縄文時代のイキイキ生活 ②イノシシと蛇と子抱き土偶


 森 裕行(縄文小説家)

7歳の時(1958年頃)の異文化体験。南西アラスカのシトカという島嶼部の町に父母と暮らしたが、早春に父と一緒に船に乗って一日を過ごしたことがあった。静かな湾は薄い氷がはっていたように思うが、父と同じ日本人のMさんの他に、鉄砲を持った外人も乗船してMさんと楽しく熊の話をしてから、途中で下船された記憶がある。

そのアラスカのヒグマで思い出すのは、昨年、小田原の「生命の星・地球」博物館でのアラスカの最大級のヒグマの剥製で、見慣れた日本の動物園でみるような熊ではなく本当に驚いた。異なる環境、異文化には気をつけなければならないのだ。

縄文人の食文化についてこのところずっと考えていた。縄文人が接していた300種類以上の植物も主食がどうだったかなど大事ではあるが、縄文時代は狩猟の時代でもあり、その実態を体感することは大事だと思う。この夏、種子島の縄文ツアーに参加したが、35,000年前の落し穴や礫を使った石蒸し料理の遺構を見学し、私にとって近寄りがたかった狩猟の世界も少し身近に感じるようになったばかりでもあった。

そして、土器や土偶に現れている動物の文様についていろいろ考えるようになってきた。それも、現代文明の延長から考えるというより、自然に密着する縄文人の目線を意識してだ。この11月に八王子市川口町で子抱き土偶を中心に縄文の話をすることになって、縄文時代ではかなり山奥で、狩猟に適した圏央道の工事で発掘された十内入(とうないり)東遺跡の現地に行ったりした。この遺跡の住居址は中期後半の一軒だけだったが、18,000㎡の遺跡内に落し穴が300以上も見つかった。

これは何を捕るための落し穴だったか興味あるところである。動物考古学の知見から、縄文時代には60種類等の動物が捕獲されていたことが分かっているが、イノシシとシカが大半だったようである。特に縄文時代はイノシシが多く、動物考古学の知見から縄文時代は今より大きなイノシシだったようで、その落し穴もイノシシを強く意識していたのではないだろうか。そして、イノシシを貴重な食糧として、今と違って骨の髄まで骨を割って食料とするだけでなく、皮や骨も衣服、装飾品、骨針、釣り針、海の民の銛などとして交易にも活用されたのだろう。

蛇足だが、安孫子昭二氏よりお聴きしたが発掘現場での試掘の穴などに蛇やカエルが落ちてしまうこともあるようだ、そこでのイノシシとのバトルもあるかもしれないが、人が蛇やカエルをありがたい獲物として利用したこともあるだろう。

さて、縄文人にとって動物はどういう意味上の特徴をもっていたのだろうか。「縄文時代の愛と魂」でも触れたが、蛇が日本の縄文時代で大事にされ、今でも注連縄や鏡餅がその名残のようだが、民俗学者の吉野裕子氏は「蛇」(法政大学出版部 1979)の中で「死と再生」の意味を強調されていた。その功績は今でも素晴らしいと思うのだが、縄文中期の土器や土偶に表現されている動物は、蛇だけでなくイノシシやカエルもあることが通説となってきた。今回は月に関係の深いカエルは割愛し、イノシシについて触れる。縄文前期後葉の諸磯bの土器には明らかにイノシシとわかる図像が土器の口縁部に突起状に表現されているが、中期中葉にもイノシシとわかる把手等に引き継がれているようだ。

イノシシがなぜ蛇と同じように縄文中期中葉に甲信・関東南西部で扱われてきたのだろうか。それは人に畏れを抱かせる特徴もあるからだろう。イノシシはマムシのように猛毒をもってはいないが、牙を持ち犬の3倍くらい速く走り、恐ろしい危害を加える危険な動物であるからだ。さらに、犬以上と言われる嗅覚で地中の動物やヤマイモなどを見つけ食べてしまう。蛇を好物として食べてしまうことも畏れを抱かせるのではないだろうか。吉野裕子氏は1989年に縄文の神を表すと言われる「山の神」を上梓しているが、景行天皇の条のところで、日本書記が「山の神」の本性を「蛇」としているのに対し、古事記では「白猪」としていることに触れている。ヤマトタケルの物語にでてくる英雄が戦う相手が、蛇だけでなくイノシシでもあることを大きく取り上げている。 そして、イノシシの特徴のもう一つは、多産(安産でも)であることだ。一度に10匹以上産むことも珍しくないという。これは、縄文中期中葉の甲信・南西関東の文化圏で祭儀に用いられた出産土偶・土器(結婚から妊娠、出産に関わる祭儀に関わる)とも関係するだろう。もちろんめでたい出産のイメージは、栗、クルミ、堅果類、豆、ヤマノイモなどの豊作や仕留めた動物の再生への願いにも通じるのだろう。

40日ごとに脱皮し再生を繰り返す蛇。そして、多産で獰猛なイノシシ(幼獣のウリボウを育て、祭りで送ることもあっただろうが)。さらに、女性の姿の地母神は縄文中期の甲信・南西関東で、三者で相互に影響しあう物語として土器に4単位の把手、あるいは2単

位の把手として表現されているようである。それもメビウスの輪のように相互に溶け合ったイメージとなり、広く伝承されたであろう。こころの安らぎをもたらす神話や物語に昇華されていたかもしれない。

さて、土偶の例として八王子市川口町宮田遺跡の子抱土偶を考えてみたい。

この像は、結婚、妊娠、出産の最後のプロセスを具象化したところがあり、横座りし呪術の意味もあるのだろうか、お包(くる)みをつけた赤子(地母神の子か)を抱き、授乳している姿は愛の表現だが、産道がまだ開かれていて、腹部もまだお産前のように膨れ臍も奥深くなっているのは出産直後を表している。さらに、右腕は蛇のように子をしっかり

抱いている。これは死と再生を表す蛇を象徴的に表しているのではないだろうか。さらに背中はお婆さんのように背骨が盛り上がっている。なかなかの謎だが、私にはイノシシのたてがみのように思えてならない。さらに底の産道と赤子を抱く部分が見られる角度からは、両足が鼻の位置となり左目がつぶれ開いているイノシシの両目が浮かんでくる。また、さらに回転すると右手の脇から光が漏れ、右の底の穴と一緒にイノシシの鼻となるのではないだろうか。

子抱き土偶は、地母神の誕生を蛇とイノシシという別のイメージとも重ねた縄文中期中葉の精神文化の結晶なのではあるまいか。

そして、時代が縄文中期後葉になってくると、土器や土偶の具象的な表現はより洗練された抽象的でもある、水煙文土器や火炎式土器に替わるが、基本的な伝承・物語は変わらないのではないだろうか。次の藤内期の土器と曾利期の土器をご覧ください。

最後に蛇もそうだがイノシシも日常の中では嫌われることが多い。旧約聖書の詩編には葡萄畑を荒らすイノシシが描かれている。しかし、そんなイノシシは古今東西でどこか愛されているところがあり、聖獣ともいえるかもしれない。

どうして あなたは石がきをこわされたのか。

道行く人が  その実を摘み

森のいのししが荒らし

野のけものが食い荒らしている

(詩編  80:13,14  典礼委員会  詩編小委員会  あかし書房  1972)

*「縄文中期のイノシシ儀礼」中村公省 2024を参考とさせていただき、子抱き土偶を見る新たな視座を与えていただきました。ありがとうございました。


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