リシュリュー枢機卿


石川雄一(教会史家)

リシュリュー枢機卿は世界史上最も有名な枢機卿の一人ではないでしょうか。ルイ13世の時代に政権を握っていたリシュリュー枢機卿は、対抗宗教改革の推進と教会の風紀改善に着手した聖職者であり、フランスの脱封建化と中央集権化により絶対王政を確立した政治家でもありました。また、『三銃士』の悪役としてもよく知られています。

「枢機卿特集」にあたって、今回は、歴史を動かした大政治家であるリシュリュー枢機卿を紹介します。聖職者である彼はなぜフランス史を動かすほどの政治的権力を持てたのでしょうか。なぜ、教会の人でありながら中央集権化を促進したのでしょうか。こうした謎に迫ってまいりましょう。

 

時代背景

後にリシュリュー枢機卿=公爵と呼ばれることとなるアルマン・ジャン・デュ・プレシーは、1585年にフランス西部の下級貴族の家に生まれました。リシュリューが5歳の時、国王に仕えていた父が病没したことにより一家は負債を抱えてしまいます。貴族の生まれとはいえ、リシュリューの少年期は安楽なものではなかったのです。優秀であったリシュリュー少年は、半世紀前にフランシスコ・ザビエルも在籍していたパリ大学で哲学の勉強をし、なんと21歳の若さで司教になりました。

そんなリシュリューが生まれ育った時代は、フランスだけでなくヨーロッパ全土が宗教対立に悩まされている時期でした。1517年にドイツで始まった宗教改革は、北欧、スイス、英国、そしてフランスといったヨーロッパ各地に広がり、カトリックとプロテスタントの対立は激化していきました。こうした宗教対立は政治問題と複雑に絡み合い、武力衝突にも発展していきます。

フランスでは当初、人文学に理解を示したフランソワ1世のもとで比較的寛容な政策がとられていました。ですが、王様の寝室に反カトリックのビラが貼られるという衝撃的な「檄文事件」を受けて態度を硬化させたフランソワ1世は、ユグノーと呼ばれるプロテスタントを弾圧し、プロテスタントとカトリックの間の「宗教戦争」が勃発しました。カトリックの王家とブルボン家などのプロテスタント貴族の争いは長引き、1589年には国王アンリ3世が暗殺されてヴァロワ王朝は断絶してしまいます。新たな王となってブルボン朝を開いたアンリ4世は、プロテスタントからカトリックに改宗し、「ナントの王令」で宗教寛容を宣言することで「宗教戦争」はひとまずの終息を見せました。

こうした衝突がある一方で、プロテスタントの批判を受けたカトリック教会はトリエント公会議に代表される刷新、いわゆる対抗宗教改革を実施し、反省や対話の可能性も開いていましたが、それでも教会内では守旧派が大勢を占めており、腐敗や教派対立は深刻な問題であり続けました。このような状況の中、リシュリューは対抗宗教改革を推進する刷新派として、教区の風紀改善に努めました。

 

出世

プロテスタントからカトリックに改宗して宗教寛容政策をとったアンリ4世は、1610年、過激なカトリック信者により暗殺されてしまいます。9歳でフランス王となったルイ13世の代わりに実権を握ったのは、イタリアの富豪であるメディチ家出身のマリーでした。ハプスブルク家の血も引くイタリア人マリーは、イタリアやハプスブルク家を重んじたためフランス人貴族の反発を買い、フランスは再び内乱の危機に瀕します。緊張状態に陥ったフランスは、1614年に貴族、聖職者、市民の三身分の代表からなる議会である三部会を招集します。この三部会に聖職者代表として参加した人物の一人が、ほかならぬリシュリューでした。

ジョゼフ神父という優秀な補佐役を見出していたリシュリューは、三部会で対抗宗教改革の導入などを認めさせる実績を残し、頭角を現しました。その類稀な能力に着目した母后マリーはリシュリューを登用し、彼を大臣に任命します。また、ルイ13世の后であるハプスブルク家出身のアンヌ・ドートリッシュ付きの司祭にもなったリシュリューは、急速に宮廷と政界で影響力を広げていきました。

ところでこの頃、既に成人していたルイ13世は、いつまでも権力を手放さない母を疎ましく思うようになっていました。1617年、そんなルイ13世は友人のリュイヌと共に、なんと王様でありながらクーデタをおこしたのです! 母后マリーは幽閉され、彼女に登用された人々は投獄や処刑の憂き目にあいました。リシュリューも例外ではなく、権力を奪われ、アヴィニョンに追放されてしまいます。

母から実権を奪ったルイ13世ですが、いざ権力を手にするとそれを持て余すようになり、政治を友人リュイヌに一任するようになりました。こうして今度はリュイヌが政権を担うようになったわけですが、彼に対して不満を抱く人は当然おり、そんな人々は幽閉されている母后マリーの下に集っていきました。反リュイヌ派の支持を受けたマリーは政権奪還のため反乱をおこし、再びフランスは内戦状態に陥るかに思われました。ですが、母と戦いたくないルイ13世は、リシュリューを呼び戻し、交渉により内戦を回避する道を模索させます。そして、リシュリューは見事にマリーとの間を取り持つことに成功したのです。この実績が認められ、リシュリューは枢機卿に叙されました。

1621年にリュイヌが病没すると、母后マリーやリシュリュー枢機卿らから構成される国務会議が実権を握ることとなりました。この国務会議で政敵を次々と失脚させていったリシュリュー枢機卿は、その中心人物となり、やがて正式に宰相として政権を握ることとなります。

 

