吉野源三郎さんと「平和問題談話会」のこと(後編)


鵜飼清(評論家)

前編はこちらです)

 

安倍能成さんの「平和」への希求

ユネスコの「平和のために社会科学者はかく訴える」という声明を読んで、「平和問題談話会」がつくられるとき、安倍能成さんを中心にして組織されるわけですが、そのときの人選などについては「討論『平和問題談話会』について」(司会=緑川亭、出席者=久野収・丸山真男・吉野源三郎・石田雄・坂本義和・日高六郎)で話されています。「平和問題談話会」の最初は「平和問題討議会」としてはじめられています。

「臨時増刊号」の目次には、

第Ⅲ部 再録 1949年3月号

平和問題特輯について

平和問題と日本―安倍能成

所感―田邊元

ユネスコ発表の平和声明に対する 各部会報告

東京地方 近畿地方

平和問題討議会議事録

とあります。

ここに採録された安倍能成さんの「平和問題と日本―昭和23年12月12日平和問題討議会における開会の辞」から抜粋いたします。少し長い引用となりますが、今日においても大変必要な意味合いと感じますのでお読みください。

このたびわれわれが取りあげました、8人の社会科学者の声明は、本年13日パリでユネスコから発表されました。しかし、われわれはこの発表から示唆(サジエスチヨン)を受けつつも、必ずしもそれに束縛されず、またそれに反対せず、不即不離の態度を以てこの重大な平和問題を協議しようとするわけであります。

御承知のとおり、わが日本は新憲法において軍備の撤廃、戦争の放棄ということを宣言しております。このように他に例のない徹底的な平和主義を憲法において表明しているという点では、日本こそ真に平和を世界に向かって宣言し得る唯一の国、その資格を有する唯一の国であるということができるのでありますが、しかしながら、同時に日本は、世界における唯一の軍備なき国、したがって最も多く戦争の脅威を感ずるところの弱体の国であり、従って、日本こそ、最も多くの平和を希求するところの国であるといえましょう。この特殊な事情からいって、われわれ日本人は、特に平和を自分にとって切実なる問題と考えざるを得ないのであります。

…………………

敗戦日本が新たなる建設を成し遂げるために、その根底となるべきところのものは、平和の原理、平和の信念のほかにはない。これを根底にもつよりほかに、われわれの歩きゆく途はない。――私はそう思うのであります。もしわれわれが平和の信念を国民的信念としてもつことができたならば、それはきっと、われわれの国を悲惨のどん底から立ちあがらせ、明るい未来へ向かって進めてゆくところの大いなる強味となることができると思うのであります。身に寸鉄を帯びずして剣戟の林の中に進んでゆくことは、あたかも物語りの中の一つの荒唐なヒロイズムのようでありますけれども、

しかしながらこれは、今日のわれわれにとっては決して空想的なことではないのであって、むしろ最も現実的な活路だと信じます。国際的な緊迫が次ぎの戦争の危機を孕んでいる間に立って、小刀細工を弄し、次ぎの戦争の機会を日本の復興のために利用するというような、浅はかな考えを以て日本の国を運営することは、それこそ日本をますます敗亡の淵に陥れるものだと思います。われわれが如何なるイデオロギーをとるにしても、日本が今日おかれている位置というものを正視し、日本の正しい末永い再起の道を求める限り、われわれとしては平和を大方針として進むほかはない。これがわれわれの探るべきところの大道である。こう考えるのであります。

…………………

この会議に御参加いただいた方の人選とか、岩波書店が関係しているとか、ということについては、いろいろ世間から批評もあることと思いますが、しかしながら、われわれは、もちろんこの会議において平和問題をわれわれの手に壟断しようなどとは、いささかも考えていないのでありまして、ただ、これが一つのきっかけとなって、日本全国の津々浦々に平和問題に対する関心が目ざめ、平和問題に関する議論が起こり、日本全体がこの平和の問題をめぐって燃えあがり、更には又この問題が各方面から一層学問的に精到に証明せられるということを念願して、とりあえず、志を同じくする方々のご協力を乞い、その端緒を開いたというに過ぎないのであります。幸いにして、このたびこの会議に御参加下さった方々は、いろいろ違った立場や御意見の方がおありだったにも拘わらず、みな平和という大同に就いて小異を捨てられ、建設的にこの企てに御賛同下さったということは、われわれの深く欣びとするところであります。今後更に一層広い範囲の方々を含めて、また今回いろいろな事情から御協力を願えなかった各界の権威にも参加していただいて、この種の討議が進められてゆくことを、われわれは心から切望しておるものであります。

ここに表された言葉には、戦後すぐの日本が「平和」を礎に未来へ向かっていかなければならないという力強い決意が読み取れます。

 

参加者は錚々たるメンバーで構成されている

「平和問題談話会」の最初は「平和問題討議会」としてはじめられています。その各部会のメンバーは以下のようです。

「平和問題討議会参加者氏名」

〇印は総会のみの出席者、△印は総会欠席者、他は部会、総会を通じての参加者。

小泉信三、田邊元両氏もこの企てに参加されたが、健康その他の都合により部会総会ともに出席されず、したがって声明に対しては責任を有されない。

 

