森 裕行(縄文小説家)
私は生まれてすぐに大田区の羽田飛行場の近くで両親と一年くらい住んだ。もちろん記憶はないが、大森周辺にはとても親しみを覚える。そこには有名な大森貝塚があり、日本の考古学の父ともいえるE.S.モースにより発見され1879年には英文「大森貝塚」が刊行された。JR大森駅にはプラットフォームにモニュメントがあり、駅を降りてしばらく歩き、遺跡公園(品川区)に入るとモースの銅像が迎えてくれて何かウキウキする。
さて、この大森貝塚を実際に発掘した小説家がいる。江見水蔭(えみすいいん)は縄文遺跡を実際に発掘し、発掘の記録や小説を書いている。五感や喜怒哀楽を大切にして縄文時代を描こうとした文筆家の先駆けである。その江見水蔭が1909年に発表した「地中の秘密・探検実記」(博文堂)の中には、大森貝塚で運良く家主から発掘が許され、夢中で貝塚を掘り下げ土偶らしきものを見つけ、「万歳」と叫び喜んで洗ったところ黒焦げの獣骨の一部で、残念がる様子も描かれている。貝塚で焼けた獣骨というと不思議にお思いの方も多いと思うが、一般に酸性の強い日本の土壌では骨など有機物は溶けて残らないが、貝塚や低湿地遺跡、岩陰遺跡などでは有機物が残りやすい。話は戻るが江見水蔭が土偶発見と歓喜の声を上げ、獣骨(縄文時代はイノシシが代表的)に落胆したのは、今の私にとってとても意味深長であった。
貝塚とイノシシ。私は縄文時代の特徴を端的に表す言葉ではないかと思う。
船橋市に取掛西貝塚がある。最近国史跡に認定された。縄文早期前葉の約10,000年前の住居址が有名だが、当時現場で発掘に何回か参加された安孫子昭二氏によれば、台地一帯に早期平坂式・大浦山式期の大集落が広がると見通され。さらに、シジミの貝層を伴う早期前半の大形住居の跡地で、狩猟獣であるイノシシ供儀の儀礼と思われる遺構も見つかった。
一方、取掛西貝塚と同じ頃、伊豆大島の下高洞(しもたかぼら)遺跡から、本来は島嶼に棲息しないイノシシ成獣骨が多数出土した。おそらく、本土からの移住者がイノシシ幼獣を持ち込んで飼養したものであろうと注目された。私はヤンガードリアス期(12800年―12000年前頃の寒の戻り)が終わり、縄文早期が始まり急激な温暖化と海進の中で、本格的な定住化が進み、関東でもイノシシ飼養が始まっていたこと。さらに、貝塚という縄文時代に固有の場所が、貝だけでなくイノシシをはじめとする生き物の墓場という意味合いを持ち、生き物の魂の送り場であったと確信している。土器等が同じように出土したり、建物跡(廃屋)であったりするのも、それが魂と深い関係を持つ存在であり、役目を終えたモノと考えられたのだろう。物質文明のわれわれにとってはゴミ捨て場に見えがちだが、聖なる送り場で全く違うのである。死と再生が不思議にむすびつく独特の世界観が背景にあるのである。
さて、後半は再び子抱き土偶について、縄文時代の本質を忘れずに俯瞰しつつ、素朴な疑問に答えてみたい。
1.何故極めて珍しい母子像の土偶が発掘されたのだろうか?
