森裕行(縄文小説家)
2025年11月9日。私は若狭・三方五湖の一つ水月湖の湖畔に佇む宿で眼を覚ました。窓を開けると本降りの雨であったが、雨粒の音が逆に心の静けさをつのらせ、日々拍車がかかってきた浮世の憂さを忘れさせてくれた。水月湖はその湖底に7万年分の年縞を静かに堆積させた奇跡的な湖であり、全長約45メートルにおよぶ年縞コアは、世界的にも類例のない微細な環境研究の宝庫として国際的な注目を集めている。1万年以上続いた縄文時代。その記憶の一つとして、巨大火山の噴火(鬼界カルデラ)の火山灰も残している。破局的噴火からの縄文人のレジリエンス(回復力)、私たちに命をつないでくれた縄文人の核心は何だったのだろう。学生時代から愛読してきた梅原猛氏に因んだ若狭の旅は、鳥浜貝塚を中心に訪問するのだが、縄文人の魂を想う旅でもあった。
さて、「あの世」のムラ小田野遺跡について前編からの話を続けよう。小田野遺跡は縄文中期後半以降から始まる冷涼化の影響で、中部高地や関東南部の環境と人の営みが大きな変化を遂げる、縄文中期後半から後期前半にかけて継続した稀な遺跡であり、第1次から第5次までの発掘調査が行われている。
遺跡の一部しか発掘されていないが、和田哲氏によれば第3~5次調査で確認できる土壙墓は187を数え、未発掘も含めればその倍近くとのこと。地図で見ると、遺跡は豊かな漁場でもあっただろう北浅川の右岸に、冬至の日の入線に沿うように位置する。冬至の太陽が沈む位置には視界には現れないが富士山が背後に構え、噴煙や大気中の微粒子の影響によって、夕日は現在以上に赤く輝いて見えた可能性もある。規模から考えると「あの世」のムラの住人はこの付近だけでなく広域に及び、多摩の精神文化の代表的な遺跡と位置付けられたかもしれない。
では、まず土壙群について見てみよう。今回は小田野第3次発掘の調査結果を冬至の日の出と日の入りの方向で確認してみる。
縄文中期後葉から縄文後期にかけての土壙墓群であり、向郷遺跡や107遺跡よりやや後の遺構である。そして、環状集落の中央土壙のようではなく米澤容一氏・百瀬貴子氏(以下米澤・百瀬氏)によれば直径95mの円の中に、小円を成す群が少なくとも4つはあるとのこと。そこで、まずは同じように冬至の日の出入り光で土壙群を線引きすると(注1)、向郷遺跡等と同様に線が引ける。また、どのような図面を利用するかについては一定の基準を決めている(注2)。
なお、土壙は米澤・百瀬氏によれば、土壙墓、単石土壙墓、集積土壙墓、乱石土壙墓、敷石土壙墓、立石土壙墓、埋甕土壙墓に7分類されている。この中で敷石住居址の一部のような配石をしている敷石土壙墓を中心に見てみたい。敷石土壙墓はB地区で7件発見されている(茶色)。
図の上は土壙の分類を入れたB群の配置図。下は百瀬氏により土壙の境界線を取り除いた礫(自然石)のみを表示したもの。さらに上下の図を重ね、今までは経験に従い土壙墓に接するように日の出入り線を引いたが、土壙墓枠より礫を意識して線を引いてみる。

百瀬氏は土壙群の境界線を取り除くと配石遺構のように見えると指摘されていたが、配石遺構もここでは詳細に述べないが冬至の日の出入り光と関係あるようで、百瀬氏の指摘は的確だと思う。さらに、この図の中央付近の3つの敷石土壙墓を個別に見てみよう。
中央から左下に位置するSZ-61であるが、日の出入り光の交差点の一つに石棒があることに驚く。冬至の日の出の光に並置して石棒が置かれているのは、前編の忠生遺跡と同じで、あの世に石棒を送ろうとしているのだろうか。さらに各線の延長上のB群の仲間の土壙墓、そして他の群との土壙とも冬至の光で繋がっているようだ。共にあの世に行き来し、あの世で楽しめるようにという願いなのか。次にSZ-86、SZ-81の敷石土壙墓を見てみよう。
B区中央の敷石土壙SZ81には中央に炉の象徴と思える石が置かれ、小型の石棒状の石も含み炉周辺部分があの世に送られるようである。
ここで、土壙のあの世の敷石ではなく、小田野遺跡の敷石住居址を冬至の日の出入り光で見てみる。なお、深沢遺跡のSB02は当遺跡西側300mの同一段丘上の遺跡で関係が深い。
