著にかくれた『おばかさん』を外すことができません。

ガストン・ボナパルトと名乗る馬づらのナポレオンの子孫という男がベトナム号という船の船底の油臭い荷物に挟まった蚕だなから「ふぁ~い」と現れます。

物語はナポレオンと名付けられた野良犬と一緒に進んでいくのですが、間の抜けたガストンは世の中の歯牙に挟まったカスのような人たちの間を、ただできる限りの誠実さをもって一緒に生活していくのです。

高校時代、わたしにはこのガストンのやさしさが忘れられませんでした。

今回このエッセイを書くためにちょっと調べてみたところ1953年に最初の著作を書いた遠藤が、『おばかさん』は1959年に発表したものでした。

その後1973年『イエスの生涯』、1978年『キリストの誕生』、1993年『深い河』と続いていきますが、わたしには、『おばかさん』が遠藤周作の神への思いを投影したものに思いました。

今回『おばかさん』『イエスの生涯」『キリストの誕生』『深い河』と順をおって読んでいくと、彼のキリスト教に思う気持ちが著書につながっているのを感じました。

わたしは個人的に、『イエスの生涯』を読みながら、パウロを起点とした宗教として確立したキリスト教ではなく、「イエス様はなにを伝えたかったのか」に思いを馳せます。

イエスの人生に何があって何を伝えたかったのか。 イエスの死後、使徒に連なったパウロの生き方ではなく、イエスの死にかかわった人たちと、そこにあった人たちのイエスへの思いが私にはすごく大切に思えました。

わたしの洗礼名は「使徒ペトロ」です。

優柔不断でイエスの処刑に当たっては「わたしは関係ありません」と逃げをうったペトロ。 しかしそんなペトロは、イエスを忘れることができずイエスを伝道しローマで殉教します。イエスはペトロのこころに消えることのない何かを刻んだのです。

その人間臭いペトロに我を投影しました。

ただひたすらに愛を伝えたイエス様の姿。 「愛」それは人間界にいる私たちにとっては神の領域。 愛は弱くてか細いものです。 欲や煩悩に溺れる人間の中では消えてしまうような存在。 しかし、わたしは人間の弱さ・醜さを持ったひとりの人間ですが、そんな神の領域に少しでも近づきたいと願いました。

受洗前、神父さまに「あなたはなぜ信仰を望むのですか」と問われ「優しい人間になりたいと思いました。」と答えたのを覚えています。

神父さまに正直に自分の思いを表現して生きていきたいとお話ししました。

 

 なぜ『おばかさん』に惹かれるのか。

それはある意味わたしの理想がそこにあるからです。

絶対まねのできない領域を生きているガストン。

そんなガストンに心を打たれました。

 

なぜ『深い河』の大津

『深い河』という本では、神父になり切れない大津という神学生がでてきます。

彼はよれよれの服を着て世の中のエリートの歩みとは異なる人生を送ります。

生まれながらの信徒で、美津子という奔放な女性にからかわれ「わたしを選ぶなら、神をすてなさい」と難題をぶつけられますが、大津は「わたしがイエス様を捨てたとしても、イエス様は絶対に私を捨てないのです」と信仰の道を歩みます。

大津のこころは日本的な汎神の世界をどうしても拭えないため、ヨーロッパの絶対の神「唯一神」になじむことができません。「神にはいくつもの顔が存在し、それぞれの宗教に隠れているのです」という大津に異端と感じた上司の聖職者は大津に資格を与えませんでした。

そんな大津の世界は、遠藤周作の思いを投影したものだと感じました。

西洋から与えられた神さまではなく、自分の身の丈にあった日本人としての神さま。像。

それは井上洋治神父さまとも通じた思いなのだと思います。

 

わたしにも同じ思いがずっとありました。

わたしは日本の汎神論的な「八百万の神の世界」に育ってきました。

子供のころは、「太陽がすべての生命をはぐくむ力である」と理解していました。

キリスト教を信仰するにあたり、唯一の神である三位一体の神は具体的にどこに存在するのだろうかと思いました。

わたしは理科系に進みましたが、理屈で理解することが難しい命題を自分に投げかけました。

70歳になった今。 もしかしたら、皆さんからは「異端」と呼ばれるかもしれませんが、自分の中では自分なりの答えができています。 ()

以下はわたしの個人的な理解です。

人間は必ず死に至ります。 生物である以上、この境遇は変えることはできません。

物質は細かく分解し、元素にとどまるものもあれば、素粒子にいたるものもあるでしょう。 

この宇宙に存在しているものは、すべて神さまの作られた世界の中で存在していると理解しました。

神さまの御心の中で、神さまの作られた世界の中で、その働きの中で存在している。

したがって、肉体は死んで分解し神さまの世界に戻るのです。

「神のもとに帰る」は具体的な事実として理解しました。

ただわたしは、それだけではないと感じています。

大津が「わたしの中に居られる神さまは、わたしを見放すことはない」と言ったように人の中に神さまが居られます。

イエス様はすべての人の中に生き続けています。 人を見放すことはありません。

わたしは、私の肉体は神の世界に帰りますが、人のこころの中に生き続けている」と思っています。

 

そんな人の心の中にはイエス様の存在を見えなくするような、欲望や無謀な自尊心なども現れてくるでしょう。 ですから、こころの中のイエス様を思い起こし優しい人間になることが、全人類にとって必要なのです。

人間は完全ではありません。 そんな人間の中にイエス様が居られることを意識して生きていくことが必要なのだと感じています。

 

いろいろな宗教の中に神さまの存在の一端が隠れています。

汎神の日本に生まれたわたしはキリスト信者として、そんな神さまを信じ、わたしの中の神さまに倣うよう生きていきたいと思っています。

 

高校時代に読みあさった遠藤周作の本。

70歳になり人間を終える時に近づいた今。

改めて読んでみると当時とは違った感慨がありました。

 

いま「深い河」を読んでいて驚いたことがありました。

文中に病院で死にゆく人の話をそばで聞き、精一杯看護している馬づらのガストンがでてきました。

大丈夫ですよ。 わたしはあなたのそばにいます。」といっているように。


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