たしかにイエスの誕生を記す、マタイ福音書でも主の天使がヨセフに対して夢の中で現れて、マリアが聖霊によって身ごもったこと、生まれる男の子をイエスと名付けることを告げる(マタイ1:20-21)。
ルカ福音書では、天使ガブリエル(ルカ1:19参照)が祭司ザカリアに現れて洗礼者ヨハネの誕生を予告する(同1:11-17)。6か月後にはガブリエルがマリアに現れて今度はイエスの誕生を告げる(同1:26-38)。
この告知がなされると、突然、この天使に天の大軍が加わり、「いと高きところに栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と栄光の賛歌の冒頭にもなっている賛美が歌われる(同2:13-15)という展開です。
「『天使』とは、本性ではなく役目を指していることばです。それでは、その本性はなんと呼ぶのですか、とあなたは問うでしょう。その答えは霊です」(329項)と、まず霊的存在、つまりは霊だというのが教えの出発点にあります。
実際、私たちも降誕の出来事については、ヨセフとかマリアとか、なによりも生まれた幼子イエス、さらには、ザカリアや洗礼者ヨハネといった人間たち(イエスも含めて)の存在の印象のほうが強くないでしょうか。
そして、その根本には神自身がいることに。主の天使、あるいは天使ガブリエルも重要な役目(主の使いとしての)を果たしていますが、あまり印象に残らないというか、脇役に徹しているという気がするのです。
ところで、降誕の場面ではある歴史を物語る叙述の中に登場する存在として、わりと客観的に考えられるんだけど、もっと気になるところがあるんだよねー。
それから、奉献文の部で、叙唱から「感謝の賛歌(サンクトゥス)に移り行くところで、いろいろなパターンがあるけど、たとえば、「神の威光をあがめ、権能を敬うすべての天使とともに、わたしたちもあなたの栄光を終わりなくほめ歌います」といった文言があるんだ。
すべての聖人といったら、聖ペトロやアシジの聖フランシスコとかいろいろな聖人がいるから思い浮かぶのだけれど、天使ってそんなにたくさん知らないんだ。どう考えたらいいのかな?
天使というのも、決してルネサンス時代の絵画で、定型となっていくような天使像だけではない、というか、もっとつかみどころのない存在も含まれているみたいです。
「わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。『聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う』」(1~3節)。
「ソロモンはオリーブ材で二体のケルビムを作り、内陣に据えた。……ソロモンはこのケルビムを神殿の奥に置いた。二体のケルビムはそれぞれ翼を広げ、一方のケルビムの翼が一方の壁に触れ、もう一方のケルビムの翼も、もう一方の壁に触れていた。また、それぞれの内側に向かった翼は接し合っていた」。
「主の栄光はケルビムの上から立ち上がり、神殿の敷居に向かった。神殿は雲で満たされ、庭は主の栄光の輝きで満たされた。ケルビムの翼の羽ばたく音は外庭にまで聞こえ、全能の神が語られる御声のようであった。……ケルビムにはそれぞれ四つの顔があり、第一の顔はケルビムの顔、第二の顔は人間の顔、第三の顔は獅子の顔、そして第四の顔は鷲の顔であった。ケルビムは上った。これがケバル川のほとりでわたしが見たあの生き物である」
――この生き物のことはエゼキエル書1章に詳しく述べられています。読んでみてください。それぞれが四つの顔を持つこと、翼があることが特徴です。
「主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた」
――この三人についても天使と考えられたり、神と考えられたりしています。ここでは、主の使い、といった言葉はないですが、主の使い、つまり天使のことは旧約聖書にたくさん出てくるんですよ。
イエスの誕生を巡って登場する、ガブリエルは「神の人」ないし「神はわたしの勇者」という意味で、ルカに2回(1;19、26)言及されていて、そこでは「神の前に立つ者」(1:19)と説明されています。このほかは、旧約の預言書ダニエル書に2回(8:16;9:21)登場するだけです。
ただ神のことばを伝えるという役目ではなく、嘆き苦しむ、信仰篤きトビトとサラをいやすという役目で登場するのが重要に思います。
そして12章では、「その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう、お前の民、あの書に記された人々は。多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々は、とこしえに星と輝く」(1~3節)とあります。
マタイ福音書24章29-31節に「その苦難の日々の後、たちまち太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」とあります。
「さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。わたしは、天で大きな声が次のように言うのを、聞いた。『今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。神のメシアの権威が現れた。我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、投げ落とされたからである兄弟たちは、小羊の血と自分たちの証しの言葉とで、彼に打ち勝った。彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった」(7~11節)
ちなみにミカエルという名前は「だれが神のようであるか」という問いかけを意味しているようで、ほとんど神に似た者というぎりぎりの存在のようです。
旧約聖書でもダニエル書やトビト記などは紀元前3~2世紀ごろのものなので、地中海世界の紀元前後がとても盛んで、教父の時代まで続くようです。その中でもキリストの救い主の役割は天使の役割の極限でもあるところから、天使と同様に理解するような天使キリスト論も根強い思潮だったようです。
たとえば1章3-4節「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちの名より優れた名を受け継がれたからです」と。
「また、わたしは見た。そして、玉座と生き物と長老たちとの周りに、多くの天使の声を聞いた。その数は万の数万倍、千の数千倍であった。天使たちは大声でこう言った。『屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方です。』」
――ちなみにここでいう「生き物」というのは、4章6-8節で語られていて、「この玉座の中央とその周りに四つの生き物がいたが、前にも後ろにも一面に目があった。第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は若い雄牛のようで、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空を飛ぶ鷲のようであった。この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りにも内側にも、一面に目があった。彼らは、昼も夜も絶え間なく言い続けた。『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方。』」というのです。
さらに、聖人という考え方やその崇敬も発達してくるので、死んだ後も天上で神を礼拝し、地上の人間のために祈る存在としての聖人たちと天使たちとは、いつもつなげて考えられ、天上の教会を構成する存在と考えられているのですね。
それに日本語だと全部「天使」ということばがついているけれども、実際には支配権や権能や能力や権力など、天地宇宙の諸力のことが全部入っている気がする。それらは、いろいろな宗教で信じられている神々や霊力や精霊など、いろいろなものを指しているとも言われるよね。
それらの支配、権威、勢力、主権が悪と言っているわけでなく、いろいろな民族や人間に働くさまざまな力を指して言っています。それゆえに、神とキリストについて言われる「全能の」ということばはこれらすべてを凌駕し支配するという意味で、一言で「キリスト教世界観」を表す言葉です。
その一方で聖霊や天使については、聖人(個々の聖人)ほどは考えられてこなかったのではないでしょうか。でもいわばそのような中間的存在、神の御心、神の意志、神のことば、神の在り様を人に伝えたり、人間の上に立って、神を敬い、礼拝したり存在は、どの宗教にもあるような気がします。
マタイ28章2-3節で「主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった」とあるところです。このときの天使の現れについて、マルコ16章5節だと「白い長い衣を着た若者」とあり、ルカ24章4節だと「輝く衣を着た二人の人」 、ヨハネ20章12節だと、マグダラのマリアに「白い衣を着た二人の天使」が現れるという述べ方になっています。
いずれも天使による復活のお告げなのですが、イエス誕生のときのガブリエル、そしてイエスの復活のときの天使は、ただ、新約聖書の語る物語の中の存在だけではないということです。
そこに登場する人たちだけのためにではない、ということ。ミサの聖書朗読を通して、天使はいつもわたしたちにキリストについてのメッセージを発しているということです。
(構成:石井祥裕)