【東京地方文科部会】

安倍能成(学習院長)

天野貞祐〇(文博・学習院大教授)

清水幾太郎(二十世紀研究所長)

武田清子△(Y・M・C・A)

淡野安太郎(一高教授)

鶴見和子

中野好夫(東大文学部教授)

南  博(東京商大講師)

宮城音彌(医博・東京工大講師 慶大講師)

宮原誠一(東大文学部講師)

和辻哲郎(文博 東大文学部教授)

 

【東京地方法制部会】

磯田進(法務庁調査意見局事務官)

鵜飼信成(東大社会科学研究所教授)

川島武宜(東大法学部教授)

高木八尺(法博・東大法学部教授 学士院会員)

田中耕太郎(法博・参議院議員 学士院会員)

丸山真男(東大法学部助教授)

蠟山政道(前東大法学部教授)

 

【東京地方経済部会】

有澤廣巳(東大経済学部教授)

大内兵衛(経博・東大経済学部教授・学士院会員)

高島善哉(東京商大教授)

都留重人(東京商大教授)

矢内原忠雄(経博・東大経済学部長・社会科学研究所長)

笠信太郎(朝日新聞社論説委員)

蠟山芳郎△(共同通信社東亜部員)

脇村義太郎(東大経済学部教授)

 

【東京地方自然科学部会】

稲沼瑞穂(岩波書店「科学」編輯部)

丘英道(理博・東京文理大教授)

富山小太郎(東京文理大講師)

仁科芳雄(理博・科学研究所長・学士院会員)

渡邊慧(理博・前東大理学部助教授)

 

【近畿地方文科部会】

久野収(京大経済学部講師・京都人文学園教授)

桑原武夫(京大人文科学研究所教授)

重松俊明(京大人文科学研究所教授)

新村猛(京大人文学園長)

田中美知太郎△(京大文学部助教授)

野田又夫△(京大文学部助教授)

 

【近畿地方法政部会】

磯村哲△(京大法学部助教授)

岡本清一△(同志社大法学部教授)

末川博(法博・立命館大学長)

田畑茂二郎(京大法学部教授)

田畑忍(同志社大法学部教授)

恒藤恭(法博・大阪商大学長)

沼田稲次郎(夕刊京都新聞論説委員)

前芝確三△

森義宣△(立命館大法学部教授)

 

【近畿地方経済部会】

青山秀夫(京大経済学部教授)

島恭彦△(京大経済学部教授)

新庄博△(神戸経済大教授)

豊崎稔△(京大経済学部教授)

名和統一(大阪商大教授)

福井孝治△(大阪商大教授)

 

津田左右吉△(文博・学士院会員)

鈴木大拙〇(文博・大谷大学教授)

羽仁五郎〇(参議院議員)

つまり、これだけの錚々たる参加者によって、戦後の「平和」について、それぞれの専門分野からの討議が定期的に行われていったわけです。

 

Peaceが示す「講和」と「平和」2つの意味合い

ここで、敗戦後すぐからの主たる出来事を並べてみましょう。

1945年10月24日 国連憲章発効(国際連合成立)

1946年5月3日 極東国際軍事裁判開廷

11月3日 日本国憲法公布

1947年5月3日 日本国憲法施行

1948年11月12日 極東国際軍事裁判所 戦犯25被告に有罪判決

12月23日東条英機ら7人の絞首刑執行

1950年6月25日 朝鮮戦争始まる

1951年9月4日 対日講和会議、サンフランシスコで開く

9月8日 対日平和条約・日米安全保障条約調印

1952年4月28日 対日平和条約・日米安全保障条約発効

1956年12月18日 国連総会、日本の国連加盟を可決

1960年5月19日 政府・自民党、衆院で質疑打ち切り

5月20日未明 自民党単独で新安保条約を強行採決

6月9日 新安保条約、自然承認

これを見て分かるように、平和問題談話会での活動が、戦後の新しい国際的な枠組みと日米関係の構築という激動のなかで行われていました。「平和問題談話会」における「講話問題についての声明」では、全面講和・中立不可侵・国連加盟・軍事基地反対・経済的自立が主張されています。

サンフランシスコ平和(講話)条約は、52カ国が参加して調印された対日講和条約です。調印会議は米・英両国が共同提案し、招請して開催されました。しかし、ソ連・ポーランド・チェコスロヴァキアの3国は署名せず、日本を含めた49カ国によって調印されたのです。これによって日本は朝鮮・台湾・南樺太・千島の領土を放棄し、沖縄・奄美大島・小笠原諸島は暫定的に米国の施政権下に置かれました。この条約によって、日本は正式に主権国の地位を得ました。それと同時に結ばれた日米安全保障条約によって米軍の駐留が継続されました。