縄文早期中葉の関東には、日本での土偶の原型的な花輪台の土偶が出現している。それは掌に収まる小形で、頭部のない女性の像。女性の像が土偶では殆どと言われるが、母親から生まれ育まれる経験は人にとって愛される普遍的な経験でもあるのだろう。それを思い起こすことは成長してから人を愛する源泉となり、個人にとっても社会にとっても大きな意味を持つ。そんな土偶文化の延長上に、女性の出産や乳幼児の死亡にこころを痛めていた勝坂・井戸尻文化圏の関東西南部・甲信地区の人々がいる。江戸時代前の状況を考えれば、出産時や乳幼児の死亡率が現在と比べればはるかに高く危険であったことは容易に想像できる。そんな危険を乗り越えるべく考案された祈りの道具だったのではないだろうか。広い意味での医療従事者であり、精神文化を担っていた村の祈祷師が子抱き土偶を使ったと思われる。
なお、縄文時代の平均寿命がよく問題になるが、15歳の平均余命を約16年とした小林和正氏(1979)の説は有名だが、長岡朋人氏の説(2008)は31.5年(15歳時)としている。これは骨盤の腸骨耳状面の観察とベイズ推定法を採用しており、内山純蔵氏によると江戸時代の都市部とほぼ同じとのこと。
2.子抱土偶の頭部は何故欠かれていたか。
これは井戸尻・勝坂期の土偶に一般に言えることだが、土偶は命を支える魂(地母神、精霊)を持つモノと考えられていたので、使用が終わった段階で頭を搔きとったり全体を破壊したりし、魂抜き・送りをしたのだろう。子抱き土偶は竪穴住居址の周溝南側に置かれていた。
3.子抱き土偶の異常に盛り上がった背中や特徴的な刺突文は何を意味していたのか、さらに底部の産道 と考えられる穴を含む図像は何か。
安産、出産の無事、乳の出を母子像に託すだけでなく、重層的に多産のイノシシにあやかる意味があり、イノシシの特徴も重ねて造形した祈りの道具であったことが読み取れる。さらに、底部の産道の穴を利用したイノシシと思われる図像は、多産なイノシシに、祈祷師や村人の願いや心情を込めたものと推察される。
補足するが、同時代で近隣の楢原遺跡の鳴る土偶にも子抱き土偶と同様に底部の産道の穴を利用したイノシシの眼と思われる図像が読み取れる。
また同じ誕生土偶の中の壺を持つ土偶にもイノシシの眼と思われるもの、あるいは鼻とおもわれる図像も見いだせる。
この中で、イノシシの眼が何故片目(隻眼)かだが、イノシシに安産を願う村人の願いが、こころを安定化させる防衛機制の心理と関係するものと容易に想像できるが、危険な当時の出産を考えると彼らの心中は複雑で、心の「投影」もはたらき片目になったり、底部産道も表現の一部に使われたりするのではないだろうか。こんな深層心理学は味気ないが、日本だけではないが眼玉と母子をめぐる昔話も気になる。近江八景の中に「三井寺の晩鐘」がある。男が琵琶湖の龍神の化身である女性と結婚して子供ができるが、本性が見抜かれたため湖に戻らねばならない龍女が子供に乳が与えられない替わりに、眼玉を子に与えてしゃぶらせるという話だ。このような伝承も、研究してみる価値がありそうだ。
4.大きな母の臍は何を意味しているか?
腋窩の穴と考えられ、地母神の象徴である月が生まれ、赤ちゃんの頭と重なる。
背負う土偶や井戸尻の神像筒形土器などから分かる腋窩の穴や天体のイメージや神話は、日本だけではなく環太平洋や古ヨーロッパをはじめ、エデンの園ではと言われる11500年前のトルコのギョベクリ・テペ遺跡に及び、起源は旧石器時代にまで遡るかもしれない。これについては別の機会に詳細にご報告したい。
縄文時代の理解を深めるためには、縄文人と同じようなアニミズム的感性が必要なのだと思う。それは今の行きづまった世界を乗り越えるためにも。キリスト教や仏教、神道などの宗教や哲学を問わず、誰にでも必要なことのように思う。そんなことから、恥ずかしながら私の一年の抱負は「五感で体感し、喜怒哀楽を大切にし、真善美を追求する」にしたい。
今回は、貝塚について内山純蔵氏の国際縄文学協会での講座「考古学・人類学からみる「縄文」の定義と貝塚」を参考にさせていただき、貴重なアドバイスも頂いた。深く感謝いたします。