酒井瞳(日本福音ルーテル教会信徒)
フランシスコ教皇がついに帰天されました。こんなに大事な人が死んでも、世界は変わらずに動き続けています。社会も、日々も何も変わりません。ただ1人の人と慕う方をこの世界から失っても、わたしの時間と生活は絶え間なく続いています。世界は何も変わらない、誰が死んでも。フランシスコ教皇が亡くなった次の日に大学に行くと、そこには笑い声があふれていました。フランシスコ教皇が大学に来た時、あんなに喜んでいたのに、どうしてなのか。この時わたしは正直かなりショックを受けました。それは空虚感に近い感覚で、人間って寂しいなぁと思いました。この複雑な感情は受難劇ほど激しくなくても、ある意味受難劇のような感覚に陥りました。私たちは、所詮ただの群衆に過ぎないのでしょうか。フランシスコ教皇のことが、大事だったんじゃなかったの? 誰よりも尊敬していたんじゃないの? そんな気持ちがぐるぐると駆け巡る中で、人生とは何か問いただしたい気持ちになりました。でも人間とはそういうものなのでしょうか。その日はとても強い寂しさと孤独感を味わいました。私のようなルーテル教会の信徒ですらこんな気持ちになっているのだから、カトリック信者はこの事態をどう受け止めているのかとても気になりました。
今回のフランシスコ教皇の件はいろいろな意味で心に刺さるものがありました。そして、フランシスコ教皇が何度も語った「いのち」について考えさせられました。そう、改めて、フランシスコ教皇の言葉の一つ一つの、その意味を考える必要があると感じました。わたしたちは大きな流れの中を生きています。時代、そして、いのちのうねりの中で生きています。無限と永遠の中でいのちは駆け巡っています。何度も自然が循環するかのように、生命も循環しています。季節や時も毎年規則正しく巡っています。このように、わたしたちは、いつも神の深い慈しみの流れの中を生きています。だから、悲しむ必要はないのでしょうけれど、でも、もう一度声が聞きたいとか、あの感覚に触れたいとか、困った時に一緒に居てほしいとか、将来何かがあった時に、フランシスコ教皇だったら、どうしたのだろうと考えるとは思うのです。フランシスコ教皇だったら、何と言って、どう行動するのかを、知りたい、気になります。そうやって故人に問いかけ、祈る事は大事なことだろうと感じます。そうやって過去から人類は生きてきたのだから。だから、今ここで考える必要があるのでしょう。
今フランシスコ教皇の回勅の『Dilexit nos(彼(イエス・キリスト)は私たちを愛してくださった)』を大学院の講義の中で読んでいますが、これはフランシスコ教皇の最後の回勅になります。この回勅にはフランシスコ教皇の人生における想いと共に「心」に対する重要性を語っていますが、その中ではフランシスコ教皇の大事な思い出話も出て、それがフランシスコ教皇の人格や思想や信仰を構成しているのだとよくわかる文書であります。私も今フランシスコ教皇へのノスタルジーの中で生きています。でも、どんなに時間が経っても、想いや愛は消えません。聖書にも愛は永遠に残り続けると語っているように、愛は決して滅びません。いつまでも記憶と想いはわたしたちの心の中で生きています。そう、死者たちは肉体を失い、この世界から完全に消えたのではありません。常に天から私たちを見守り、祈りを取り次いでくれます。
私の所属する教会活動の中で、教区の墓前礼拝が年に2回ありますが、いつもこのようなご葬儀やお墓参りをするときに白いカーネーションを捧げます。わたしは、この一輪の花に、死を超える何かを感じます。まるで天と地を結ぶ鍵のように感じています。死者がこの世界から、宇宙から、全くいなくなったとは思えない。目には見えなくて、聞こえなくても、この世を超えた場所からの、何かしらの呼びかけをしていると感じます。献花、この小さな一輪の花の中こそ、私たちが永遠の命と共に生きる天国につながる鍵があります。わたしはいつも、そう感じながら捧げています。わたしたちは常に過去から記憶や想いを受け継いでいます。前の者が大事にしてきたものを、次の世代が、大事にしています。だから、私もいつか自分が死ぬ時には、何を残せるのか、今はまだわからないけれど、今この時を大事にしようといつも考えさせられます。
特に、神学を勉強するうえで、この事を本当に何度も考えさせられます。故人の論文が、文献が、次の時代をつくっています。それまで評価されなかった論文や文献が急に大きな意味を持つこともありますし、生きている間に評価されなかったものが、死後急に大きな役割を果たすこともあります。そういった感情を日々受け取る中で、わたしは本当に、何か言葉を遺す意味について、強く考えさせられることがあります。人間は、何か生きた証を残したいという、本能的な願望があるように感じます。そして、その証を誰か後世に貢献したという願いもあるようです。私にも、その気持ちはわかりますし、きっと、人生とはそのようなものなのでしょう。
このように「生まれ変わる」という信仰が諸宗教にはありますが、キリスト教は輪廻転生を信じてはいません。でも、もし「生まれ変わる」ことがあるとしたら、何度生まれ変わっても、わたしは周りに、先人たちに、恩人たちに、私にイエス・キリストを教えてほしいと願います。18歳の時に出会った教会は、その後ずっと私の人生そのものでした。でも、その想いや信仰は私一人の力で維持されたのではなく、周りからの多大な配慮や愛情の中で培われた日々でした。わたしは障害を持っているため、特に目が悪くて本が読めなかった時期が長く続きましたが、そのような状態の私に諦めないで、繰り返し何度もイエス・キリストを語ってくれたことを、本当に感謝しています。私が障害者だからといって見捨てる事なく、根気強く共に生きてくれた事は奇跡のようなことだと思います。私は何度生まれ変わっても、教会と共に生きていきたいです。私にとってイエス・キリストはそういうお方だから。人知を超越した憐れみと慈しみと愛があります。そこに、本当の救いがあるのだと信じています。だから、私はいつまでも教会がこの世界からなくならないことを常に祈っています。教会はこの世界に必要だと、繰り返し語りたいのです。
