竹下節子(比較文化史家)
今年の6月末、フランスで90人の新司祭が叙階された。約3分の2が教区司祭で、約3分の1が修道会司祭だ。
1950年までは平均して年に1000人もの叙階があったが、ここ40年ではその10分の1と急激に減っている。フランスの司祭全体の数も、1965年には4万人だったのが1990年には2万5000人、2025年には7000人となっている。1900年、南半球には司祭の2%しかいなかったのが、今は全司祭の24%が南半球にいると言うから、フランスのカトリシスムの「退潮」は深刻だということだろうか。
しかし、フランスでは新司祭のプロフィール(人生遍歴)自体が変わってきている。今年パリで叙階されたある42歳の新司祭が「召命」を感じたのは30歳の時だったそうだ。すでに学歴も職歴もある社会人だった。それから神学校に進むことを決意するまでに彼は3年もかけた。今後は、宣教司祭としてベルギーに派遣されることが決まっている。アフリカではなく、カトリックの国王がいるベルギーなのだ。ベルギーの首都ブリュッセルにはムスリムの共同体地区があり、そこはフランスに向けた無差別テロの震源地となったことも有名だ。時代は変わった。
20世紀前半のフランスは大家族も多く、家族のうち一人は司祭の道を歩むことが普通だったという地方も少なくない。神学校で学ぶということは知的エリートの仲間入りをすることでもあった。今では逆に、すでに社会生活をしている知的エリートが「回心」によって人生を神と与えられた使命に捧げるという選択をする人が目立っている。
2025年は、全世界の教区司祭の守護聖人である「アルスの司祭」の列聖100周年だった。この「アルスの司祭」とは、フランス人のジャン=マリー・ヴィアンネのことだが、1818年当時、人口200人だったリヨン近くのアルスという村で41年間過ごした典型的な教区司祭だったので、「アルスの司祭」という名で呼ばれている。
フランス革命後の宗教離れが顕著な地方で、当初は、早朝に司祭館を出て教会に赴く彼を見て教会に宝物が隠されているのではないか、などと噂する村人もいたという。司祭が長い祈りを捧げているのを知った人々は少しずつ彼の説教を聞くようになる。大切なのは告解であると「アルスの司祭」は言い、教会ではミサ以外、ずっと人々の告解を聞いて免償(ゆるし)を与えていた。
そのうち司祭が人の心を読んだり未来を予言したり病を癒したりするという評判が立ち、それはすべて神の計らいでしかないと彼が言っても、ついにはベルギーやカナダからも人々がやってきた。最終的に彼は、一日中列をなす信者を迎えるゆるしの秘跡に任務が特化されて、1859年に帰天するまで、実に100万回の告解を聞いたという。しかも、最後の4年間をのぞいて、司祭館は常に悪魔の攻撃を受けて睡眠もままならなかったという逸話も有名だ。たいていの人の心にはすでに悪の芽があるので、悪魔の攻撃対象にならないが、アルスの司祭は悪魔たちの仇敵ともいえる存在だったようだ。
帰天後も、年に3、4千人もの人々がアルスに巡礼にやってきたが、なんと今では年間35万人もの巡礼者がフランス各地からだけでなく世界中から訪れる。1986年には教皇ヨハネ・パウロ2世が念願のアルス訪問を果たし、教皇フランシスコも枢機卿時代の2009年に、ブエノスアイレスのカテドラルにアルスの司祭の聖遺物を呼びよせた。
「アルスの司祭」はルルドで聖母御出現を見たベルナデット・スビルーのような無知な少女ではなかったけれど、フランス革命の影響もあり学問とは縁遠く、その敬虔さだけが認められた人だった。何十年も小さな教会で一日中告解を聞いてはゆるしの秘跡を繰り返してきたフランスの地方司祭が、全世界の教区司祭の守護聖人となるなどとは誰が想像できただろう。
フランス革命によってカトリック・ネットワークを徹底的に切断し、その後も王政復古や革命を繰り返す中で、類のない「政教分離」を打ち立てたフランス共和国が、宗教離れする世界の中で個性的な聖人を次々に輩出してきたことはいったい何を示唆しているのだろう。