あき(カトリック横浜教区信徒)
「アイ・ラブ・ユー」とは、言いませんでしたが、信仰告白ならぬ愛の告白をしたのが24歳の時。結婚して小さなアパートに住み、子どもを授かって毎日が忙しかった日々。
当時の休みと言えば古本屋で本を借りたり、博物館・美術館に行ったりして、近場で楽しんでいました。
ドライブが好きだったので、久々の休暇をどう過ごそうかとふたりで計画を立てて、朝暗いうちから車で出発して暗くなる頃ご帰還。 裕福な生活ではありませんでしたが、「それが生活」と不思議に思わず、日増しに重くなる子どもに「落としたら大変」と腕がしびれても、動き回る子どもを抱えていたのを思い出します。
一生懸命生活してきた昭和。毎日が忙しかった昭和もいつしか遠くなりました。
子どもたちも大きくなり、それぞれ伴侶を迎え、独立して生活するようになった平成。
そして令和。「じじ~ばば~」とにこにこ・よちよちと孫に慕われる時を迎えました。
そんな人生を振り返ると、父が他界し母にお迎えが来て、気が付いたら自分が次の番になる今日この頃です。
思えば、わたしが子どもの頃。
鼻水を垂らしながら、暗くなるまで近所で遊びまわり、木枯らしに街灯がカラカラとなって揺れる音を聞きながら帰ると、「いつまで遊んでるの~」と母に尻をはたかれ、父からは「箸の持ち方がわるい」と叱られながら、毎度の鯵や鰯を「腸がうまいんだぞ」と魚をきれいに食べるのを教わりました。
そんな父母は人生をどう感じていたのでしょうか。
ご近所の方からも「そんなところに登っちゃ危ないよぉ」とよく叱られました。いつしか近所のおじさん・おばさんの声も少しずつ無くなりました。
今、改めて父母の若い頃を思い出します。
父母や子どもたちの代わりに4年前に犬が家族になりました。毎朝、「散歩に連れてってぇ」とせがむ愛犬を連れて、ラジオ体操が響く近所の公園を散歩するようになりました。
家に戻り、愛犬の世話をして、ほっとしていると、テーブルに朝食が並びます。「健康にいいんだから」と玄米やらオートミールを食べながら「白米がいいなぁ」と小さな声で話すわたし。
こんな生活に、「アイ・ラブ・ユー」という言葉は似あわないでしょう。
日本男児たるもの、そんな言葉は使いません(笑)。
でも日々の暮らしの中に感謝があり、笑いがあり。そこには「愛」があると思います。
何気ない日々の暮らしの中に愛があります。
きっと、わたしの父母もそうやって暮らしてきたのでしょう。
わたしの妻は、近所の家を借りて「こどもの家」という活動をしています。
放課後の子どもたちを中心にお母さん方やご近所さんとコミュニケーションをとる活動です。
何気ない、夫婦愛・親子愛・ご近所のお付き合い、人とのふれあい。
話し合い・互いに助け合う姿の中に肩の張らない普通の「愛」の交流があります。
「愛」とは特別なものではなく、普通の生活の中にあるもの。
一人で「愛」は生まれません。
特別な「愛」の形もありますが、笑い・気づき合い・助け合い・感じ合いながら、感謝して生きるのも「愛」の形。
私たちの先祖が営々と育んできたように。