我が人生の黄金時代


P.Y.I.

今回の企画趣旨を聴きながら、自分の心に何度も回帰する学校時代の思い出が蠢(うごめ)き始めたので、概要を綴り出してみることにする。もう遠く55、6年前の思い出……生まれ故郷S市K中学校の2年から3年にかけてのクラスのことである。

中学1年のときに在籍していた中学校が統廃合の対象となり、数名ずつ近隣のいくつかの中学校に移籍転校するという流れのなかで、自分も初めて転校して入ったクラスだった。春先はまだ雰囲気が固かったが、やがて、いくつかのことがきっかけで、生徒の間にはみるみるうちにダイナミックな関係性が生まれていった。

きっかけの一つはサッカー同好会の形成だった。当時は1968年。メキシコ・オリンピックで釜本邦茂選手をストライカーとして擁する日本代表チームが銅メダルを獲得するという快挙をなしとげた年である。その前後、日本サッカーリーグの試合や日韓戦などがテレビ中継される大変なサッカーブームとなり、その影響のど真ん中にいた。たまたま私の自宅近くに芝生のある公園があり、恰好の場所としてクラスの男子の大半が参加する形でサッカーに興じることになった。その学校にはサッカー部がなかったため、まったくの同好会活動にとどまっていたが、それでも市民体育大会に参加を申し込むということまでいったほどである(1回戦で撃沈するが)。

そんな活動がきっかけで、クラスメートが自由にかかわり合う場が生まれたことで、学校内でのクラスの雰囲気もめきめきと活気を帯びていった。その真骨頂というべきか、何かにつけてテーマを見つけては自主討論会を行うという流れが生まれた。なんのことで議論したかは覚えていないが、とにかく皆、燃えていた。「道徳」という教科の時間にも、担任の教師(英語担当)に「これこれのことで今回はクラス会議をさせてください!」とたびたび請願し、その教師は許してくれていた。「これがほんとうの道徳教育だよな」と、その教師がしみじみ語っているのを聞いたことがある。学年主任かどうか、ベテランの別組担任教師(国語担当)が「道徳」の教科の時間をそのような活動のために使わせていると聞いて、目くじらを立てた瞬間があった。おそらく教員間で、我が担任の英語教師の対応は問題にされたのかもしれない。

ともかくも、その中学2年、3年の間、授業も行事もいたって普通だったが、その中にいる生徒同士が生き生きと反応し合う空気感は最高だった。中学3年の夏まで、この活気は続くが、当然、高校受験・卒業へと向かうなかで消えていく。それでも、このクラスについて、自分の中でかなりはっきりと「これ最高だな!」「黄金時代だな」という自覚がすでにあった。その後の人生の基準になるほどに。まず高校時代は全く暗転し、大学にもそれが尾を引き、その後、生まれた教会とのつながりの中で、その時代を思い起こさせる雰囲気に近いものを感じることがたまにある程度である。1968年といえば、日本は学生運動真っ盛り、お隣の中国では文化大革命、アポロ8号が初めて月の向こう側を周回して帰還した年……そうした熱い時代の世界の動向と自分の学校経験がどれだけ関連し合っていたのかはわからない。しかし、自分が1950年代生まれ、1960年代育ちであることを誇りに思わせてくれる、大きな学校体験であった。

先日、実家の片づけの最中にその中学時代のノートが出てきた。「サッカー」と題されており、練習や試合での自己プレーの反省などが書き込まれている雑記帳だが、その最後のページに、その中学2年、3年と続けて一緒に過ごしたクラス全員の集合写真(3年時)が貼ってあった。心から愛したクラスの記憶を、当時から大切に保存していたのだ。一人ひとりの雰囲気や個性がよみがえってくる。55年も前のもので、今は外見も皆ほとんど変わっているから公開してもよいだろう(かえってだれかから連絡でも来ないかなと期待しています)。今年70歳になる世代の14、5歳のときの姿、私にはみな天使たちに見える。中央の校長先生の(向かって)右にいる担任の先生はさながら大天使……? 自我意識がしっかり育ってくるなかで、皆が互いに認め合い、生き生きとかかわり合っていた、あの“熱い年”の記憶は、今もかけがえのない宝であり、希望の力である。

 


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