ミサのラジオ放送


松橋輝子(音楽学)

1935年9月29日の聖ミカエルの祝日、長崎の大浦天主堂で行われた荘厳ミサの実況中継が全国に向けて放送された。10月13日付の『日本カトリック新聞』では、「殉教の丘を越え『サンタ・マリアの鐘』が全日本に響き渡る――長崎大浦天主堂のミサ實況放送」と題して、その報告記事が掲載された。豊臣秀吉以来、250年以上に及ぶキリスト教の迫害と弾圧の歴史を見てきた長崎、そしてまさに26名が殉教した西坂の丘を越えて、日本全土に教会の鐘と音楽が響いたことは、多くの人に深い感動を呼んだに違いない。

このミサでは、長崎教区司祭であり、当時長崎神学校校長をつとめていた浦川和三郎(1876~1955)が司式司祭をつとめ、長崎西中町主任司祭の山口愛次郎(1894~1976、のちの第2代長崎司教)が助祭を、さらに長崎神学校在学の平山庄吉(1936年叙階、1945年戦死)が副助祭を務めた。ミサの中の音楽は長崎神学校聖歌隊が担当し、指揮は教区司祭大窄政吉(1933年叙階)、オルガンは中島政利神学生(1947年叙階、1916~?)であった。

司祭団の入堂に伴い、〈見よ、これぞ大祭司 Ecce sacerdos magnus〉の三部合唱が歌われ、続いてグレゴリオ聖歌による入祭唱が唱えられた。ミサの進行に伴い、ローマのサン・ピエトロ大聖堂附属コーラスの指揮者で作曲家ペロージ(Lorenzo Perosi, 1872~1956)の三部合唱ミサ曲〈キリエ〉〈グローリア〉〈クレド〉と演奏された。放送は予定の40分が過ぎたところで終了し、説教などは放送終了後に行われたという。放送時間のほとんどは聖歌が占めており、これはまさに「聖歌を聞かせるための放送」であった。放送を通じて、宗教的な感情を呼び起こされた人も多く、実際に、放送終了後に教会に足を運んだ人もいたという。

この日のミサで特筆すべきは、司式も演奏も全て日本人によるものであった点である。当時の新聞評によれば、5年前には決して上手といえなかった日本人神学生の合唱が、時を経て、この放送では、大変よい響きを聴かせた。1865年の歴史的な信徒発見から70年余り、宣教師による懸命な再宣教の実が結んだ出来事といえる。

当時の日本人にとって、ラジオを通じてミサに接するという体験は、日常の中にふと立ち現れるキリスト教との出会いであり、同時に西洋音楽との出会いの契機でもあったと想像される。

 


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です