起きよ、光を放て イザヤ書60章1~3節


佐藤真理子

起きよ、光を放て。あなたの光が望み、主の栄光があなたの上にのぼったから。見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる。もろもろの国は、あなたの光に来、もろもろの王は、のぼるあなたの輝きに来る。

(イザヤ書60章1~3節)

今、世界では初代教会に立ち返り、「全てのキリスト者が主体的にキリストの弟子として生きる」ということに対し真剣になろうとする人々が増えています。これは今に始まったことではなく、ルターによる「万人祭司」という言葉も本来同じ思いから発せられているのだろうと思います。あるいは内村鑑三の「無教会主義」やブレザレンを始めた人々が目指したものも本来このような思いから出たものなのだと思います。

これは上記に挙げたようなプロテスタントだけの話ではなく、全ての教派に共通することだと思います。須賀敦子さんというカトリックのイタリア文学者のエッセイには、とても具体的に、文字通り全てのキリスト者がキリストの弟子として生きることの大切さが書かれています。彼女の「教会と平信徒と」というエッセイの文章をぜひ読んでいただきたいと思い、その一部をここに引用します。彼女の言葉はどの言葉もとても大切なものだと感じられたので、引用した部分はどこも削ることができないと思いました。それゆえ長めの引用となりますが、ぜひ読んでいただけると嬉しいです。

平信徒という、現在、日本の教会で用いられている言葉をぎこちなく感じるのは、私だけなのだろうか。平信徒というと、重役などに対しての平社員とか、将校に対しての、ただのヘイタイとかいうように、誰かよりエラクない階層の人々というイメージがあって、わたしには心底納得がゆかない。ひどく消極的な印象をあたえるようで、残念でならない。この訳語のギリシア語では、ラオスといって(フランス語などで、ライックというが)、聖書では、神の民を指す言葉であったという。それは、神にえらばれ、洗礼によって聖とされ、主の家の集まり――教会――の一員となった人びとを指した、輝かしい言葉なのである。(司祭や修道者が、「聖なる」人々で、平信徒は「俗人」という、悲しい、しかも、そそっかしい誤解を、もう卒業してもよいころと思う。洗礼と堅信によって、キリスト教徒は、キリストの声明に、全的にあずかり、ひいては、キリストの司祭職にも参加することになる。かれらは、聖なる民なのであり、教会の中で、司祭にくらべて、ひくい存在ではあり得ない)

平信徒使徒職という言葉も、また、自然さに欠けていて、なじめない。どうして、人生を、そんなに「役目」にわけたがるのか。どうして、もっと人間らしい、厚みのある生き方を目指さないのか。

生きることが、大切なのだと思う。生きるとは、毎日のすべての瞬間を、愛しつくしてゆくことである。それは、「現世」に目をつぶって、この世を素通りしてゆくことではない。愛するとは、人生のいとなみを通して、神の創造の仕事に参加することなのである。

(平信徒使徒職という、貧しい言葉は、このような、すばらしい内容をはらんでいる。それは、教会で神父様の手伝いをするとか、教会の掃除とか、青年会や信徒会で活躍するとか、そんなところで終わってしまっては、なにもならない。これらの活動は、そんなことが好きな人がやればよいので、教会のほんとうの生活という観点から見ると、ほんのかけらと言ってよいものなのだ)

平信徒使徒職は、だから、カトリック・アクションというような、狭い枠にとじこめられてはならない。それは、生きて、息をしているのと同じように、洗礼によって、われわれにそなわった、自然な召命なのである。使徒職を行うということは、だから、職場の同僚に、学校の友人に、福音の言葉を語ってきかせることなのではない。徳高き信者となって、人びとの模範となることでさえない。

キリスト教徒の召命を生きるということはすなわち、神の御言葉を、すなわち、愛を、どのような逆境にあっても、もちろん、どんな楽しい時にでも、本気で信じているものとして生きることなのである。それは、だから、日常のあらゆる瞬間を、心をこめて生きることにほかならない。

(須賀敦子『須賀敦子全集 第8巻』「教会と平信徒と」2007年、286~288頁)

このエッセイは何十年も昔に書かれたものですが、今なお新鮮で新しい発見のある言葉だと思います。キリスト者であれば、誰もが生き生きとキリストの命を生きることができることを心から訴える文章だと思います。

私自身、「あなたが宣教師」「まことの宣教」「信じるゆえに語る」といった過去の記事で、役割にかかわらずキリスト者皆が宣教師であることを伝えてきました。また教会とは建物ではなくキリストを信じている「一人ひとりが教会」だということは、私が生涯を通して伝えていきたいことだと思っています。

私はこの文章を読み、須賀さんは自由に誰もが何の制限もなくキリストの使者として羽ばたくことができるということを切に訴えているのだと感じました。勿論教会の中では今現在それぞれの役割があるかもしれません。ただ、神様の目には皆等しい存在だからこそ、何にも縛られずにキリストの弟子として誰もが生きてよいのだと思います。そして、それはどの教派の人にとってもそうなのだと思います。地上にある自分の所属で自分をブランディングしてしまうことは、時に大切なことを見失わせてしまうこともあります。何に属するどの立場であっても、キリストにとって私たちはただ「愛する子」なのです。

また、須賀さんの文章からは、生きることが礼拝なのだという思いが伝わってきます。ローマ人への手紙12章1節にはこうあります。

兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。

毎日私たち自身がキリストの手足としてキリストの香りを放つものとして神とともにいきること、これが本当の礼拝なのだと聖書は語っています。

勿論、教会で持たれる礼拝も大切ですし、教会の催し物のために動くことも良いことなのですが、私自身、自分がそれに囚われすぎていたと感じた経験があります。

これから年末年始に向けて、今の季節には毎年クリスマスや元日など、家族が皆で集まって過ごせる貴重な機会があります。教会でそういった機会に礼拝や催し物があると、私は以前は必ず参加していました。勿論そこに喜びや参加したいという積極的な思いがあるのですが、神学生になってからは特に、どこか外せないノルマと化しているようなところもありました。もともと私の家族は全員が教会での礼拝に毎週参加していたわけではありません。毎年、普段礼拝に参加しない家族は、礼拝に行く私や家族を快く送り出してくれました。

教会で様々な出来事があり、私や教会に通っていた家族は辛いことも経験しましたが、普段教会に行かない家族も、その間ずっと味方でいてくれました。そして、自分自身にどこか重荷のように課していたノルマのようなものから解放されたとき、私は自分の「教会に行かなければ、礼拝に行かなければ」という思いが、大切な時に家族を分断していたことに気付きました。勿論、教会で受ける恵みは素晴らしいものです。ただ、私たちの真の礼拝は生きることそのものなのだと気付いたとき、私はいろいろなものから解放され、自分を本当に大切に思ってくれる人たちを改めて大切にすることができるようになった気がします。もしこれを読んでくださっている方にキリスト者でない家族がおられる方がいらっしゃれば、私のこの経験が何か参考になれば嬉しいです。

今年もクリスマスが近づいてきました。クリスマスは、世の光であるキリストが、人の子の姿として世に来られた出来事です。キリストを信じる私たちのうちに、キリストは生きています。私たち一人ひとりの中に、光があるのです。それは立場や場所に関係なく、世を余すことなく輝かすことのできる光です。私たちのうちにあるキリストの光を輝かせて、今私たちのいる場所を明るく照らしていきましょう。

 

佐藤真理子(さとう・まりこ)
東洋福音教団所属。
上智大学神学部卒、上智大学大学院神学研究科修了、東京基督教大学大学院神学研究科修了。
ホームページ:Faith Hope Love

 


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

17 − fourteen =