「生きる」大川小学校 津波裁判を闘った人たち


トルコ、シリアで起こった大地震の大きな被害の映像を見ていると、まもなく12年を迎える東日本大震災の映像を思い出します。 親族を亡くした人たちの声はなぜがあふれています。

2011年3月11日に起きた東日本大震災では、さまざまな被害が映像として流れてました。一方で、宮城県釜石市では、“釜石の奇蹟”といわれた釜石小学校の児童たちからは、誰一人死者を出しませんでした。さまざまな被害と奇蹟の物語が映像となってドキュメンタリー映画などになっています。

震災後、被災地に何度か足を運び、取材してきた私は、釜石や大川小学校にも足を運んでいます。なぜ? という言葉が記憶の奥にはまり込み、どうしてという言葉とともに記憶の引出にしまい込んでいました。ニュースで大川小学校の裁判の様子が流れていることは知っていましたが、あくまでも毎日流れるニュースの1つとしか映っていませんでした。東日本大震災12年を迎える前に、その裁判 にいたるまでの残された親たちの苦悩と裁判結審までを描かれた映画がまもなく公開されます。

12年経って、まだ復興途上という中で、なぜ被害がこんなに拡大したのかは全くわかっていないことが多くあります。その中で、宮城県石巻にある大川小学校では、全児童の7割に当たる74名(うち4名は未だ行方不明)、教職員10名が犠牲になりました。地震発生から津波が学校に到達するまで約51分、ラジオや行政防災無線で津波情報は学校側にも伝わりスクールバスも待機していました。にもかかわらず、この震災で大川小学校は唯一多数の犠牲者を出しました。「裏山に逃げたら生き延びられたのでは?」「死んだ子供たちの最後が知りたい」という 親たちの切なる願いに対し、行政の対応には誠意が感じられず、その説明に嘘や隠ぺいがあると感じた親たちは事実がはっきりしないことが納得できず、真実を求め、石巻市と宮城県を被告にして国家賠償を求める提訴に至ります。裁判の代理人を務めた弁護士は、吉岡和弘、齋藤雅弘のたった2人です。

裁判を起こした当初、「金がほしいのか」といういわれのない誹謗中傷も浴びせられるなど、脅迫まがいのことも起こります。しかし、親たちは、“わが子の事実上の代理人弁護士”となって証拠集めに奔走し、2人の弁護団とともに、5年にもわたる裁判で「画期的」といわれた判決を勝ち取ります。親たちは決して裁判を起こしたかったわけではありません。なぜ、自分たちの子どもが津波にさらわれ死を迎えなければならなかったのか知りたいだけの闘いでした。残された親たちの苦悩が裁判の際、掲げられた大段幕「先生のいうことを聞いたのに!!」という言葉が胸に刺さります。

今後同じような犠牲者が出ないようにしてほしいという親たちの声と苦悩が一貫して描かれています。そこには大切な子どもを失ってなお、生きいかなければならない親たちとともに「生きるとは?」何かを観るものに訴えています。ぜひ映画館に足を運んで観てください。決して楽しい映画ではありませんが、私たちが 忘れてはいけない犠牲者たちに変わって奮闘した親たちの記録です。

中村恵里香(ライター)

2023218日(土)より新宿K'sシネマにてロードショー

全国順次公開

公式ホームページ:https://ikiru-okawafilm.com/

スタッフ

監督:寺田和弘/プロデューサー:松本裕子/撮影:藤田和也、山口正芳/音効:宮本陽一/編集:加藤裕也/MA:髙梨智史/協力:大川小学校児童津波被災遺族原告団、吉岡和弘、齋藤雅弘/主題歌:「駆けて来てよ」(歌:廣瀬奏) /バリアフリー版制作:NPOメディア・アクセス・サポートセンター/助成:文化庁文化芸術振興費補助金(映画創造活動支援事業)、独立行政法人日本芸術文化振興会/製作:()パオネットワーク/宣伝美術:追川恵子/配給:きろくびと

2022/日本/16:9/カラー/124

©︎2022 PAO NETWORK INC.


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