宰相リシュリュー枢機卿

1598年の「ナントの王令」によりプロテスタントは存在を認められましたが、四半世紀の間に宗教寛容の精神は形骸化していました。そうした現状に不満を抱いたプロテスタントは、同じくプロテスタントを奉じる英国の支援を受けて蜂起しました。これに対しリシュリュー枢機卿は、有名なラ・ロシェルの攻囲戦で応じました。

中世以来の封建制のもとで地方貴族が強大な力を有していることが数々の内乱や反乱を引き起こしていると考えたリシュリュー枢機卿は、中央集権化による国の安定を図ることとしました。つまり、リシュリュー枢機卿は国内の平和と安定のために中央集権化を目指したといってもよいでしょう。貴族が保有していた城塞の破壊を命じ、決闘を禁じたリシュリュー枢機卿の改革は、当然のことながら旧来の貴族から強い反発にあいました。

リシュリュー枢機卿を疎ましく思う守旧派貴族は、彼に絶大な信頼を置く王ルイ13世に代わって、その弟ガストンを王位につけようとしました。1632年には大貴族がガストンを擁立して反乱をおこしますが、リシュリュー枢機卿はこれを弾圧してルイ13世の王位を守りました。大貴族たちによる陰謀はリシュリュー枢機卿を失脚させるどころか、かえって王の彼への信頼を高める結果につながったのです。

大の猫好きで、ジョゼフ神父と仕事中に猫と遊ぶリシュリュー枢機卿(出典:https://www.dia.org/art/collection/object/cardinals-leisure-42360

ところで、ここで国際情勢に目を転じてみますと、当時のヨーロッパは、ハプスブルク家を中心とするカトリック陣営とプロテスタント同盟軍の戦争である「三十年戦争」という大戦争に揺れていました。フランスはカトリックの国であり、しかもカトリック教会の枢機卿が実権を握っているため、カトリック陣営に加わるのが自然です。しかし、リシュリュー枢機卿はカトリック陣営には加わらず、何とプロテスタント同盟を支援するという驚くべき決断を下しました。

神聖ローマ帝国とスペインというハプスブルク家が治める二つの国に挟まれるフランスがカトリック陣営に参加したのであれば、ハプスブルク家を増長させてフランスの国益に害を与える可能性がある。そうであるならば、むしろ、ハプスブルク家と敵対するプロテスタント同盟を支援した方がフランスのためになる。そう考えたリシュリュー枢機卿は、現実政治的な観点から教派対立よりも国益を優先し、プロテスタント陣営に加わったのでした。

カトリックの高位聖職者でありながら、カトリック勢力と対立するプロテスタント同盟を支援するのは裏切りだと思う人は大勢いました。ですが、フランスがプロテスタント同盟に加わることでカトリック信徒が助かったこともありました。例えば、1631年に締結されたベールヴァルデ条約では、フランスがプロテスタントのスウェーデンに資金提供をする見返りに、スウェーデン国内のカトリック信徒の安全が保障されました。

リシュリュー枢機卿は、カトリックを裏切った背信者ではありませんでした。対抗宗教改革を導入し、1637年にはルイ13世を説得してフランス王国を聖母マリアに奉献させたリシュリュー枢機卿は、まごうことなきカトリック信者でしたが、狭量な教派主義に拘泥することなく、柔軟な考えを持って行動した近代的な政治家だったのです。

ですが、当時、リシュリュー枢機卿の政治的判断を理解した者はほとんどおらず、多くのカトリック信者は彼を裏切り者と非難しました。ローマ教皇やイエズス会士、さらには腹心のジョゼフ神父もリシュリュー枢機卿と不仲になってしまいます。カトリック教会に忠実な人々は「信心派」(Dévots)と呼ばれる政治党派を結成し、リシュリュー枢機卿と対立する守旧派貴族の下に集いました。そして、戦争のための増税に反発した平民が1639年に「裸足の乱」という一揆をおこすと、1641年に守旧派貴族たちもリシュリュー枢機卿打倒の反乱をおこします。

もともと体の弱かったリシュリュー枢機卿は、過労からさらに体調を悪化させていきました。それに加え敵対者からの度重なる攻撃によって、彼の心と体は苦しめられました。自分で歩けないときは担架に乗ってでも軍を指揮したとされるリシュリュー枢機卿は、マラリアに罹り、1642年12月に57歳でこの世を去りました。そして彼の後を追うように、国王ルイ13世も1643年5月14日に没したのです。

新たに国王となったルイ14世はまだ4歳の子供であったため、政治的な実権はリシュリュー枢機卿の後継者であるマザラン枢機卿が握ることとなりました。新たな政治家枢機卿の登場です。リシュリュー枢機卿によって整えられた中央集権化の道、つまり、絶対王政に向けられた路線はマザラン枢機卿に引き継がれ、「朕は国家なり」で知られるルイ14世の時代に完成を見ることとなります。

ここまでリシュリュー枢機卿の人生を駆け足で見てきました。世界史に名を残す偉人であるリシュリュー枢機卿に関して述べたいことはまだまだありますが、今回は導入としてこれくらいに留めておきましょう。

リシュリュー枢機卿は、数え切れないほど多くの本や芸術の題材となってきました。冒頭にあげた『三銃士』や「ペンは剣よりも強し」で知られる戯曲『リシュリュー』など様々な名作があります。今回の記事でリシュリュー枢機卿に興味を持たれた方は、それらを通じて虚実混交のリシュリュー像に触れてもいいでしょうし、真面目な本を読んで理解を深めてもよいでしょう。

 


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