田口哲郎(つくば教会)
クリスマス、天使と言えば、受胎告知に登場する大天使ガブリエルでしょう。15世紀フィレンツェの画家フラ・アンジェリコの絵画が思い浮かびます。美しい園で、ガブリエルがおとめマリアに聖霊によって御子を宿されたことを告げる場面が神々しくもやわらかなタッチで描かれています。女性を思わせる柔和な表情、淡い色の長衣、そして大きな翼のある姿は典型的な天使像です。
天使といえばこの翼がシンボルですね。天使は神さまと人間の中間的存在で、神さまと人間を仲介する役目を担っています。神さまからの福音を人間に伝える御使いですから、天から降りて、また天に昇るので翼が必要です。人間からすれば、神さまのおられる天上に飛んで行ける天使はあこがれです。ギリシア神話のイカロスは太陽神アポロンに近づきたいあまり、ロウで作った翼を背負って飛び立ちますが、太陽の熱で翼が溶けて地に堕ちてしまいます。
それほどまでに天空を飛ぶ翼は人間を魅了してきました。重力から解き放たれて、自由に飛び回り、神に近づけること……それは日ごろ重力にしばられ疲れている人間にとっての解放であり、神を求める祈りとも言えるものでしょう。
わたしは天使を幻視したことはないのですが、自分が天使の翼を得たかのように解放を感じた夢を見たことはあります。その夢幻のなかで、翼は背中ではなく、靴についていました。羽根のついた靴の夢の不思議な話です。
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2015年、東京目黒のカトリック碑文谷教会でのシスター古木涼子さんの講演会に行きました。シスター古木はイエスのカリタス修道女会の総長をされた方で、歌うシスターとして有名です。その会で素晴らしい歌とお話を聴き感動しました。
それからひと月ほどしたある夜、わたしは夢を見ました。ジャズクラブ風の場所でステージにはシスター古木。グランドピアノを弾きながら歌っています。わたしは客席にいて良い曲に感涙を流していました。
曲の内容は旅人が多くの困難を乗り越えるというもの。旅人が果てしない道に絶望し泣いていると風が吹き、気づくと羽根のついた革靴を履いている。その靴のおかげで旅人は苦しみから解放されます。旅人は「仕込んだわけでもないのに羽根のついた靴が与えられた」と呟くのです。すると色んな人々がバックスクリーンに映し出され、泣き顔が笑顔になる。そしてみんな「この靴をはかせてもらってうれしい」と言うのです。
大空を飛びながら神さまを求めることのうれしさはこの上ない……曲に酔いしれていたら、足の痛みでわたしは目覚めました。足がつったのです。ケガの巧妙か、歌の歌詞を覚えていたので、痛みに耐え、必死で書き留めました。
「羽根のついた靴」
果てない道に
ふと もういいと呟き
泣きながら あなたを呼ぶと
やさしい風が 通りすぎた
わたしの足には 羽根のついた靴
ふわりと ときはなたれて
わたしはゆく あなたとともに
わたしはゆく あなたとともに
険しい道に
ふと もういいと呟き
泣きながら あなたを呼ぶと
ささやく風が 通りすぎた
わたしの足には羽根のついた靴
ふわりと ときはなたれて
わたしはゆく すべてをゆだね
わたしはゆく すべてをゆだね
……私は数日間、黙想した末、面識もろくに無いのに思い切って夢のことをシスターにメールしました。シスターは喜んでくださり、歌詞にメロディをつけたいと仰いました。出来上がった曲はまさに夢の中で聴いた曲でした。私に音楽的才能はないのでシスターに伝えたのは歌詞だけです。せめてと思い、夢の光景を絵に描いて送りました。シスターは曲を早速録音してYouTubeで公開しました。私の絵が背景に映ります。私は狸穴窓という筆名で紹介されています。
これはもしかして偶然の連続でしかないのかもしれません。でも、羽根のついた靴は不思議にわたしの心を癒しますし、聴いた方がこの歌で癒されたと言ってくれることもあります。共感が生まれたようでうれしいですし、単なる偶然の産物とは思えないのです。
神さまが典型的な天使の姿ではないけれども、良い知らせを羽根のついた靴の夢幻として、そしてなにより素敵な歌声で送ってくださったのだと強く感じます。疲れた心がこの曲を聴くたびに解き放たれて、神さまの存在を信じることができる。イエズスさまも「重荷を負って苦労している者は皆、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)と言っておられます。この不思議な靴を御使と信じ、主の御降誕をお祝い申し上げます。