特集67 愛を感じるとき


「愛」の実感のうちに現れるもの

「愛」ということばが巷にあふれています。ポップスの歌詞やドラマのセリフは、ある意味で「愛」が主人公のようです。ことばとして、主題として語られたり、語ったりすることが多いのは、ある意味で現代の特徴かもしれません。それは個人主体が軸となっての男女関係、夫婦関係、家族関係が基本となっているという社会のありようの反映でもあるのでしょう。ただ、これほど「愛」ということばが、広まるために大きなきっかけをつくったのは、やはりキリスト教の影響だったのではないでしょうか。

神を愛しなさい、隣人を愛しなさい、互いに愛し合いなさい、あなたの敵をも愛しなさい……という呼びかけが、イエスの教えの特徴をなしていることは、ある意味での衝撃となって人々の心に響いてきました。聖書の日本語訳としても早くから、この教えのことばを「愛」と訳すことが慣例化したことも、日本語の世界での「愛」の位置づけに大きな影響があったと思います。

こうして、ことばとして、テーマとして、現象として語られる愛に対して、わたしたちは、愛の実感の真実を問いかけてみたいと思います。愛を感じるとき、そこにあるものは何でしょう。その実感に身を浸し、見つめ、そこにあるものと対話し、自分自身のことばにしようとしてみるとき、そこには、何か新しいものが現れてくるのではないでしょうか。さまざまな関係の中の愛……恋愛、友愛、家族愛、兄弟愛、姉妹愛、人類愛、愛国心、愛郷心など、その愛の根底は、さらにもっと深いものが息づいているのでは?

今、愛という字が上につく熟語を調べてみると、一方で、愛玩、愛着、愛欲といった欲や執着に傾く愛も見られますが、他方で、愛護、愛育、愛憐、愛憫といった熟語も見つかります。これらは「慈しみの愛」「憐れみの愛」「慈愛」の世界を示しています。「愛」のみが突出して語られがちなとき、もしかしたら、「慈しみ」とか「憐れみ」といったことばで補って考えていく必要もあるのではないかと思います。愛を感じ、考えるとき心に留めてみたいことです。それは、たぶん、キリスト教の愛にも通じているはずです。

昨今、人類を悩ませるウイルス禍、あろうことかの軍事侵攻、核戦争の脅威、世間に瀰漫(びまん)する悪の所業、経済困窮、飢餓、社会機構が個人に迫るパワー……そのような現象の下でとかく「生きづらさ」を感じてならない、わたしたちの、真実への渇望の共有を目指して、「愛」についての想いを寄せ合い、読み合い、それぞれの考えを深めるための糧にしてみたいと思います。一回の特集としてではなく、これからも、寄稿し続けられるようなテーマにもして、このAMOR(=ラテン語で「愛」)が、希望の共有の場となってゆけたら、と思っています。ぜひ、よろしくお願いいたします。

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