敷石住居の場合も、中央の炉(光源としての神聖な場所)を含んだ場所で、冬至の日の出入り光を意識し、床面を切り整地し敷石を並べる時に、その光路を表現しようとしている。また、石棒状の石も意識しているようにも見える。ただ全体としては他の図像(全体の円、楕円、その他)も意識するため、炉から離れるほど光路は分かりにくくなるようだ。これは以前環状集落分析で経験したことで縄文人の悩みどころでもあろう。なお、この冬至の日の出・日の入線の角度は国立天文台のホームページに記載されているツールを使わせていただいていて、太陽が地平線や水平線に出入りするのを基準としている。縄文人が分かりやすい山かげの出入を基準にしているか、地平線なのかは議論があるところだが、地平線・水平線基準を採用しているのではないかというのが私の意見だ。まだ断定できないが、微妙な日の出や日の入り観察から何らかの規則性を導いた可能性は十分あると思う。背景には中部高地・南関東が同一文化圏内(同族)交流や他との交流で、暦とともに測量技術も標準化された可能性がある。小田野遺跡の縄文人は視野に入る山の背後の富士山だけでなく、地平線や水平線まで意識したかもしれない。なお、後期中葉を過ぎると方位観の拡大があるように思える事例がある。夏王朝等大陸からの影響だろうか。ただ、冬至・夏至の日の出入り光は1年の1/3(4か月)近くほぼ同じ方角であるため、縄文時代の造営基準であり続けたと考えている。
次に立石土壙墓であるが。SZ65を観てみよう。
立石の下に柱穴のような内部遺構があり、田端環状積石遺構とその下の土壙群を思い出した。
田端環状積石遺構(加曾利B2の遺構)の立石を中心にして冬至の日の出入光の関係と、土壙(加曾利B1の遺構)を中心としての出入光の関係を図で比べてみると、同じように菱重ね図像(注3)が得られる。前代の土壙群は環状列石の一つの特徴である立石と同じように、冬至の光日の出入り光と関係している可能性があるのではないか。なお、冬至の季節に確認できたが、日の入のころになると立石が長い影を引き具体的な日の入線を示唆するようで、縄文人が影を意識して造営をしていたことが想像される。日の出も同じで一日の内で日の出入り光の確認ができる。
次に、小田野遺跡で一番有名な敷石住居址であるSI08を考えてみたい。その前に、この敷石住居址とよく比較される武蔵野台地の緑川東遺跡の住居址を見てみよう。この遺跡は大型の4本の石棒で有名だ。
敷石住居址はSV1であるが、その住居址に先立って向かい合うように、SV2という住居址があった。なおSV1は称名寺期の遺構とみなされ約4500年前だ。
五十嵐彰氏が指摘されているが、SV1の中軸線は特異で同じ集団と考えられる敷石住居址が西から北西に分布しているのに対し南西方面は唯一である。さらに、炉もなくスペースも狭く住居用とは考えられず、何の遺構か不明であった。その中で、石棒は前編で述べたが、光に関係する祭儀の道具というのが私の意見で、光を切り口に遺構の性格を模索してみる。
石棒は冬至の日の出光に対し垂直(樹立でも横位でも構わない)に使われ、あの世に送られるときは冬至の日の出光に並置される。SV1の4本の石棒は日の出光にほぼ垂直で使用中を意味するようだが、微妙にどこかを指している。SV1の中軸線、石棒4本の指し示す向き、冬至日の入線と富士山に沈む線(日の入線の約3度南に寄る)を重ねると、4本の石棒は中軸線に近い祭壇方向を指していた。
次に、遺構の掘り込みが60cm以上と深く、暗がりを意識している遺構とも考えられ、太陽観測を想定してみたところ、敷石の配石に冬至・二分(春分・秋分)・夏至の光路が見て取れ、南西の壁か上屋かは不明だが光が入射しているようだ。このSV1で光の祭儀か観測を行っていたと推定できる。
では、小田野遺跡のSI08敷石住居址に移ろう。なおSI08は称名寺~堀之内期の遺構とみなされ約4500年前~3800年前だ。
SI08敷石住居址はSV1と同様に反対向きのSI10敷石住居址の後に作られ、またSV1と異なり炉はあるものの炉として使われてなく骨粉なども検出しており、百瀬貴子氏はSI08がSI10を下部に置いたあの世の敷石土壙墓の可能性を指摘されている。また、床面が1m程度堀下げられ、壁にも敷石が貼られ、奥は段があり祭壇になっているなど、SV1と同様に光に関する祭儀か太陽等の観測用と考える。ただ、大きく異なるのは中軸が東西、春分・秋分の日の出入り線だ。なお、SV1もSI08も立体的な遺構であり光の取入れ等はさらに研究する必要がある。