対日講和についての「全面講和」とはソ連など社会主義国を含めた講話であり、日本にとってはいわゆる「西側諸国」との調印だったので「単独講和」と言われます。

「臨時増刊号」の目次には、

第Ⅳ部 対日講和と世界平和 都留重人 〔『世界』1951年10月号から〕

が掲載されています。この論文は、6月19日に「自由と平和のために」として書かれたものに増補加筆して載せられているとあります。つまり、対日講和条約に調印される前に書かれた論文だということです。

その都留重人さんの論文のなかで「3 世界平和の立場からの対日講和」の部分には、Peaceという言葉が「講話」と「平和」という両方の意味で扱われている場合があることについて指摘され興味深いものがあります。

対日講和の問題ほど「講話」と「平和」との区別をはっきりさせる必要の大である事柄はないと思われる……少なくともわれわれの論議においては、両者の区別をはっきりとさせなければならない。全面講和は「無講和」(no peace)であるかもしれないが「平和」(peace)を一そう確実にする途でありえようし、単独講和は「講和」(peace)であるかもしれないが「平和にあらざるもの」(no peace)へつながる方途でありうるからである。このように、対日講和と平和との関係を論ずるということは、日本の立場から見た講和とかアメリカの立場から見た講和とかいう一国中心の観点を捨てて、としてそれを取り上げることを意味する。

このような趣旨で書かれた論文をぜひお読みいただきたいと思います。日本の主権を早く得たいという思いから吉田茂(総理大臣)さんが「単独講和」で調印したということと、その後の日米関係の行く末と現代を考えることは重要なことであると思われます。

 

「君たちはどう生きるか」を問いかけている

「平和問題談話会」の活動で、「戦争と平和に関する日本の科学者の声明」のうち「2.平和は単なる現状維持によって獲得されるものではなく、現実の社会組織及び思惟様式の根本的変化を通じて、人間による人間の搾取が廃止せられる時のみ、平和はわれわれのものとなることができる。もとより、この変化の方向と方法とはなお今後の研究に委ねねばならぬにしても、平和と現状の糊塗とが容易に両立し得ない点は既に明瞭である」ということ「8.……将来の戦争は必然的に原子力戦であり細菌戦である以上、一度戦端が開かれれば、人類は文字通り絶滅の運命に陥る。もはや戦争は完全に取り残された方法と化しているといわねばならぬ」ということが記されているのに注目したいと思います。特に、広島、長崎に落とされた原子爆弾については、占領下においてプレス・コードがひかれ、軍事機密とされていたという時期のことです。そうした状況下でも「原子力戦」といった文字が記されているということをしっかり認識しなければならないように思います。

緑川さんは安江さんとの対談の最後に次のように話されています。

今日必要なことは、昭和20年代、30年代にこうした共同討議が形成され、その成果を世に問うてきたということ、それが直接現実の平和運動にコミットするという意味ではないが、科学と知識の裏づけをもって、一つのオピニオンとして提出され、大きな意味をもちえたこと、このことを改めて見直すことだと思います。

もはやオピニオンの時代ではないとか、そのようなことが言われる社会状況があります。しかし、なおかつふり返ったような諸問題は、現代社会が存在する限り必要なことではないでしょうか。にもかかわらず、それがジャーナリズムの中で非常にむずかしくなってきているということについては、われわれが職業人として考えるべき問題です。

21世紀の現代においてわたしたちはSNSという時代の中にいます。いわゆる紙媒体のメディアは減少していく状況にあります。しかし、緑川さんが伝えてくださるジャーナリズムの姿勢と役割は普遍的なものであろうと思うのです。

緑川さんは、吉野さんについては「すぐれた編集者=組織者として、平和問題談話会が成立するまでの働きかけにおいても、吉野さんは中心的な役割を担った。しかし、声明には参加していません。最後に、平和問題談話会が解散するという段階で初めて吉野さんの名前が出てきています。だから、1948年から1959年までの間、吉野さんは完全に編集者として『匿名の思想』に徹し、その機能をきびしく自覚して、みずからそこに参加しながら彼自身の発言は『巻頭言』や『編集後記』以外にはほとんど何の記録もとどめていない。最後に署名者として名前が1回だけ出てくる。それも、僕がすすめたうえでのことでした。これはひとつの新しい編集者のあり方を示しているし、それをわれわれは継承しなければならないでしょう。」と語られています。

吉野源三郎という人がいなければ「平和問題談話会」はなく、雑誌『世界』でその活動の記録を読むことも叶わなかったわけです。「平和問題談話会」へのいろいろな批判はあるでしょう。しかし、時代の制約というものもあります。果たしてわれわれが、いま時代の中でどれだけ「平和」を希求したミッションを持ち、発言や行動をしているでしょうか。

吉野さんの名著『君たちはどう生きるか』がいまの若者に問いかけると同じように、吉野さんが残されたと言ってもいい『世界』の「創刊40年臨時増刊号 戦後平和論の源流―平和問題談話会を中心に―」という雑誌で、「君たちはどう生きるか」を問いかけているように思えてなりません。

 (了)

 


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