縄文時代の愛と魂~私たちの祖先はどのように生き抜いたか~14.ヒスイから垣間見る魂への想い


  

森 裕行(縄文小説家)

14ヒスイから垣間見る魂への想い

6歳のころだったか、隣の祖父母の家で近所の友達と祖母で語り合っていたが、緑色が急に話題になった。祖母が緑のことをアオと言ったのだ。「みどりだよ!」学校でもそう習ったし、友達も「みどり」だと言うのに、祖母は「アオ」と言い放ったのだった。京都生まれの祖母は教育者の娘だったせいか毅然と言ったが、私達の反論に口をつぐんでしまった。その厳しい面もあったが優しかった祖母はそれから、2年くらい経って亡くなった。私にとって身近な人が亡くなった初めての経験だったこともあり、祖母の記憶はアオという言葉と共に残された。

高校になって「青葉茂れる」の青は緑を指すと知り、その疑問は半分解け祖母の面目躍如となったが、色彩の呼称の謎はずっと残っていた。そして、縄文時代に強い関心をもつようになり、縄文語にも関心を持つようになってから、アオという言葉は、アカ、クロ、シロと同じくらい古い言葉で、もともと中空を表すアワと関係が深く、静かな湖面に写る七変化する景色のように、意味する色彩の幅は広いようである。このあたりは崎山理氏の「日本語「形成」論」(三省堂 2017)を参考にしたが、縄文時代を考えるうえでも、さらにその奥にある魂観などを考える上でも日本語の起源研究は大切である。

 さて、縄文時代に興味を持ち博物館に通うようになると、誰でも美しいヒスイに関心を示すようになるようだ。縄文時代のヒスイ大珠は巻頭の写真のように美しい緑色をしていることが多いが、穴が穿孔された鰹節の形のものが多い。ダイヤモンドの硬度までとは言わないが、硬玉なので穴をあけるには、石英などの研磨剤と篠竹などの材をつかうノウハウが必要であり、1㎜堀下げるに時間くらいの時間がかかるという。さらに多摩地方などでは石材の縦方向に穴を貫通させる大珠があり、縄文文化の技術の高さに驚いたりする。ヒスイ製品は縄文前期に始まり中期(約5000年前)、後晩期、そして弥生時代、古墳時代……奈良時代くらいまで、形や好まれる色彩も変わるが、綿々と引き継がれ消えていく。何故消えたのかも大きな謎の一つである。 

ヒスイは中国文明や中南米文化でも沢山使われているが、時期的には日本のヒスイは最古とのことである。ただ、ヒスイの博物館等での考古展示は発掘された状況を大切にして展示されるので、当時の祖先達が見たような美しさは味わえなかったが、最近は強い光を当てるなど学芸員の方のお陰で、その美しさを垣間見ることができるようになってきた。

 

東京都埋蔵文化財調査センター 多摩ニュータウン72遺跡出土 2022年度企画展にて筆者撮影

縄文時代の人々は特に緑(アオ)を好んでいたようだが、国文学の中西進氏は「日本神話の世界」(ちくま文庫 2013年)24Pで「……アヲ、アオ、アワ、アハ、またはアブはいずれも太陽信仰をもち、冥界の出入口と考えられる故に祖霊の鎮まる場所とも考えられた所であった。……」と解説している。そして、ヒスイの緑もこの冥界の出入り口と繋がるのではと考えてしまう。ヒスイと冥界の関係は後藤明氏も「古代翡翠文化の謎を探る」(小林達雄編 2006年)の「メラネシアにおける装身具交易」で民族事例から「……人間は、死んだらあの世の入り口で貝貨を払わないと、魂があの世に入れないというのです。ですから、日本の遺跡などでも、こういう貝やヒスイなどの装身具が埋葬されるという意味も、一つにはそういう意味もあるかもしれません。……」(90P)と言われていて、どうも関係が深そうである。

 さらに、ヒスイのみどり色に関してはミルチャ・エリアーデの石のもつヒエロファニー(聖なるものの顕現のしかた)の考え方などを援用して、大島直行氏も「月と蛇と縄文人」(寿郎社 2014年 127P)で、磨製石斧に緑色の石が使われる理由を次のように述べられている。「……緑の石斧は木々の再生のシンボリズムだと思います」。どうも、ヒスイ大珠は冥界だけでなく再生という意味も含まれるようだ。

 さて、縄文時代の人々のヒスイへの思いをもう少し調べてみよう。まず大事なことは、緑のヒスイは何処でもある石ではなく、新潟県の西部、糸魚川周辺でしか産出されない希少性のある美しい石材だということだ。これは今も昔も同じで、万葉集にもかなり古いと思われる伝承が残されている。

小滝川ヒスイ郷にて 森妙子撮影

 

「沼名川の 底なる玉 求めて 得し玉かも 拾いて 得し玉かも 惜(あたら)しき君が 老ゆらく 惜しも」(巻13-3247

山口博氏の「万葉集の中の縄文発掘」(小学館 1999年)によれば、昔はヒスイは日本では産出しないと思われていたが、松本清張氏の短編小説「万葉翡翠」(婦人公論 1961年)でこの歌が取り上げられ話題になったという。氏は沼名川を新潟県西部の糸魚川水系小滝川と推定し、玉をヒスイと推定している。玉はタマやタマシイと繋がり、私は古事記のヌナカワヒメとヤチホコノカミ(大国主の命)との美しい愛の歌の掛け合いを思い出してしまう。旧約聖書の雅歌のような神の愛の象徴の世界を、縄文時代の人々も描いていたのではないだろうか。もちろん記紀や万葉集の記載がストレートに縄文時代を表すかは慎重にならなければならないのであるが。

 さて考古学の最近の知見から、縄文時代の人々のヒスイ大珠に対する思いを考えてみたい。まず、当時の人々が宝飾品を現代の私たちと同じように考えていたかだが、東京都埋蔵文化財調査センターの山本孝司氏によれば、写真の多摩ニュータウン72遺跡の希少性の高い4つの翡翠大珠は、墓に副葬されてはおらず住居址等の変哲のない場所で発見されているという。もちろん当時は、様々な大切なものは役目を終えると魂送りしているようで、そうして破棄されたヒスイは縄文人が再度拾って使うことはなかったのだろう。堀越正行氏は「縄文時代における交換論素描」(東邦考古第40201690P 東邦考古学研究会)で「縄文人の価値基準は、物欲にとりつかれた私達とは大きく違っているのだということを自覚しないと、縄文時代の正しい理解には至らないだろう。」と警鐘を鳴らしている。

 ところで、ヒスイに宿っていた魂はどんな魂だったのだろうか。キリスト教文化では「人の身体は神の神殿」とし、「魂は愛そのもので死んで身体から離れる生命体」のように考えたりするが、縄文人はどう考えていたのだろうか。例えば縄文中期では、環状集落の中央に祖先の墓をもち、死者と生者が共存するような生活を送っていた。そうしたことから、彼らは魂をいつくしみをもって観ていたことは確かだろう。この文化の流れは現代でも家庭での仏壇や神棚として残り、日常の中で魂との語らいを促し、自分が慈しまれる存在であることを確認する。これは、縄文時代からの精神文化かもしれない。

町田市薬師池公園にて 翡翠(かわせみ) 著者撮影

ヒスイは漢字で翡翠と書く。翡翠はカワセミのことも指すが、翡は雄と同時に赤を翠は雌と同時に緑を意味し、ヒスイが様々な色を持つことを暗示している。また鳥は地と天とを結ぶ象徴でもある。


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