石井祥裕(典礼学)
聖木曜日の主の晩餐の夕べのミサは、さまざまな意味を含んでいますが、なかでも目立つ儀式として洗足式があります。教会生活の中で、洗足式はなかなか大変で、足を洗われる弟子の役をする男性信徒を集めるのがまず大変。最近は、女性信徒でもよくなったとはいえ、その場合もさらに大変。それ以前に、この儀式自体、どうなのかなあ、という違和感が教会のメンバーとしてか、日本人としてか、人間としてか、最初からぬぐえないところがありました。
そこで、少し調べてみたいと思います。するとこの洗足式という儀式、特に聖木曜日の洗足式という儀式のもつ、あまり意識されない側面が見えてくるような気がします。
聖木曜日の「主の晩餐の夕べのミサ」の中でこの洗足式にとって、はっきりしているのが、この典礼の福音朗読でヨハネ福音書13章1-15節が読まれることです。それは、まさしくヨハネ福音書における最後の晩餐でイエスが行った最も意味深い行いでした。
(1)徹底したへりくだりと仕える姿勢の模範
ここで弟子たちの足をイエスが洗うという行為は、まずイエスが自ら低くなって弟子たちに仕えたことを意味しています。師と呼ばれ、さらに主と呼ばれる方が、自ら身を低くして、弟子たちの足を洗うというところに、究極的には十字架に至るイエスのあり方、生き方が示されます。それは、フィリピ書2章6-8節が鮮やかに示すことです。
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
(フィリピ書2章6-8節)
(2)いつくしみと愛の行為
今のことと関連している、ヨハネ13章のこの話の最後のイエスのことばが重要です。
ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。
(ヨハネ13章14-15節)
この言い方は、次の箇所とそっくりです。
あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
(ヨハネ13章34節)
わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
(ヨハネ15章12節)
まさしくこの愛の掟をイエス自らが体現する行為が洗足式であるとして、ラテン語では、この儀式のことを「掟」(mandatum)と呼ぶようになります(それが英語にも伝わり、それをもとに英語では聖木曜日のことをMaundy Thursdayと言うようなります)。
(3)清めの補完行為
ヨハネ13章を少し遡りますが、イエスが足を洗う行為は端的に「清め」の意味でも語られます。
イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。」
(ヨハネ13章10節)
やや謎めいた言い方ですが、この「体を洗う」は後に洗礼のことを指すと考えられるようになると、足を洗うという行為はその補充というか補完行為と考えられているとも思えます。
(4)かかわりそのもののしるし
もう一つ見逃せない、洗足の意味にイエスは触れています。
イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
(ヨハネ13章8節)
ここでは、「洗う」ことそのものが、イエスと弟子一人ひとりとのかかわりのしるしであると告げられています。そこにも洗礼の暗示があるのかもしれませんが、かかわりそのものしるしとしての言及は、案外重要な気がします。
このようにヨハネ13章の福音朗読そのものの中には、洗足式の意味する側面が少なくとも四つあります。どれも究極的にはイエスの十字架の出来事に向かい、さらにこの死と復活を源として行われるようになる主の晩餐の典礼(感謝の祭儀、ミサ)の含むメッセージにつながっていくことも見てとれます。ここまでで洗足式を行う意味、それを味わう意味のすべては尽きているのかもしれません。
確かに典礼の歴史は、次のような事実が生まれたことを教えてくれます。
例えば(3)の清めの補完行為としての洗足についてです。4世紀末のミラノのアンブロシウスの『秘跡についての講話』では、洗礼の儀が終わり、洗礼に泉(水盤)から受洗者が上がってきたとき、司式者である司教が衣を上げて帯を締めて、受洗者の足を洗ったという儀式について触れています。ただし、この儀式は、ローマの教会にはなく、ミラノの教会でしか行っていないということに対してかなり力を入れて弁明しています。ローマでは、洗足とは、客人をもてなすときの行為であり、洗礼式にはふさわしくないと考えられていた、というのです。
これに対してアンブロシウスは、洗礼のときの洗足は、聖化(清め)の意味をもっているということ、そして、足を洗うのは、蛇(罪)がつけねらったところなので、それを洗うことで、よりよく聖化され保護されるためだとし、さらにその上で謙遜(へりくだり)を養うためだ、と語ります。
ある種、洗礼の清めを補完する行為という位置づけはヨハネ13章にも根差す位置づけ方であったと思われます。もっとも、その後、ローマ典礼において入信式に洗足式が行われることはありませんでした。ただ、聖週間全体は入信の秘跡の典礼という意味があるので、このイエスの模範は信者になる人に対するはっきりとしたメッセージになっていったことと思われます。
とはいえ、キリスト教の歴史の中で洗足という行為が慣習として強固な伝統となったのは、その「もてなし」としての意味からのようです。
聖書の中で客人のもてなしとして「足を洗う」ことが言及されるのは、次の箇所です。
主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、言った。「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。
(創世記18章1-5節)
