余白のパンセ21 「風の家」さんぽ3 


 

フランシスコ教皇のお墓にたむけられた白い薔薇から想うこと

写真提供:バチカン・メディア

フランシスコ教皇が亡くなられて、パパさまの大理石のお墓に白い薔薇がたむけられたのを知りました。

一輪の白い薔薇は、幼子のイエスの聖テレジアとの繋がりからだと言います。フランシスコ教皇は、問題があったときに、聖テレジアにその問題を委ねました。それは解決を求めるのではなく、聖テレジアの手に受け取ってもらい、それから教皇がそれを受け止められるようにしてくださいという意味なのだそうです。聖テレジアの答えとして、教皇は白い薔薇を受け取ったのです。

フランシスコ教皇は日本に来られ、長崎と広島の被爆地で祈ってくれました。長崎では雨の降る中、原爆が投下された地点で空を見上げ、祈られた姿がいまでも目に焼き付いて胸が熱くなります。

日本は今年(2025年)が敗戦80年であり、それは原爆を落とされてから80年ということでもあります。

いつもように早稲田古書店巡りから甘泉園に行き、風(プネウマ)を受けようと井上洋治神父を思い出していました。井上神父は21歳の時に、お姉さんが残していった小さき花のテレジアの『自叙伝』を読んで、テレジアの掴んだものを自分のものにしようと思い立ち、22歳になってフランスの男子カルメル会に入ります。お姉さんは、すでにサンモール修道会(現・幼きイエス会)に入会していました。井上神父は、1950年の6月4日に「マルセイエーズ号」に乗ってマルセイユに向かいました。この当時は外国へ行くには、外国航路の船で行くしかありません。この船のなかで、遠藤周作さんと出会います。

外国での修道院生活は、井上神父にとってかなり辛いものであり、そのことは井上神父の『余白の旅』に詳しく書かれています。外国で修得する神学というものへの疑問を感じながら、「日本人とキリスト教」という課題を見つけて30歳の時に日本に帰国します。

甘泉園の池に泳ぐ亀たちを見ながら、わたしは日本に帰って来てからの井上神父を想っていました。東京教区の神学生として、司祭への道を再スタートさせるわけですが、日本でのカトリックもローマと同じ神学教育であることに井上神父は愕然とします。わたしは、ここからの井上神父の「日本人とキリスト教」という課題に向けた猛勉強に感嘆します。

井上神父が35歳で洗足教会に赴任した年、196210月から第二バチカン公会議が開会されています。

井上洋治神父の「漂流――『南無アッバ』まで」(『井上洋治著作選集5遺稿集「南無アッバ」の祈り』所収)には、井上神父が「南無アッバの祈り」の岸辺に流れつくまでの道のりが綴られています。

井上神父59歳の時に、「風(プネウマ)の家」を創めようと決心し、東京大司教区白柳誠一大司教からインカルチュレーション・オフィス担当司祭の任命を受けます。井上神父がインカルチュレーション(文化内開花)の必要性を強く認識していたからです。しかし、「インカルチュレーション・オフィス」では日本人たちには分からないだろうということから「風の家」という俗名が付けられたのです。東京・中野のマンションの一室から「風の家運動」がはじまっています。そして、65歳の時に新宿区西早稲田のマンションに移転します。ここが、わたしが「「風の家」さんぽ」としている場所に当たります。

井上神父は、任命書はもらったけれども、白柳大司教に「風の家運動」の基本的な考え方をこまかく説明したわけではないが、これだけは決してゆずることはできないとしていることがありました。

それは、リジューの聖テレジアから、またパウロから受けた少なくとも2つの点に関してでした。

《神は「モーセ5書」が伝えるような、厳しい「祝福と呪い」を与える方ではなく、「アッバ」(お父ちゃーん)と呼べる方であり、イエスの福音は「モーセ5書」のそうした神観の否定と超克の上になりたっているということ。またいまひとつは、神と人間と自然は切り離されておらず、「モーセ5書」の『創世記』に記されているように、「生きとし生けるものはすべて人間によって支配される」というもの(『創世記』1章28節)ではなく、パウロが『ローマへの信徒への手紙』8章で言っているように、同じ「キリストのからだの部分としてともに苦しみともに祈る」存在なのだということである。この2点だけは、「風の家運動」を支える2本柱として、どうしてもゆずることはできないアッバのおぼしめしと確信していたからである。》

そうして井上神父はその時の心境を率直に書かれています。

《カトリック教会から除名、破門されるかもしれない。そうなれば食べていけなくなるだろう。そういった危惧や不安は、たえず大きく私の心にのしかかっていた。しかし一方では、そうなったら素直に破門でも何でも受けるより仕方がない。私の人生は、私のものではなく、アッバのものなのだから。そうなったら、そうなったでいいんだ、という秋の空にようにすんだ思いも、また、私のなかには共存していたのである。

〽野ざらしを 心に風のしむ身かな(芭蕉『野ざらし紀行』)

やはり、アッバのおのぞみだったのだろう。幸いにして、「風の家運動」は禁止されることもなく、また私も破門されることもなく。無事こんにちまで続けられているのである。》

わたしは、こうした井上洋治神父の覚悟を読むとき、自らも起業(といっても家内制手工業的な零細ではあるけれども)したときの心情と重ね合わせ、励ましをいただいているのです。

写真提供:CEI - Conferenza Episcopale Italiana

フランシスコ教皇が亡くなって、コンクラーベ(教皇選挙)があり、新しい教皇が選出され、レオ14世が誕生しました。レオ14世教皇は、フランシスコ教皇

が開拓進めていた路線を継承していくとのことです。フランシスコ教皇のお墓の前でお祈りするレオ14世教皇の姿が紹介されていました。

聖テレジアの繋がりが、新しいこれからの時代にも、「平和と連帯と地球の尊重」の取り組みへ向かいますように。レオ14世教皇がかつて長崎に訪れていることを知りました。きっと日本への思いをお持ちだと想われます。

白い薔薇は、これからの日本のカトリックへ、希望の答えを受け取らせてもらえる象徴としてあるのだろうか。

甘泉園の木々が風に揺れていました。

《アッバ アッバ

南無アッバ

イエスさまに

つきそわれ

生きとし生けるものと

手をつなぎ

おみ風さまにつつまれて

アッバ アッバ

南無アッバ》

鵜飼清(評論家)


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です