ここで縄文人の「あの世」観をベースに冬至、春分、夏至、秋分の意味をもう一度整理してみたい。冬至は縄文人にとってはこの世の死と再生の切実な季節であるが、あべこべの世界に暮らす「あの世」の人には夏至。次に夏至であるが、「あの世」観からすると、この世の夏至は「あの世」の冬至なので、縄文人にとっては遠い「あの世」の人の死と再生(この世に来る?)の想いをつのらせる時なのだろう。
また、春分と秋分であるが、真西と真東に正確に向き合うような日の出・日の入で、縄文人にとって異界の「あの世」がこの世と一致する時。しかも、気候も良く生命力が溢れる春分や、収穫の喜びの秋分。この世とあの世の境が無くなる幸せな時なのだ。東西を強く意識したSI08のまわりには、この世のものと思われない不思議な遺構が満載である。柱穴や炉のない柄鏡形の遺構。炉だけのような遺構、村田文夫氏によれば大型住居ではなくウッドサークルとされるSI03もある。しかも、SI08はこの世の光の祭儀か観測遺構でありながら、百瀬氏の敷石土壙墓説に従えば、この世のSI08は「あの世」の施設でもある。こうした遺構を怪しげだと訝る方もいるだろう。だが、座禅や祈りの際に生じる意識状態は、近年では脳科学の分野でも研究対象となっており、「境界のない心境」と呼ばれる状態が実在することも示されつつある。そう考えると、この遺構は高度な精神文化を表している可能性もあると思う。
さて、水月湖に戻ろう。11月9日は生憎の雨天であったが、縄文時代のタイムカプセルといわれる鳥浜貝塚や若狭三方縄文博物館などを訪ねた。残念ながら雨天で太陽が顔を出さなかったが、走馬灯のように縄文文化がよみがえる、充実した旅であった。夜になってから、新幹線で東京に向かったが高崎あたりで、突然緊急停止があった。非常灯しか点いていない車内でひたすら運転再開を待ち望む中、ふと窓の外を見ると十六夜のお月様が雲間から顔をだした。幼いころ祖母と庭先で観た月のようでほっとした瞬間であった。
人麻呂作と伝わる歌がある。
東の野に
かぎろひの立つ見えて
かへり見すれば
月かたぶきぬ
(万葉集一・四八)
私訳 太陽がほぼ同じ方向から昇り降りする冬至の頃、東の方向に、微かな日の出の兆し「かぎろひ」が見え、影になる後ろを振り向くと満月が沈み始める。
この「かぎろひ」は聖書の次の創世記の水の面に似ている。『……地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」』
闇と光の境としての「かぎろひ」。文化や時代は異なるかもしれないが、それは愛と魂の世界を誘う何かであり、私たちが忘れかけた縄文人のムラにある何かかもしれない。
執筆にあたり貴重な資料をご提供していただいた安孫子昭二氏に感謝いたします。なお、ここで「縄文時代のイキイキ生活」を終了させていただきますが、読者の皆様、ご協力いただいた皆様に深く感謝いたします。
注1)日の出・日の入線の方位角算出には、国立天文台ホームページ内の「暦計算室/こよみの計算・長期版」を用い、観測地点を指定したうえで年月日を入力し、冬至などの方位角を求めている。縄文時代は紀元前にあたるため、同計算ではユリウス暦を用い、南中高度や方位角の一定期間の変化から冬至等の方位角を割り出している。なお、同ページでは紀元前3000年頃までの計算が可能である。
注2)遺跡の調査報告書等に掲載された図面(実測図など)を利用する際は、原則として真北が明示されたものを用いている。真北の記載がない場合は、可能な限り聞き取り調査によって確認する方針としている。なお、磁北を誤って用いた場合、日本国内では条件によって最大10度程度の誤差が生じる可能性がある。
注3)菱重ね図像は、向郷遺跡における特異な8基の墓壙を、冬至の日の出入り光の方位で結ぶことによって得られた図像である。縄文人にとって何らかの象徴的意味を持っていた可能性が考えられるが、その具体的内容は不明である。日本の茅の輪巡りや、太陽観測におけるアナレンマ図形などが想起されるものの、直接的な関連は確認されていない。


