私はフランシスコ教皇にわたしの夢であるエキュメニカルの結実であるルーテル教会とカトリック教会との完全相互陪餐と結婚の取次ぎの祈りをしていま
す。フランシスコ教皇は共にあゆむシノドスやエキュメニカルな活動の中で多くの功績を残しましたが、わたし自身がまだカトリック教会と関わりを持つためにも、そしてエキュメニカルな関係性がこれからの教会においても失わないでほしいと願っています。それにこれだけカトリック教会が諸宗教対話や諸教派対話を活発に行なっていただいた事に感謝しています。次の教皇のレオ14世にも、それらの事をお願いしたいです。個人的には今回この連載が14回目で、教皇のレオ14世が現れたことについても、何か深い関わりがあるようにかんじます。これから、また新しい歩みが始まると思うと、どんな教会になるのか、改めて不安と期待と、大きな希望に包まれます。
さようなら、わたしにとっての最初の教皇様。
私が猛烈なショックを受けたあの日の気持ちも、裏を返せばカトリック信者の強さを見たのだと後々思わされました。そうやって、使徒座はずっと継承され、世界中のカトリック教会が新たな歩みを始めるのだから。だから、悲しむ必要はないし、教会がこれからも終わらない事に神に感謝しないといけないと感じました。神が選んだ次の教皇が、全てのカトリック教会を守り支えてくださるのだから、その事に信頼しないといけないのでしょう。聖霊の働きを信じ、御父が示してくださったこの現実を受け止めなければいけないのでしょう。
最近わたしのFacebookには天国や死後のリール動画がたくさん出てきます。そこでは、過去の教皇たちが談話する場面や、フランシスコ教皇がイエス・キリストと会話している映像が流れます。このようにそれぞれの頭の中にあるみんなの天国のイメージが動画になっている事は、大変興味深い現象だと感じます。イエス様とフランシスコ教皇が楽しそうに会話している姿が映し出されているのを見る中で、想像上の産物ではあっても、ああ、そうなんだなぁ、地上で悲しんでいても、今ではフランシスコ教皇は天上の喜びの中にいるのかなと思えるようになりました。自分が思うよりも、きっと天国には考えられない喜びの中にあるのだろうなと感じ、深い慰めを受けました。きっと、フランシスコ教皇はずっと愛していたイエス・キリストに、やっと直接会って、至福の時間を過ごしているのだと感じます。そう、フランシスコ教皇は回勅や使徒的勧告のタイトルに何度も「喜び」という言葉を使っていますが、それがついに天において実現されているのだと感じるようになりました。だから、悲しむ必要はないのだと、自分に言い聞かせていました。
そして、わたしの中でのフランシスコ教皇との最後のお別れもしました。
カトリック関口教会と聖イグナチオ教会の追悼ミサにも参加し、その後アンコール上映された『旅するローマ教皇』と『ローマ法王になる日まで』の映画も観ました。
そして友人と『ローマ法王になる日まで』の映画を観た後に、公園で夕焼けと月を見ながら、フランシスコ教皇の次の教皇は誰になるのだろう、どんな人になるのだろうと会話をしました。こうやって思い悩み悲しみ、深い感傷の中にあっても、バチカンも東京も、同じ月をみています。同じ悲壮感や喪失感を抱えながら、同じ空の下で生きています。その時はコンクラーベが行われていましたが、それは何か物凄く寂しいだけの感情ではないと気付きました。ただただ、いのちをかけて教会を守ったフランシスコ教皇の想いに深く触れる体験となりました。フランシスコ教皇は、もう此処にはいないわけではないのです。この世界から消えたわけではありません。むしろ、バチカンや世界を超えて、もっと身近な存在になっているのかもしれません。いつも天から見守ってくれているし、私たちのために取次をし、祝福してくれています。そう、天においても、私たちのことを絶えず心に留めてくれているのです。そう思える時間が与えられました。
そして、この日の帰宅後に、コンクラーベの結果が出て、レオ14世教皇が選出されました。わたしのなかでは、フランシスコ教皇と最後のお別れをやりきった後だったので、タイミングとしてはとても感慨深いものでした。あの白い煙をみて、バチカンの多くの人々が歓喜の声を上げる姿をみると、わたしも、この歴史と時代の流れの中で生きているということを実感しました。ああ、神が働いてくださったのだと、改めて受け取る機会となりました。
レオ14世教皇にも、たくさんイエス・キリストの話を世界中にしていただきたいです。私は神が選んでくださった新しい教皇に、深い信頼と尊敬と、限りない想いを感じています。
私にイエス・キリストを教えてくださったのはルーテル教会だけど、でも、カトリック教会にも深い神の働きを感じます。私は、ルーテル教会にもカトリック教会にも、他の聖公会や福音派や多くのプロテスタントのキリストの教会にも、神の深い愛を感じます。どうか私以外のひとの信仰も、守られますように。この記事を読んでくださる一人ひとりの上に、神様の存在が伝わりますように。どうか一人でも多くの人に、神の豊かな祝福と愛が届きますように。そう願う昨今でした。