中野春香(純心聖母会)
私の祖父母は90歳近くなり、いよいよ足も弱ってきた。小学生の頃、戦争について祖父母に聞いてみたことがある。当時まだ5、6歳だった祖母は、疎開先の広島の田舎から原爆の光を見て、「大きな花火みたい」だと思ったそうだ。そして後から分かっていく現実に頭がついていかなかったと言った。一方で祖父は、「戦争のことは思い出したくもない、語ることなど何もない」と言った。相当辛いことがあったのだろう、戦争とは恐ろしいものなのだと思った最初の体験である。それ以来、私は祖父にこの話題を持ち掛けたことはない。
昭和と平成の境い目に東京で生まれた私だが、今は、長崎生まれの修道会、純心聖母会に所属し、長崎の爆心地からほど近い、純心中学校・女子高等学校で働いている。修道会は今年創立90年を迎え、学校は来年創立90周年を迎えようとしている。そして長崎は来年、被爆80年の節目を迎える。
開校10年目、やっと軌道にのりはじめた学園は原子爆弾によって一瞬のうちにすべてが灰となり、生徒、教職員ら214名と多くの関係者も犠牲となった。修道会の共同創立者であり、校長を務めていたシスター江角ヤスは、全生徒の三分の一あまりを失った悲しみとその責任感から、学校を閉鎖し、観想修道会に入ってその生徒たちのために祈ろうと考えたという。しかしその後、被爆した生徒たちの遺族から「聖歌を口ずさみ、ロザリオを祈りつつ、学園への思いを口にしながら」苦しい中でも、平和に優しい心で息を引き取っていったという話が、幾つもシスター江角のもとに届いた。「純心の教育は間違っていなかった」との新たな確信のもとに、学園の復興が図られることになり、今に至っている。
このように、長崎原爆の歴史と切っても切れない関係にある母体の中で、長崎生まれでもない私は、どのような距離感で長崎原爆と向き合えばよいのかと、ずっと足踏み状態だった。だが、そうこうしているうちに、戦後という時間が流れてしまっていることにハッとした。担当する高校の宗教の授業で平和について生徒たちと話しながら、戦後79年という時間の大きさに焦りを感じるようになっていた。原爆のことを語れる人が減り続け、世の中はあの日のことを忘れたかのように動き続けている。
私の一日は、生徒たちとともに捧げるロザリオの祈りで始まる。これは純心の伝統の一つで、70年以上続けられている平和のための取り組みである。終戦を迎えて日本の戦争は終わったけれど、隣国では新たな戦争が起こっていることに心を痛めた当時の生徒たちの発案で、世界平和のためにロザリオの祈りを捧げることが始められた。毎日祈っても戦争は終わらないと絶望するのではなく、平和が訪れることに希望をおいて祈りをつないでいこうと、夏を迎えて心を新たにした。
今年の夏、本校で毎年行っている原爆慰霊行事とその背景について番組にまとめたいとのことで、被爆と復興についてのテレビ取材を受けた。私は何も語れないのだが、当時を知るシスターへのインタビューなどをそばで見つめた。90歳を迎えるシスターは「これが最後かもしれない」とつぶやきつつも、伝えることの使命感から自分を奮い立たせていた。
犠牲者への追悼、被爆校としての思い、平和への願い。そして、継承。
戦後の日本に生まれ住む私たちには、戦争の悲惨さやその生活を想像することは非常に困難になっている。場所や時代や環境が少し違っただけでも、「戦争」への思いはまったく違うものだろう。自分事としてそれを捉えて活動している人がいれば感心し、何か強烈なきっかけがあったのだろうと思いをはせたりもするが、世界情勢の複雑さについていけないと言って、関心事を他にそらすことも簡単だ。
終戦79年を迎えて、やっと私は傍観者ではなく歴史の関係者になってもいいのだと思えるようになった。戦争の歴史はずっと変わらず流れ続けていて、自分からそこに近づいて、巻き込まれてもいいのだと思えるようになったのは、戦争の歴史を次の世代に残そうと、さまざまな立場で関わる人たちに触れた、ここ最近の出来事があったからだと思う。ここにきて、私もその末席に連なってもいいのかもしれないという、覚悟にも似た思いをようやく持てたのである。
これが、関係者になっていくということなのではないかと考えている。