アメリカ生活よもやま話(Los Angeles 1988~1994)


Hiro(横浜在住)

 

①遠いアメリカ

1951年(昭和26年)生まれの小生にとって、アメリカはTVの「名犬ラッシー」「ララミー牧場」「うちのパパは世界一」等で知るだけの世界だった。幼少期に電車(南武線)の中で黒人米兵を初めて見て、本当に真っ黒なのにビックリポン。アメリカはとても遠い存在だった。職業軍人であった祖父は、終戦間際に予備役から前線司令官として招集され戦死。戦前に祖父の妹はアメリカ(California)に移民し、日本人と結婚し娘3人を得た。「妹の住むアメリカ」と戦った祖父の心情はいかがなものであったか……。

 

②夢のCaliforniaへ

1988年、バブル経済の余韻が強く残る時期にアメリカ駐在へ。N生命のLos Angeles支店。「真っ青な空」と「パームツリー」と乾いた「甘い空気」。トヨタ以下多くの日本企業が文字通り「猫も杓子もアメリカ進出」に拍車をかけた時代。家族を呼び寄せるまで、中心部のホテル住まいだったが、連日の日本企業の祝「アメリカ進出パーティ」で、夕食には事欠かなかった。N生命を筆頭に「the Seiho」が、北米の著名ビルを買いあさった時期でもあった。

小生の任務は、日系企業への団体医療保険・年金の営業。担当地域は、アメリカ西海岸全域(California、Washington、Hawaii等)。California州だけでも日本と同じ面積。広大で豊かなアメリカを知るにつれ、かつて「粗鋼生産量1/50の日本」がアメリカ相手の馬鹿な戦争をしたものだと痛感。

 

③English

当初は「聞く・話す」に難儀した。不思議なことに、数年で仕事面での英語の苦労は激減。日常的にコンタクトするアメリカ人は特定され、相手の人品骨柄も判り、話材も保険分野に特定されるためだ。仕事を離れ、酒を飲む時になると、突然会話についていけない場面に遭遇する。チンプンカンプン。これは話題の背景に疎いのが原因。どんなに日本語の上手い外国人でも「相撲」を知らなきゃ「横綱とか上手投げ」とかの相撲談義に入れないのと同じ。要するに、アメリカ人(California人)としてのIdentityがなければ、なかなか本当の会話は難しいということか……。

当時10歳の長男が急性腎炎にかかった。急性腎炎はAcute Nephritisという。日本語英語ではKidney Disease(腎臓病)と思いきや違った。フランス系アメリカ人の女性医師からていねいに教わった。

5歳の次男が通った幼稚園の校長から呼び出しがあり、駆けつけると「お宅ではどんな教育をしているのか?」と問われた。「タイピングの練習時に“Fuck you, Fuck you”と連打した」と。何も知らずに禁句を悪ガキに教わるままにタイプしただけの話に抱腹絶倒。

アメリカ駐在が決まった時は「どうするの……?」と戸惑った妻も、数年後には家電にも出られるようになった。ただし、さすがに緊張気味で数字を話す際はアクセントが関西弁風に(ワイフは大阪生まれ)。茶化すと叱られた。

渡米後3年も経つと、「英語の夢」を見るようになった。いっちょまえの証らしい。

 

④子供の教育

貴重な機会だからと、子供2人は現地校に(プラス週1回の日本語補習校)。日本語を忘れないようにと、毎晩日本の本を読み聞かせた。井上靖の『しろばんば』や志賀直哉の『清兵衛と瓢箪』等。日本語TVも観られたが、息子たちのお好みは勧善懲悪型の「水戸黄門」。同世代の日本の子供はまず観ない番組だった。

「Come=来る」と教えた。「こっちにおいで」と言うと、「わかったすぐ来るよ」と。Why don't you come? だから、「来るよ」になる。厚生省を「あつせいしょう」と読まれたことも。突然異文化の中に放り込まれた息子たちは、それぞれ相応な苦労はしたと思う。5~10歳と10~15歳と異なる年代の経験であったが、なんとかバイリンガル能力を体得した。移民国家らしいESL教育(English as a Second Language)の充実ぶりには感心させられた。