この三人は天使であったという箇所として、本誌2024年12月特集でも注目した箇所です(「天使とは?(AMOR流リサーチ)」)。
ここで「足を洗った」のは、客自身だったかアブラハムだったかわかりませんが、足を洗うように世話をしたというところにはもてなしの行為であることが示されます。
これに関連して注目したいのは、新約聖書の使徒の手紙の中で、キリスト者、教会の役務者、奉仕者に求められることについての勧告の箇所です。
聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。
(ローマ書12章3節)
貧しい信徒への援助と旅人のもてなしが続けて語られています。
子供を育て上げたとか、旅人を親切にもてなしたとか、聖なる者たちの足を洗ったとか、苦しんでいる人々を助けたとか、あらゆる善い業に励んだ者でなければなりません。
(1テモテ書5章10節)
教会に奉仕者として登録される60歳以上のやもめに求められることを述べる箇所です。「聖なる者たちの足を洗う」は信者で、やはり受け入れて助けるという文脈で語られているのではないかと思われます。旅人へのもてなしと続いて出てくるところに、もてなしとしての洗足への言及を連想してもよいと思います。ヘブライ書13章2節にも言及があります。
兄弟としていつも愛し合いなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。
(ヘブライ書13章2節)
上に引用してきた箇所の精神が「兄弟愛」であることがはっきりと語られています。
これらの箇所はヨハネ13章のイエスが弟子たちの足を洗った行為が愛の掟の体現であったことを思い起こさせますが、同時にもう一つのイエスの教え、マタイ25章34-36節の内容との関係を考えさせてくれます。
さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。
(マタイ25章34-36節)
飢え渇くこと、着る物のないこと、宿のないこと、病気のことなど、困難な状況をシンボライズする事柄と並んで、旅のことが語られています。この世にあって、寄る辺のない、広い意味で貧しい人々は、異国を旅する不安定な存在の旅人のあり方とつながっているという見方があります。2025年1月特集でも注目した点です(「“巡礼”が照らす8つの視点」)。
ここに、洗足をもって示した愛の掟、隣人愛、兄弟愛の具体的な場が示唆されていると思います。新約聖書の言われる「もてなし」はラテン語を経由して英語となった「ホスピタリティ」にほかなりません。新約聖書における、イエスの教え、使徒たちの教えは、教会の歴史においては、とくに修道生活の伝統の中で強い伝統となっていきます。それを示すのが6世紀初めのヌルシアの聖ベネディクトゥスの『戒律』です。
その第53章は「来客を迎えることについて」となっていて、12節では次のように語られています。
続いて具体的な客の迎え方ついて12-14節で、「修道院長は来客の手に水を注ぎます。修道院長と共同体は、すべての来客の足を洗います。足を洗い終えたなら、『神よ、わたしたちはあなたの神殿で慈愛を注がれました』(詩編48・10)という唱句を唱えます」とあり、続く15節では、「貧しい人と巡礼者に対しては、最大の配慮と気配りを示して彼らを受け入れます。ほかの人の場合以上に、彼らのうちにキリストが迎えいれられるからです」とあります(以上、引用訳=古田曉訳『聖ベネディクトの戒律』すえもりブックス、2000年より)。
旅人や客のもてなしで足を洗うことが言及される古代、中世の旅事情(道路事情、履物の様子:靴、サンダル、日本でいえば草履、わらじなど)を想像すると、必要不可欠な、重要な行為であったにちがいありません。
ベネディクトの戒律で、このように旅人、巡礼者、貧しい人々を迎え入れるホスピタリティの精神が説かれていたことは、その後の中世の修道生活ならびに典礼慣習に影響を与えています。
9世紀初めの『修道生活に関する法令集』(Capitulare monasticum)には、聖木曜日に大修道院長は修道士たちの足を洗い、それに接吻するという規定があったといいます。13世紀末にマンドのドゥランドゥスが著した『司教典礼書』には、聖木曜日の司教ミサでは、司式した司教が13人の貧しい人々の前でひざまずいて彼らの足を洗い、乾いたあとに接吻するという務めが記されています。ベネディクト会の『修道院慣習規定』(Consuetudines)では、大修道院長が貧しい人々の右足を洗って、のちに接吻し、各修道院の院長は左足にそれを行う。そのあと修道士たちが全員貧しい人の前にひざまずき、その足に十字架のしるしをして接吻をしたという慣習が記されています。
このような洗足の伝統を踏まえつつ、現代の聖木曜日に残る洗足式を考えると、もちろんそこにはヨハネ13章でのイエスの行為の想起とそれを模範とするキリスト者の生き方へのメッセージが中心にあるでしょう。
同時に、根本に「旅人へのもてなし」の行為という性格が洗足にはあることが案外重要なのではないかと思われます。それは、貧しい人、寄る辺ない人の有様の象徴としての「旅人」ということ、この意味での「巡礼者」ということです。そして、それは、この世を仮住まいとして生き、究極には神の国に向かって生きるキリスト者すべて、さらには、神から来て神のもとに帰るべき人類、すべての人の生き方の実相を照らしていると思います。
洗足式という儀式は、人間が「旅人」「巡礼者」であることを互いに知り、そのような者として、互いに迎え入れ合い、世話し合うこと、慈しみ合うことを、イエスの模範のもとで覚えていくための実践なのではないでしょうか。2025年の聖年、「希望の巡礼者」が主題となっている今年の洗足式を経験しながら、いろいろ調べてみての思い――洗足式をより味わい深く行い、それに参加し、祈るための新たなヒントがあるように思います。