 

⑤アメリカの豊かさ

Los Angeles 南部のTorrance市に住んだ。中級の住居であったが、居住部は200㎡の広さで、室内でキャッチボールが出来た。車2台分の屋内ガレージ。庭の芝刈りは、メキシコ系の庭師がやってくれた。洗濯物の外干しは市の条例で禁止。乾燥機での衣類乾燥が原則。さんさんと太陽が照らす環境での「外干し禁止」には違和感があった。

かなりの貧困層住宅でも、蛇口をひねればお湯が出るのが当たり前。スーパーで100ドル分の買い物をすれば、馬鹿でかい買い物カゴ満杯の食料品が買えた。土地の広大さ、豊かで低廉な第一次産品等、本質的な豊かさは、日本と比較にならないレベル。

 

⑥アメリカ人との交流(サッカー)

仕事面でのアメリカ人とのお付き合いは、ある種「ヨソイキ」のもの。「日本の金持ち生保の恵まれた駐在員」として見られていたと思う。たまたま参加出来た「地元のおじさんサッカー」では、本物のアメリカ人との付き合いを楽しめた。保険代理店のMike、 建設屋のTom、ハンバーガーショップ経営のGeorge、教師のSmith、違法移民らしい John等々、独系・仏系・英系・メキシコ系等々のさまざまなアメリカ人との交流があった。自己中心型だけではなく、謙譲の美徳を備えた輩もいた。

写真の前列中央が筆者。人種のるつぼと言われるアメリカは多民族国家であり、共通語の英語を軸としたさまざまな文化の融合体であることを痛感した。

アメリカ人とのサッカー(前列中央が筆者)

 

⑦自助努力文化

国民皆保険制度の日本と異なり、アメリカでは一部の貧困層と高齢老人への公的健康保険(Medicare, Medicaid)があるだけで、一般人は「民間の医療保険」=「勤務先の医療保険」のお世話になる。団体医療保険の保険料は非常に高く、従業員とその家族の保険料は、給与額と同位なほど高額となり、経営者の負担は大きい。クリントンによる医療改革、オバマによるオバマケアの創設等、長らく政治の大きな課題になってきたが、なかなか根源的解決には至らない。銃規制に時間がかかるように、「自助努力」「自衛」の概念が強いアメリカの建国以来の伝統文化がベースで、日本のような国民皆保険制度の実現は難しい。銃規制がなかなか実現されないのも、自分のことは自分で守るというSelf Reliance文化のせいだ。

民間の保険会社は全米で4,000社もあり、さまざまな医療保険が提供されているが、就業者の大宗は勤務先の企業保険にお世話になる。解雇されたら、直ちに無保険者になってしまう。高額な医療保険=高額な先進治療のおかげで、白人を中心とした富裕層の平均寿命は100歳に近いのではないだろうか? 貧富の差は尋常ではない。

 

⑧日本に帰国して

30代半ばから40代前半まで、アメリカで過ごした。1994年に帰国して、初めての早朝の通勤電車(JR横須賀線)は、満員で乗ることが出来なかった。数台飛ばして、ようやく乗車。

10歳の次男は日本の学校は「宿題がないから良い」と。日本語が遅れているのだから、それを補うための宿題ぐらい出したらどうかと担任の先生に頼むと「今の子供は忙しすぎて宿題は出せない。補完の学習は塾でどうぞ」と。近所の塾へ行くと「入塾試験を受けてくれ」と。さすがに切れて怒った。補修学習の機会がないという実情にあきれるばかり。

家の狭さ、会社の狭さ、すべてが狭い日本に凝然としたが、浦島太郎の「変な日本人」から「普通の日本人」に戻るには数年かかった気がする。アメリカ駐在中は、異文化対応に苦労はあったものの、「日本的な中間管理職が被るストレス」は皆無だった。その分、寿命が伸びたかも知れない。

 


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